婚約破棄された公爵令嬢ですが、奪った義妹も捨てた王太子も継母も、全員まとめて地獄へ落とします

こもど

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第三十二話 あなたたちは、ここで終わりです

第三十二話 あなたたちは、ここで終わりです

冬の終わりの風は、まだ冷たかった。

ヴァルモン公爵家の馬車が止まったのは、王都から離れた地方の外れだった。華やかな屋敷も、磨かれた石畳もない。あるのは踏み固められた土の道と、風に乾いた草の匂いだけ。遠くには粗末な建物が並び、その向こうで働く人影が小さく動いている。

エルシェナは馬車の窓から外を見ていた。

今日ここへ来たのは、確認のためではない。報告はすでに受けている。エドガーがどう落ちたかも、セラフィナがどう生きているかも、イザベルがどこで何をしているかも、書面の上ではすべて知っている。

それでも、最後に自分の目で見る必要があった。

終わらせるために。

向かいに座るグラハムが静かに言う。

「まずは、元王太子の方からでよろしいでしょうか」

「ええ」

馬車が止まる。

扉が開かれ、冷たい空気が流れ込む。エルシェナはゆっくりと地面へ降りた。裾の長い外套の下でも、その立ち姿はまったく揺るがない。むしろ、こんな場所にいるからこそ、彼女の格の違いは際立って見えた。

労役場の管理官が深く一礼する。

「お待ちしておりました」

「無理を言ってごめんなさいね」

「いえ。記録上も問題はございません」

その応対に、かつてエドガーへ向けられていたような媚びは一切ない。だがエルシェナへは、静かな敬意があった。それだけで、すでに答えは出ているようなものだった。

管理官に案内されて倉の裏手へ回ると、そこにエドガーはいた。

粗末な作業着。
泥のついた靴。
腕まくりした袖口は汚れ、手には赤く荒れた痕がある。

少し前まで、王太子の礼装に身を包み、王宮の中央に立っていた男とは思えなかった。

エドガーは最初、こちらに気づかなかった。

だが見張り役が足を止めたことで顔を上げ、その瞬間に凍りつく。

「……お前」

声が掠れていた。

信じられないものを見る目だった。
屈辱にまみれた今の自分を、もっとも見られたくない相手に見られたのだ。

エルシェナは数歩手前で止まる。

近づきすぎない。
それが今の二人の距離だった。

「お久しぶりですわね、殿下」

その呼び方だけが、かえって残酷だった。

エドガーは顔を歪める。

「やめろ……」

「何を?」

「その呼び方だ!」

感情が噴き出す。

「馬鹿にしているのか!」

エルシェナは首を傾げた。

「まさか」

静かな声だった。

「私はただ、あなたがかつて何だったのかを思い出していただきたかっただけよ」

その一言で、エドガーの肩が揺れた。

管理官も見張りも黙っている。誰もこの男を庇わない。

エドガーは荒く息をし、やがて低く吐き出す。

「見に来たのか」

「ええ」

「惨めな私を見て満足か」

「いいえ」

エルシェナははっきりと答えた。

「確認しに来ただけよ。あなたが本当にここまで落ちたのだと、自分の目で」

エドガーは唇を噛みしめた。

かつてなら、その顔に怒りをぶつければ少しは気が晴れたのかもしれない。だが今、目の前の女は怒りですら受け取ってくれない。ただ事実として、自分の転落を見届けに来ている。それが何より堪えた。

「……お前が」

やがて、彼は絞るように言った。

「お前が戻っていれば、こんなことにはならなかった」

その言葉に、エルシェナはまったく揺れなかった。

「まだそんなことをおっしゃるのね」

「違うのか!」

エドガーが半歩踏み出そうとする。

すぐ横で見張りが動いただけで、彼はまた止まるしかなかった。

「お前が私を見捨てたからだ! 少しでも支えていれば、父上だって、王宮だって――」

「殿下」

エルシェナが遮る。

その声音はひどく静かで、だからこそ逆らえない響きがあった。

「私はあなたを見捨てたのではないわ」

一拍置く。

「あなたが、自分で私を捨てたのよ」

沈黙。

それは何度でも彼を刺す真実だった。

エドガーは何も言えない。

言えないまま、ただ肩を震わせる。

エルシェナは彼を見下ろした。

「あなたは、王になる器ではなかった」

その言葉は冷酷だった。

だが同時に、今さら飾りようのない真実でもあった。

「それでも、周りが整えれば立てたかもしれない。けれどあなたは、その整えてくれる手を自分で切り落とした」

エドガーの目がゆがむ。

「だから、ここで終わりです」

それが彼への最後の言葉だった。

エルシェナはもう振り返らない。

エドガーは何かを叫んだ。
名前か、罵倒か、言い訳か。
だがそのどれも、風に散るだけで意味を持たなかった。

次に向かったのは、セラフィナが押し込められている遠縁の男爵家だった。

屋敷と呼ぶには古びた建物で、外壁はくすみ、庭も手入れが行き届いていない。通されたのは正面の応接間ではなく、使用人たちが出入りする裏手に近い場所だった。

それだけで十分だった。

主人家族にとって、セラフィナは客ではないのだ。

やがて、呼び出されたセラフィナが現れる。

最初、エルシェナは一瞬だけ誰か分からなかった。

顔色は悪く、髪の艶も落ち、服は粗末な地味色。袖口には洗いきれぬしみがあり、指先は荒れていた。

それでも面差しには、まだかつての名残がある。
だからこそ、その落差がひどく痛々しかった。

セラフィナはエルシェナを見た瞬間、目を見開いた。

「……お姉様」

その声には、驚きと、恥と、そしてまだ消えきらない甘えが混じっていた。

エルシェナは少し距離を置いたまま立つ。

「久しぶりね」

セラフィナの喉が動く。

目の前の姉は、何ひとつ変わっていなかった。美しく、静かで、きちんとしていて、ここがどれほど惨めな場所でも少しも揺らがない。

そのことが、何よりみじめだった。

「どうして……」

セラフィナは震える声で言う。

「どうして、ここへ……」

「確認よ」

エルシェナは答える。

「あなたが、今どう生きているのか」

その言葉で、セラフィナの目に涙がにじんだ。

「……満足?」

「いいえ」

「では何をしに来たの!」

急に声が高くなる。

「もう十分でしょう!? わたくし、こんなところにいて、あんなものを食べて、あんな人たちに命令されて……!」

言いながら、とうとう涙がこぼれた。

以前なら、その涙だけで周囲は勝手に彼女を可哀想だと決めつけただろう。

だが今、それはただの遅すぎる涙でしかない。

エルシェナは静かに言う。

「そう。大変そうね」

慰めにもならぬ返答だった。

セラフィナは顔を歪める。

「……どうして助けてくれないの」

その一言に、部屋の空気が止まった。

まだ言うのかと、グラハムでさえ一瞬だけ目を伏せた。

「助ける?」

エルシェナは繰り返す。

「妹でしょう!? 家族でしょう!? わたくし、こんなところにいて……!」

「ええ」

エルシェナはうなずいた。

「あなたは妹だったわ」

そこで言葉を切る。

「でも、あなたは私を姉として扱わなかった」

セラフィナが泣きながら首を振る。

「だって……だって、お姉様は何でも持っていたじゃない!」

とうとう本音が零れた。

「きれいで、賢くて、皆がお姉様を見て……! わたくし、ずっとお姉様の影だった!」

エルシェナはただ聞いていた。

「だから少しぐらい、欲しかったのよ! お姉様のものを! わたくしにだって……!」

そこで声が崩れる。

自分でも、何を言っているのか分からなくなっているのだろう。

欲しかった。
羨ましかった。
奪いたかった。
その結果が今なのだ。

エルシェナは低く言った。

「欲しかったのなら、自分で手に入れるべきだったわ」

セラフィナは息を呑む。

「誰かのものを奪って、自分の価値になると思ったのなら、それが間違いだったの」

その一言が、容赦なく刺さる。

セラフィナは崩れそうな顔で、なおも手を伸ばしかけた。

「お姉様、お願い……」

その手が届く前に、エルシェナは一歩下がる。

それで十分だった。

もう二人の距離は決定的に戻らない。

「あなたも、ここで終わりです」

セラフィナの顔から最後の希望が抜けた。

泣き声だけが、古い部屋に小さく残る。

最後に向かったのは、イザベルの送られた施設だった。

そこは最も空気が冷たかった。

石造りの建物。
細い廊下。
乾いた布と薄い石鹸の匂い。
働く女たちの足音。

イザベルは作業室の一角から呼び出された。

彼女は最初、誰が来たのか分からぬ顔をした。だがエルシェナの姿を見た瞬間、その目に複雑な色がよぎる。

怒り。
恥。
恐れ。
そして、最後の最後で残っている虚勢。

「……来たのね」

声はまだ、公爵夫人だった頃の形を保とうとしていた。

だが服は粗末で、手には荒れがあり、目元には隠しようのない疲れが刻まれている。

もう何もかもが遅かった。

エルシェナは静かに立つ。

「ええ」

「笑いに来たの?」

「いいえ」

「では、勝ち誇りに?」

「それも違うわ」

イザベルは薄く笑った。

「相変わらず、面白くない子ね」

「そうかしら」

エルシェナは首を傾げる。

「お義母様は、私を面白がったことがあった?」

その返しに、イザベルの笑みがほんの少しだけ崩れた。

「……あなたは、最初から邪魔だったのよ」

ついにそれを言った。

「この家にいて、何も言わなくても人を集めて、立っているだけで“本物”みたいな顔をして」

「本物、ではなくて?」

「黙りなさい!」

声が荒れる。

監督役が一瞬こちらを見たが、グラハムが静かに目配せすると何も言わずに下がった。

イザベルは荒い息のまま続ける。

「わたくしは努力したわ。笑って、気を配って、夫に合わせて、社交を回して、娘を飾って……なのに、あなたは何もしなくても上にいた」

エルシェナはその言葉を否定しなかった。

何もしなかったわけではない。
だが、今ここでそれを数え上げても意味はない。

イザベルにとって重要だったのは、自分より上にいる者が許せなかったという、その一点なのだから。

「だから、落とそうとしたのね」

エルシェナが言うと、イザベルは唇を歪めた。

「そうよ」

やけになったような声音だった。

「あなたがいなければ、セラフィナがあの位置に立てると思ったの。あなたの名を汚して、あなたに責任を被せて、少しずつ削っていけば――」

そこで言葉が止まる。

もう続きを言わなくても十分だった。

エルシェナは静かに言った。

「でも、無理だった」

イザベルの指が震える。

「……ええ」

それを認めるしかなかった。

どれだけ金を使っても。
どれだけ飾っても。
どれだけ裏で細工しても。

本物の代わりには、結局なれなかったのだ。

エルシェナはほんの少しだけ目を伏せた。

「お義母様」

「何」

「あなたも、ここで終わりです」

その一言に、イザベルの顔から最後の色が消える。

妻としても。
母としても。
公爵夫人としても。
全部終わった。

残るのは、ただここで働き、黒パンを食べ、寒い寝台で老いていくだけの女。

イザベルは何か言おうとした。
呪いか、罵りか、泣き言か。

だが結局、どれも形にならなかった。

言葉になる前に、自分でも分かってしまったのだろう。

もう届かないのだと。

エルシェナは三人に同じものを残した。

助けない。
振り返らない。
二度と戻らない。

それが何より残酷だった。

帰りの馬車の中で、グラハムが低く言う。

「これで、本当に終わりでございますな」

エルシェナはしばらく答えなかった。

窓の外には冬の終わりの景色が流れている。
冷たく、色が少なく、けれどどこかで春を待っている空気。

やがて彼女は言う。

「ええ」

それは短い返事だった。

だがその一言には、長い終わりがきちんと込められていた。

彼らはもう終わりだ。
生きてはいる。
けれど、二度と自分の人生へ関わることはない。

そしてエルシェナには、もう振り返る理由もない。

馬車は王都へ向かう。

そこにはまだ、彼女の未来がある。

王太子の婚約者としてではなく。
誰かの影としてでもなく。

自分の名で立つ未来が。

エルシェナは静かに目を閉じた。

外では、冬の風が少しだけやわらいでいた。
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