薄墨桜が染まるまで

茉莉花しろ

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第三話『夏に見た予知夢』

3-6

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「な、何よ。誰、あんた」

「わたし? わたしは、この子の旦那さんだ。君が、気持ち悪いって言っていた神様だよ」

「はあ?」

はだけた胸元を直しながら警戒心をむき出しにしている家の人、もといお嬢様。

ここに来る前まではそう呼んでいた。あの家では、あの村の中では高価な服をいつも身にまとっており、一番お金を持っていた家庭だった。だから私を押し付けられるように任されたのだとか。
育ててやったからこの家の役に立てと、何度言われたか数えきれない。

しかし、そんな彼女でも目の前にいるのが神様だと知ったら焦り始めたらしい。「ねえ、やばいよ」とか「逃げよ」などと、後ろにいる女性陣の声が聞こえてきた。一歩、また一歩と下がっていく彼女たちはいそいそと消えてしまった。

「あ! ちょっと、あんたたち逃げるんじゃないよ! ねえ、おっさん。あんたが本当に神様なの? 思ってたより大したことないじゃん。てか、こんなのと結婚するなんて物好きだねえ。ねえ、こいつのどこがいいの? 教えてよ」

挑発するような声で近づいてくるお嬢様。いつもと変わらない調子で、神様と呼ばれている彼を見下している。遠慮もない様子にウスズミ様よりも華ちゃんの方が今にも動き出しそうだ。
しかし、いつの間に戻ってきていたのか、華ちゃんを抱えて石段を上の方まで上っているクス様が見えた。彼の腕の中で暴れている華ちゃんを「静かにしなさい」となだめていた。

「そうだなあ。一つ目は、変に素直なところ。嘘をつけないところが可愛らしいよ。二つ目は、頑張り屋さんなところ。いつも自分でどうにかしようと頑張ってしまうのが、とても愛おしいよ。三つ目は」

「ちょっと、真面目に話すやつがどこにいるのよ! 頭おかしいんじゃない?」

「おかしい? そうかなあ。わたしは、君の方がおかしいと思うけどね」

ビクッと体を震わせたお嬢様は、声色がガラリと変わってしまったウスズミ様を警戒し始めたらしい。でも、時すでに遅し。まだ一年と少ししかいない私でも分かる。
ウスズミ様は今、はらわたが煮えくりかえっているのだろう。
横にいる私でも、ここまで怒りを表面に出しているのを見たのは初めてだ。彼女からどう見えているのかは分からないが、異形頭のままで見えている私には到底想像ができない。

「さあ、もう帰ってくれないか。君がいると妻が苦しむ。わたしも気分が悪い」

「う、うるさいわね! こっちこそ気分悪いから帰るわ!」

犬を追い払うように手を動かし、私の肩を抱き寄せるウスズミ様。お嬢様は私の方をキッと睨んでから舌打ちをしたが、何かぶつぶつ言いながら去って行く。私は私で力がこもっていた体がほぐれ、腰が抜けそうになった。しかし、そんな私の行動を見抜いているのかウスズミ様はがっしりと支えてくれている。

良かった。私は、ひとりじゃない。

人から言われただけでは分からない言葉が、今こうして身をもって理解することができた。良かった、本当に良かった。そう思った時、体が鉛の重さに変化する。あ、しまった。
私の意識はそこで途切れてしまった。


「……ん、ここ、は?」

うっすらと目を開ける。暗い部屋の中にいることだけが分かる。木目と目が合い、体を起こそうとする。しかし、自分の力で起きるには想像以上の重さと戦う必要があったらしい。頭だけでも動かして情報を得ようとすると、襖の開く音がした。

「華、ちゃん?」

「も、桃ちゃん? く、クス様! 桃ちゃんが、桃ちゃんが起きたよ!」

「え、あの、待って」

手を伸ばそうとするも届くはずもなく、開けっぱなしにされた襖から微かに光が入ってきている。目が合っていた木目をよく見てみると、既視感があった。伸ばした手はだらりと垂れ下がり、いつものように四肢を動かすことも難しいようだ。

かろうじて動かせられた顔は、うっすらと畳の上を描いている光を見ることができた。ああ、私はあの時にそのまま倒れてしまったのだろう。申し訳ない。心身ともに恐怖によって支配された日々を思い出した時から、記憶は薄い。ウスズミ様が助けてくれたあと、ええと、何があったのだろうか。思い出せない。

「桃ちゃん!」

「う、ウスズミ、様?」

「良かった。目が、覚めたんだね。良かった、良かったよ」

パンっと扉が開いた先には、息を切らしているらしいウスズミ様。後から足音が加わって、華ちゃんとクス様の声が聞こえてきた。相変わらず二人は何かを言い合いながら近づいてきているようだ。
ふふっと笑ってしまいそうになるが、体に力を入れると痛みが走る。顔を歪めると、「無理しないで」と息を整えて近づいてきてくれた。

「あの、ウスズミ様。私、ご迷惑をおかけしてしまって」

「? ああ、あのくらい、どうってことないよ。それより、もう少し休んだ方がいいよ。今まで、無理させて申し訳ない」

垂れている木の枝を畳の上につけた。深々と下げられた頭は青々とした葉が茂っている。夏らしく、爽やかな香りが鼻をかすめた。

「私は、平気です。だから、謝らないでください」

だらりと下がっていた手を、もう一度伸ばした。

彼に向けられた手は、いつもより寂しいと感じてしまった心を満たすための行動。いつもなら悩んでしまう私だったが、自分の立場を思い知らされるような出来事が起きてしまったがための行動。意味のないものだと分かっていても、まだ私の心は完璧に回復できていない。

宙に浮いたままかと思われた手は、一回りも大きい手によって支えられた。受け止められて、その後にギュッと握られる。生きていることを確認されているような、そんな感覚。ああ、こんなにも安心できる場所が、私にもできたのか。

「……良かった。私の妻なのだから、無理はしないでおくれ」

「はい。分かりました」

口端を上げて、彼に微笑んだ。引きつっていた筋肉は、自然と受け入れるように動いた。私は、こんなにも彼に心を許していたと言うのか。握られた手から、温度が伝わってくる。人としての温かさなのか、心の暖かさなのか。どちらが正解なのか分からない。

けれども、こうして心休まる場所を手に入れたという事実は変わらない。

たとえ、どんな残酷な結末が待っていたとしても。
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