インディア~親蜜の香り~その一章

サーガ

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インディア~親蜜の香り~その一章 6

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 リンゼイは項垂れて離れ、彼女を熱い眼差しで見つめるだけに留める。
 捕まる――大袈裟ないい方では決してない。有名な外国人俳優が、インドの女優の頬にうっかりキスしただけでも犯罪になる国なのだ。
 そして捕縛されれば罰されて、醜聞が新聞に載ってしまう。リンゼイの心が読めれば、触れ合わず離れていてもすぐに法に触れるだろう。もっとも、このレストランはイギリス領も同然で、そんな騒ぎは起こらないだろうが、そういい含めることはできない。もうインドは独立したのだ。
 二人は近くにいたが、これまでのデート同様、完全に離れていた。リンゼイはそのままでいるわけにもいかず、椅子を引いて座らせてやり、自分も座る。
「もう何か飲んだ?」
「いいえ、お待ちしていました」
「じゃあ、まず飲み易いワインでも開けようか、それとも果実酒の方が良いかな」
「貴方のお好きなもので……」
 リンゼイは手を挙げてウェイターを呼ぶと、果実のような口当たりの白ワインを注文し、彼女に微笑み掛けた。
 実は彼女とはアンドベーカル空港の炉辺で会ったあれが、初対面ではない。
 一度だけ、英国の空港でスチュワーデスの集団に彼女を見たことがあるのだ。髪を襟足のところで纏め、一様にサリーとビンディを身に着けていた。彼は勤務を終えて帰るときに、彼女たちと擦れ違った。共通の制服である赤いサリー、同色の額飾り、黒いまとめ髪、同じ旅行用バックからインド・インドのスチュワーデスだとすぐに分かった。その中で後ろから三番目を着いていく、彼女と擦れ違った時……声を掛けなかったことを後悔していた。だから、硝子の靴もないシンデレラを探しにニューデリー行きのフライトを代わった――二度目のチャンスを逃すような真似はしなかった。
 もしかしたら、その時の女性はアーシャではなかったのかも知れない。孔雀の様に優美な女たちに圧倒されて、それを一目惚れを勘違いし、「本当に高貴な」インド女だったら誰でも良くなったのかも知れない。しかし、リンゼイは彼女だと信じている。その一つは、彼女の強い菫の匂いである。彼女の動きに合わせて、香りも実体があるかのように揺れる、儚げなヴァイオレット。それを、あの時も感じた。リンゼイはしかし、まだ彼女に確かめてはいない、そうしたら魔法が解けてしまうようで。
 何より、今やそんなことは関係なくなっていた。
 女性の声質に美を見出すインドに住む女らしく、彼女が鈴の鳴るような声音で話しているのだから。
「弟が専門学校に受かったのです」
「本当に? 君がずっと望んでいたことだね」
「はい、とても幸せです……でも本を買って勉強するためにお金が必要で、もっとお金を稼がなくてはいけません」
「これからもたくさん、フライトに乗るということ?」
「はい」
「そうか……身体は大丈夫なのか?」
「はい、仕事ができて嬉しいです」
 華奢で細身のその肉体は、思った以上に強靭であるようだ。
 添乗員は過酷な仕事だと初めて知る。削られる睡眠時間や慢性的な疲労、サービス業に付き物の接客トラブルに見舞われ、定まらない時間帯のせいでプライベートはないも同然だと思われた。アーシャは何もいわないが、リンゼイは労働の基準を超えていると疑っていた。が、ここは英国ではなくインドである。 自分のフライトだけで体力的にも丁度良く、適度に豪遊生活が楽しめ、スチュワーデスの社会的憧憬を利用して異性関係にも恵まれる。それがスチュワーデスの普通だと思っていた彼には、信じ難いことばかりだった。
 しかし、お金のため。
 何度、「僕が出すよ」といい掛けただろうか。金銭的援助をする、と。リンゼイは彼女の数百倍の給料をもらっている。首都は近代化されてそうでもないが、都会を離れれば一般的な生活費が一日数ドルも満たない。ルピーの価値は低いのだ。リンゼイの懐にとっては大したことは無いだろう。しかしその提案はずっといえないでいた。元々英国人にとって金の話はタブーの一つである。彼は自分の年収が幾らなのか、それすらはっきりとはいえない。
 本当は嫌だった。彼女は事前に連絡をくれはしたが、今までに二度、デートが突然キャンセルになった。掻き集めるように他人が休むフライトを代わって、その都度犠牲になるのはリンゼイとの逢引時間である。
 卑怯かも知れないが、彼女の方から借金を申し出てくれたら……。
「君に決めたことなら応援するよ。できることがあったらいって欲しいんだ、無理をしないで」
「いいえ、とても良くしてもらっています。でも……母も姉も刺繍をしています。それでも足りないので、母は食事を夕食しか食べないといっています。だから、もっと働きたいです」
 そこで、アーシャは想いを今に戻したようだった。リンゼイを見つめ、少し俯いて身を縮める。彼がどうしたのか気付く前に、彼女がいう。
「何度も会えなくて……ごめんなさい」
「いいんだ」
 良くはなかった。
 だが、反対などできよう筈もない。
 前々回のデートで、彼女はいつ契約が打ち切られるか分からないと悩んでいた。その次にやっと漕ぎ着けた夕方の軽いサパーでリンゼイは、彼女の家族が二部屋しかない一室を間借りして住んでおり、今は十八歳の弟を情報処理の専門学校に通わせるために、全力で働いているという現実を打ち明けられた。父親は土木の派遣で、年の半分は家を留守にしているという。
 思った以上の貧しさにリンゼイはショックを受け、「添乗員を辞めて、英国に留学に来たら?」と強く勧めたことが悔やまれた。だが、決して幻滅しなかったのは不思議だった。今でもインドの格差は予想以上に過酷で、一方彼女の国には娘の結婚に三千人もの侍女を添え付けするマハラジャがいる。と、全く同じ時に今だ僅かな持参金の不服感で、夫が花嫁を焼き殺す風習も残っている。
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