薄墨桜が染まるまで

茉莉花しろ

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第四話『束の間の安寧』

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一枚の真っ赤な葉が落ちた。

毎日のように繰り返される掃き掃除も、このままでは木々とのイタチごっこで終わってしまいそうだ。はあ、と何気なく吐いた息は眼に見える形で現れる。もう一度風がヒュウッと吹き、手が凍えてしまいそうだ。
手を擦り合わせつつ、あらかた終わらせた掃き掃除の葉っぱを袋の中へとかき集めた。

「寒いなぁ」

気を抜いたら震えてしまう。言葉に出すことで何かが変わることはないが、数年前には言えなかったことを口に出せるようになっただけでも成長だと思いたい。
ウスズミ様のところへ嫁いで、何度目かの秋が来た。片手で数えることができなくなるくらいには時間が経っているようで、着々と時間制限が迫っている。いつ爆発するか分からない爆弾を抱えながらの生活に慣れてきているが、特に方法も思いつかぬまま。家の人から何か指示をもらえると思っていたばかりに、心がどんどん重くなっていく。

「おーい。郵便だぞー」

下り坂の先に見える人は、こちらに向けて大きく手を振っている。呑気な声が冷えた空気の中で目立っているようで、やまびこのように響いていた。

村の人たちとの交流はほぼ途絶えていたのだが、こうして隣の村から来る郵便のおじさんだけは普通に接してくれる。初めは『こんなところに住んでいるのかい?』と不審者を見る目で見られたが、今では慣れたものだ。

「いつもすみません。こんな山奥まで来ていただいて」

「いんや、そんなこと気にすることはないよ。俺もなかなかここまで来ないからさ。色鮮やかな紅葉を見られて幸せだよ」

ほい、と言いながら数枚の封筒を渡された。斜めにかけられたカバンはまだまだ身が詰まっているようで、膨らんだまま。これから他の家にも届けに行くのだろう。
ちょっと暑いね、と言いながら額をハンカチで拭う姿を見て「あ、お茶でも」と洞窟の中へと足を向けた。

「ああ、大丈夫だよ。秋になってきたとは言え、まだまだ動くと暑いねえ」

「私は今さっきまで震えていました。でも、太陽はまだ上にありますからね」

「それもそうか。ここまで上がってくるだけで疲れる俺も体力不足だなあ」

カサカサと葉っぱが動く音が聞こえる中、ヒュウっと風が吹く。一瞬、ひんやりとした風が服の隙間を通った。動いていた汗が冷えてきたのか、体が震えた。
同じように寒さを感じたおじさんも肩を摩り、「じゃ、もう行くね」とハンカチを鞄の中へと入れた。

「あ、そうそう。お姉さん、もうそろそろ誕生日なんじゃないかい?」

「え? あ、言われてみれば……でも、どうしてそれを?」

「いんや、その手紙の封筒に書いてあったからさ」

指差した私の手元には、数枚の封筒。一枚はウスズミ様宛てのようで、達筆な文字で書かれている。恐らく、クス様からのお返事だろう。一ヶ月に何回かやり取りしているようで、私が手紙を書いている横で彼も書いていた。
重ねてある封筒を横へずらしてみると、大きな文字で書かれているのが一つ。目に入らないわけがないそれをよくよく見てみると、「桃ちゃんへ」と書かれた文字と一緒に「誕生日おめでとう!」と書かれていた。

「これ、華ちゃん?」

「隣の村の子かい? いいねえ、仲良しで。おじさんも、最近文通していないなあ」

「そうなんですね。私は最近文字の読み書きができるようになったので、少しずつ練習しているんです」

「そうかい、そうかい。書けるようになったら楽しいだろうねえ」

うんうん、と頷いているおじさん。私が文字を書けなかったことをバカにするのではなく、楽しみを見つけたこととして話してくれた。私が知っている人たちとは違う会話の仕方には、今はもう驚かなくなった。

「俺もまた書き始めようかなー……って、もうこんな時間! ごめん、長話をしてしまったね。また来るよ!」

視界に入った腕時計を見たおじさんは小走りで山を降りて行った。私の「また後で!」と叫んだ声が聞こえたのかも分からないまま、手を振っていた。

私の、誕生日か。

もう一度まじまじと封筒を見つめる。自分が生まれた日のことなんて覚えていない。両親がいない私があの家で暮らしていけるだけでありがたいことだったから。
家の人は毎年お嬢様の誕生日は盛大に祝っていたのだが、自分の誕生日は何もないただの平日と同じ扱いだった。それが当たり前で、それが日常。盛大に祝っている家族の姿を襖越しで眺めるだけの時間。

「そんなに良いことなのかな」

くるくると表を見ては、裏返した。いつもと変わらない可愛らしい文字で書かれている手紙は、私の宝物の一つになりそうだ。風に飛ばされないように大事に大事に持っていく。洞窟の中へ入ろうとした時、名前を呼ばれた。

「? ウスズミ様、もう戻って来られたのですか?」

「ああ。思ったより用事が早く片付いてね。それより、先ほどのことは本当かい?」

人間の姿に見えるようにしているとは言え、私には桜の木にしか見えない。だが、それでもここ数年で彼の感情がわかるようになってきた。感情、というよりも表情が見えている気がする。思っていたよりも体とか、声色とかで判断ができるのだ。

この経験から察するに、どうやら彼は焦っているらしい。いつもより数秒早い話し方は、私に何か聞きたいのだろう。

しかし思い当たることがない私は首を傾げ、「何のことでしょうか」と質問で返してみた。

「桃ちゃんの誕生日が、近いってことだよ」

「ああ、そんなことですか。そうですよ。あと数日、でしたかね。今年で十九になります」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「はい?」

「わたし、一度も桃ちゃんの誕生日を聞いたことがなかったのだけれど」

「そうですね。聞かれていませんし」

「祝ってもないけど」

「まあ、祝うようなことでもないので」

私の一言で、ピシッと石のようにウスズミ様が固まってしまった。

しまった、また何か変なことを言ってしまったのだろうか。ここに来て三年は経っているのに、未だにこうしてウスズミ様を固まらせてしまう。その度に謝罪をしていたのだが、『桃ちゃんは悪くないよ』と優しく頭を撫でてくれていた。ここ半年以上はそのようなことはなかったので油断していたようだ。「あの」と声をかけたようとした。

「桃ちゃん、正確にはいつ誕生日なのかな?」

「? えっと、十一月二十二日です」

「じゃあ、その日にお祝いをしよう。本当はクスたちも呼びたいが、手紙では間に合わないからなあ。二人きりになるけど、それでもいいかな?」

「は、はい。私は、平気ですが」

「うん、良かった。あ、掃き掃除ありがとうね。夕飯は何時になるかな?」

「いつもと、同じくらいの時間です」

分かったよ、と言った彼はいつもと同じように頭を撫でた。
ざらざらとした感触は私の髪の毛の上を滑っていく。肩から腕に向かって伸びている気の根っこが、ずれた服から見えた。

桜の木の異形頭である彼のことを深く知れば知るほど、離れ難い気持ちになる。こうして身寄りのない私を受け入れてくれる広い心を持っている彼をどうしろと言うのだろうか。私の頭をひとしきり撫でたウスズミ様は洞窟の中へと入って行く。

大きな体を持っている彼の姿を見つめた。

この人を、本当に殺さないといけないの?

私のことを、愛してくれているのに?

分からない。何が正しいのか、分からない。

「殺したくない。殺したくないよ……」

ギュッと竹箒を握り締めた。彼の肌と同じくらい堅い竹はパキッと音が鳴った。自分自身の力が強くなっていたらしい。気づいた時には手の内側がうっすらと切れていた。
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