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#333 不条理百貨店へようこそ
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いつの間にか、その百貨店に足を踏み入れていた。
目の前には巨大な吹き抜けが広がり、華やかな照明と軽やかな音楽が流れている。
しかし、不思議なことに、入り口を通った記憶がまったくなかった。もしかしてこれは夢か?
受付に立っていた店員に、ここがどんな店か尋ねてみる。
「いらっしゃいませ。不条理百貨店へようこそ。当店は、すべてのお客様に予想外の体験をお届けします」
「不条理百貨店?」
店員はにっこりと笑ったが、どこか妙に作り物じみた笑顔だった。
「はい。お望みのものが各階にございますので、どうぞごゆっくり」
釈然としないまま、私はエスカレーターで二階に向かった。
二階の看板には『笑い売り場』と書いてある。
しかしそこにあったのは、おもちゃでもお笑いのビデオでもなく、瓶だった。笑いそのものがガラス瓶に詰められて並べられているらしい。
「これは……?」
「それは『ひきつり笑い』です。つまらないパーティにはぴったりですよ。どうぞ、お試しください」
店員が無表情で説明する。
蓋を開けてみると、確かにひきつった笑い声が漏れてきた。
不気味さを感じ、そっと棚に戻す。
三階は『夢と記憶売り場』だった。置かれている小瓶にはさまざまな名前と日付が記されている。
「こちらはお客様ご自身の過去の夢です。お買い戻しされる方も多いですよ。もちろん他の方の夢、記憶も取りそろえてございます」
「あの……なぜ私の夢が?」
「仕入帳によると、昨年の夏、夢の中で売却されていらっしゃいますね」
背筋に寒気を感じた私は、慌てて四階へ逃げ込んだ。
四階は『運命の分かれ道』と表示されていた。
売り場には二つの扉だけがあり、それぞれ『成功』と『失敗』と記されている。
店員が微笑んで言った。
「お好きな扉をお選びください」
「失敗を選ぶ人がいるんですか?」
「さあ、どちらが成功か失敗かは通ってみないと分かりませんから」
「いや、書いてあるじゃないですか」
「それはあくまで一般的な解釈として書かれています。世の中で『成功』と言われても、本人の中で成功していると感じるかは別問題です。失敗もしかり」
完全に混乱した私は、再びエスカレーターで五階へ向かうことにした。
五階は『存在証明売り場』という名で、棚には無数の書類が置かれている。
「これは何ですか?」
「こちらはお客様が存在していることを証明する書類です。一枚いかがですか?」
「いや、私はここにいるんだから必要ないでしょう」
「それはどうでしょうか? デカルトは『われ思う、ゆえにわれあり』によって思考という確証のみが揺るぎない存在の証明としました。ハイデガーは『世界内存在』で、人間と世界の交わりの中に存在が開示されると説きました。また、ウィトゲンシュタインは『語りえぬものについては沈黙せねばならない』とし、言語の用法を通じて存在の輪郭が浮かぶと論じました。問い続けること自体が存在を確証する行為でもあります。存在と証明の対話は、永遠に終わることのない哲学的な――」
「あ、もういいです」
私はさらに上の階を目指した。
六階に辿り着くと、『自由売り場』と書かれている。売り場には、鍵のかかった檻がいくつも並べられていた。
「ここは自由を売ってるんじゃないんですか?」
「はい。自由を売っていますので、まずは不自由になっていただく必要があります。ご安心ください、購入後には鍵をお渡しします」
理解を超えた論理にめまいがした私は、七階へと急いだ。
七階は『出口売り場』とあった。
「出口……?」
ここまで来てやっと気づいた。この店には出口がなかった。そもそも入口の記憶すらない。出口そのものを商品として売っているのだろうか。
「お出口をご希望ですか?」
店員はなぜか冷ややかに笑う。
「いくらですか?」
「お客様が今お持ちの全財産になります」
「冗談じゃない!」
「ご安心ください。お金を使い果たしても、その代わりにここで働いていただければ構いません」
「ここで働く?」
店員が周りを示した。
「私たち店員は、元は皆お客様だったんです。出口を買えず、店員としてこの店で永久に働くことになりました」
私は血の気が引いて後ずさった。
「いやだ……」
「それでは、お出口をどうぞ」
「全財産を払えば、本当に出られるのか?」
店員はまた、薄い笑みを浮かべた。
「それは保証いたしかねます。不条理百貨店ですから」
私は叫びながら階段を駆け降りようとしたが、気がつくと再び七階の出口売り場に戻っていた。
店員が穏やかに言った。
「いかがなさいましたか? 出口をご希望でしょう?」
逃げても逃げても同じ場所に戻る。恐怖と疲労で膝をついた私は、ゆっくりと顔を上げた。
「もういい……出口を買う……」
店員が深々とお辞儀をした。
「お買い上げ、誠にありがとうございます」
その瞬間、私の服は店員の制服に変わり、手には七階の看板が握られていた。
「出口を買うと言ったのに、これはどういうことだ!」
「当店名物の不条理でございます」
そして、私は無表情で、新たに訪れた客に告げていた。
「いらっしゃいませ。不条理百貨店へようこそ。お出口は七階で販売しております」
目の前には巨大な吹き抜けが広がり、華やかな照明と軽やかな音楽が流れている。
しかし、不思議なことに、入り口を通った記憶がまったくなかった。もしかしてこれは夢か?
受付に立っていた店員に、ここがどんな店か尋ねてみる。
「いらっしゃいませ。不条理百貨店へようこそ。当店は、すべてのお客様に予想外の体験をお届けします」
「不条理百貨店?」
店員はにっこりと笑ったが、どこか妙に作り物じみた笑顔だった。
「はい。お望みのものが各階にございますので、どうぞごゆっくり」
釈然としないまま、私はエスカレーターで二階に向かった。
二階の看板には『笑い売り場』と書いてある。
しかしそこにあったのは、おもちゃでもお笑いのビデオでもなく、瓶だった。笑いそのものがガラス瓶に詰められて並べられているらしい。
「これは……?」
「それは『ひきつり笑い』です。つまらないパーティにはぴったりですよ。どうぞ、お試しください」
店員が無表情で説明する。
蓋を開けてみると、確かにひきつった笑い声が漏れてきた。
不気味さを感じ、そっと棚に戻す。
三階は『夢と記憶売り場』だった。置かれている小瓶にはさまざまな名前と日付が記されている。
「こちらはお客様ご自身の過去の夢です。お買い戻しされる方も多いですよ。もちろん他の方の夢、記憶も取りそろえてございます」
「あの……なぜ私の夢が?」
「仕入帳によると、昨年の夏、夢の中で売却されていらっしゃいますね」
背筋に寒気を感じた私は、慌てて四階へ逃げ込んだ。
四階は『運命の分かれ道』と表示されていた。
売り場には二つの扉だけがあり、それぞれ『成功』と『失敗』と記されている。
店員が微笑んで言った。
「お好きな扉をお選びください」
「失敗を選ぶ人がいるんですか?」
「さあ、どちらが成功か失敗かは通ってみないと分かりませんから」
「いや、書いてあるじゃないですか」
「それはあくまで一般的な解釈として書かれています。世の中で『成功』と言われても、本人の中で成功していると感じるかは別問題です。失敗もしかり」
完全に混乱した私は、再びエスカレーターで五階へ向かうことにした。
五階は『存在証明売り場』という名で、棚には無数の書類が置かれている。
「これは何ですか?」
「こちらはお客様が存在していることを証明する書類です。一枚いかがですか?」
「いや、私はここにいるんだから必要ないでしょう」
「それはどうでしょうか? デカルトは『われ思う、ゆえにわれあり』によって思考という確証のみが揺るぎない存在の証明としました。ハイデガーは『世界内存在』で、人間と世界の交わりの中に存在が開示されると説きました。また、ウィトゲンシュタインは『語りえぬものについては沈黙せねばならない』とし、言語の用法を通じて存在の輪郭が浮かぶと論じました。問い続けること自体が存在を確証する行為でもあります。存在と証明の対話は、永遠に終わることのない哲学的な――」
「あ、もういいです」
私はさらに上の階を目指した。
六階に辿り着くと、『自由売り場』と書かれている。売り場には、鍵のかかった檻がいくつも並べられていた。
「ここは自由を売ってるんじゃないんですか?」
「はい。自由を売っていますので、まずは不自由になっていただく必要があります。ご安心ください、購入後には鍵をお渡しします」
理解を超えた論理にめまいがした私は、七階へと急いだ。
七階は『出口売り場』とあった。
「出口……?」
ここまで来てやっと気づいた。この店には出口がなかった。そもそも入口の記憶すらない。出口そのものを商品として売っているのだろうか。
「お出口をご希望ですか?」
店員はなぜか冷ややかに笑う。
「いくらですか?」
「お客様が今お持ちの全財産になります」
「冗談じゃない!」
「ご安心ください。お金を使い果たしても、その代わりにここで働いていただければ構いません」
「ここで働く?」
店員が周りを示した。
「私たち店員は、元は皆お客様だったんです。出口を買えず、店員としてこの店で永久に働くことになりました」
私は血の気が引いて後ずさった。
「いやだ……」
「それでは、お出口をどうぞ」
「全財産を払えば、本当に出られるのか?」
店員はまた、薄い笑みを浮かべた。
「それは保証いたしかねます。不条理百貨店ですから」
私は叫びながら階段を駆け降りようとしたが、気がつくと再び七階の出口売り場に戻っていた。
店員が穏やかに言った。
「いかがなさいましたか? 出口をご希望でしょう?」
逃げても逃げても同じ場所に戻る。恐怖と疲労で膝をついた私は、ゆっくりと顔を上げた。
「もういい……出口を買う……」
店員が深々とお辞儀をした。
「お買い上げ、誠にありがとうございます」
その瞬間、私の服は店員の制服に変わり、手には七階の看板が握られていた。
「出口を買うと言ったのに、これはどういうことだ!」
「当店名物の不条理でございます」
そして、私は無表情で、新たに訪れた客に告げていた。
「いらっしゃいませ。不条理百貨店へようこそ。お出口は七階で販売しております」
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