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#332 桜憑き
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満開の桜並木をぼんやりと眺めていた。
風に吹かれ、花びらがひらひらと舞う姿が美しい。
「綺麗だな……」
呟きながら目を細めていたら、強い風が吹きつけてきて、思わず目を閉じた。
次の瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
体が軽く、小さくなったような気がする。
ゆっくりと目を開けると、視線が低い。
そして、自分の手が小さく、幼い頃のものになっていた。
「え……?」
驚いて周囲を見回した。
桜並木は変わらずそこにあるが、すぐ横には昔通った小学校がそびえている。
そして、かすかに聞こえる子供たちの歓声。
どう見ても、自分は小学三年生の頃に戻っている。混乱しながらも、とりあえず家へ帰ろうと足を向けた。
懐かしい道を辿りながら、大人だった頃の記憶も鮮明に頭に残っているのがむしろ不思議だった。これはたぶん夢なんだろう。
大学卒業後、希望の会社に就職したこと。恋人ができて、一緒に暮らし始めたこと。やっと手に入れた理想的な生活だったはずだ。
「――あれ? どっちが夢だったの?」
呟く自分の声が幼く響いた。
家に着くと、母が懐かしい姿でキッチンに立っていた。母が若い。
「あら、ずいぶん早く帰ってきたのね。お腹すいた?」
母の笑顔は柔らかく、懐かしさで胸がいっぱいになった。
夕飯を食べながら、ふと尋ねた。
「お母さん、大人になってからの記憶って、夢だったりするのかな?」
母は首をかしげて笑った。
「未来の記憶? そんなこともあるかもしれないわね。世の中にはよくわからないことがいっぱいあるもの。――でも、夢も現実も、結局あなたの中にあるものよ」
その言葉に何かが引っかかり、ぼんやりとした不安を抱えたまま夜を迎えた。
翌日、学校に行くと懐かしい友人たちがいた。
話しかけると、みんな普通に接してくれる。
しかし、大人だった頃の記憶は消えないまま胸にあり続けた。夢よりも鮮明だ。
毎日が楽しいが、まるで自分だけが異世界に迷い込んだような孤独も感じていた。
数日が経つ頃、小学校の校庭で一人の少女が声をかけてきた。
「君、大人だった頃の記憶があるんでしょ?」
ぎくりとして少女を見る。
彼女は僕と同じクラスのはずだが、名前が思い出せない。
「どうして知ってるの?」
少女は笑みを浮かべて続けた。
「私もそうだから。あなた、桜の夢の中にいるんだよ」
僕は目を丸くした。
「どういう意味?」
「桜の木はね、ときどき人を引き込んで、過去の記憶を見せてくれるの。そこで満足すれば、ずっとこの中で生きられる。でも、ここから抜け出そうとすると……」
彼女の表情が悲しくなった。
「どうなるの?」
「"ここ"を抜けることはできる」
「なんだ、それなら……」
「ここ以外の場所へ行くのよ。今はずっと昔の幸せな記憶だけが繰り返される。でも、抜けようとすると、桜はあなたを別の桜の前に送るわ」
僕は息を飲んだ。
「どういうこと? 僕はどうしたらいいの?」
「選ぶのは君。ここで永遠に平穏に生きるか、それとも大人に戻って別の場所に移動するのか」
「君はどうするの?」
「私? それを聞いてどうするの? 自分で決めるのよ」
その日から、僕は悩んだ。
永遠に幸せな過去の世界で生きるか、それとも未来のために大人に戻るか。
この世界が桜の見せる幻なのだとしたら、やはり未来に進む方がいいのではないか。
翌日、僕は桜並木へ向かった。
「僕は大人に戻りたい」
はっきりと声に出して宣言した。
すると風がざわざわと騒ぎ始め、桜の花びらが渦を巻いて僕を包み込んだ。
桜の木が低く唸るような音を立て、周囲が闇に包まれた。
その瞬間、少女が耳元で囁いた。
「一緒ね」
目を開けると、僕は再び大人の自分に戻っていた。目の前には桜の街路樹。しかし、そこは見知らぬ街で、すれ違う人々も知らない顔ばかりだった。
慌ててスマホを取り出すが、電話帳には知っている名前がひとつもない。
SNSにも、自分を知っている人間は存在しないようだった。
大人に戻っているのに、どこかが決定的に違っていた。
「まさか、あの子が言っていた『別の桜』って、こういうことだったのか……」
僕は孤独に立ち尽くした。
大人の記憶も、幼い頃の記憶も、確かにある。だが、その両方を持つ僕を知る人間はどこにもいない。
「どう? 大人に戻った気分は?」
振り返るとあの少女が成長したような姿の女性がいた。
「君も?」
「私は何回も別の桜の前に送られているの。どうやら、一度桜に憑かれると、もうダメみたい」
女性はあきれたように肩をすくめた。
「ちょっとこの世界を楽しんだら、また別の桜の前に行こうかしら」
案外、気楽な様子で女性は人混みに紛れて立ち去ってしまった。
何度も移動できるのか……。
僕はまた桜の街路樹に向き直った。
風に吹かれ、花びらがひらひらと舞う姿が美しい。
「綺麗だな……」
呟きながら目を細めていたら、強い風が吹きつけてきて、思わず目を閉じた。
次の瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
体が軽く、小さくなったような気がする。
ゆっくりと目を開けると、視線が低い。
そして、自分の手が小さく、幼い頃のものになっていた。
「え……?」
驚いて周囲を見回した。
桜並木は変わらずそこにあるが、すぐ横には昔通った小学校がそびえている。
そして、かすかに聞こえる子供たちの歓声。
どう見ても、自分は小学三年生の頃に戻っている。混乱しながらも、とりあえず家へ帰ろうと足を向けた。
懐かしい道を辿りながら、大人だった頃の記憶も鮮明に頭に残っているのがむしろ不思議だった。これはたぶん夢なんだろう。
大学卒業後、希望の会社に就職したこと。恋人ができて、一緒に暮らし始めたこと。やっと手に入れた理想的な生活だったはずだ。
「――あれ? どっちが夢だったの?」
呟く自分の声が幼く響いた。
家に着くと、母が懐かしい姿でキッチンに立っていた。母が若い。
「あら、ずいぶん早く帰ってきたのね。お腹すいた?」
母の笑顔は柔らかく、懐かしさで胸がいっぱいになった。
夕飯を食べながら、ふと尋ねた。
「お母さん、大人になってからの記憶って、夢だったりするのかな?」
母は首をかしげて笑った。
「未来の記憶? そんなこともあるかもしれないわね。世の中にはよくわからないことがいっぱいあるもの。――でも、夢も現実も、結局あなたの中にあるものよ」
その言葉に何かが引っかかり、ぼんやりとした不安を抱えたまま夜を迎えた。
翌日、学校に行くと懐かしい友人たちがいた。
話しかけると、みんな普通に接してくれる。
しかし、大人だった頃の記憶は消えないまま胸にあり続けた。夢よりも鮮明だ。
毎日が楽しいが、まるで自分だけが異世界に迷い込んだような孤独も感じていた。
数日が経つ頃、小学校の校庭で一人の少女が声をかけてきた。
「君、大人だった頃の記憶があるんでしょ?」
ぎくりとして少女を見る。
彼女は僕と同じクラスのはずだが、名前が思い出せない。
「どうして知ってるの?」
少女は笑みを浮かべて続けた。
「私もそうだから。あなた、桜の夢の中にいるんだよ」
僕は目を丸くした。
「どういう意味?」
「桜の木はね、ときどき人を引き込んで、過去の記憶を見せてくれるの。そこで満足すれば、ずっとこの中で生きられる。でも、ここから抜け出そうとすると……」
彼女の表情が悲しくなった。
「どうなるの?」
「"ここ"を抜けることはできる」
「なんだ、それなら……」
「ここ以外の場所へ行くのよ。今はずっと昔の幸せな記憶だけが繰り返される。でも、抜けようとすると、桜はあなたを別の桜の前に送るわ」
僕は息を飲んだ。
「どういうこと? 僕はどうしたらいいの?」
「選ぶのは君。ここで永遠に平穏に生きるか、それとも大人に戻って別の場所に移動するのか」
「君はどうするの?」
「私? それを聞いてどうするの? 自分で決めるのよ」
その日から、僕は悩んだ。
永遠に幸せな過去の世界で生きるか、それとも未来のために大人に戻るか。
この世界が桜の見せる幻なのだとしたら、やはり未来に進む方がいいのではないか。
翌日、僕は桜並木へ向かった。
「僕は大人に戻りたい」
はっきりと声に出して宣言した。
すると風がざわざわと騒ぎ始め、桜の花びらが渦を巻いて僕を包み込んだ。
桜の木が低く唸るような音を立て、周囲が闇に包まれた。
その瞬間、少女が耳元で囁いた。
「一緒ね」
目を開けると、僕は再び大人の自分に戻っていた。目の前には桜の街路樹。しかし、そこは見知らぬ街で、すれ違う人々も知らない顔ばかりだった。
慌ててスマホを取り出すが、電話帳には知っている名前がひとつもない。
SNSにも、自分を知っている人間は存在しないようだった。
大人に戻っているのに、どこかが決定的に違っていた。
「まさか、あの子が言っていた『別の桜』って、こういうことだったのか……」
僕は孤独に立ち尽くした。
大人の記憶も、幼い頃の記憶も、確かにある。だが、その両方を持つ僕を知る人間はどこにもいない。
「どう? 大人に戻った気分は?」
振り返るとあの少女が成長したような姿の女性がいた。
「君も?」
「私は何回も別の桜の前に送られているの。どうやら、一度桜に憑かれると、もうダメみたい」
女性はあきれたように肩をすくめた。
「ちょっとこの世界を楽しんだら、また別の桜の前に行こうかしら」
案外、気楽な様子で女性は人混みに紛れて立ち去ってしまった。
何度も移動できるのか……。
僕はまた桜の街路樹に向き直った。
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