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インディア~親蜜の香り~その一章 16
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リンゼイはインド人の男と何もかも違う。
インドでは女の肌は白い方が好まれるが、男は自分たちの青く光ることがある黒い肌を、オートミールのような白人の肌色よりも優れていると信じている。女たちもその意見には賛同するので、大抵の若いヒンドゥーの女は白人を嫌う。毛嫌いしているといっても良い、彼らに近付くことは穢れを呼び込む切っ掛けになると思い込んでいた。
彼女はヒンドゥーの教えを体現して、穏やかに、雑音を耳に入れずに超然とした男に惹かれる性質だった。瞑想を活用し、優雅に振る舞える、感情を表にしないアーリア人の男。カーストが同じであるとすると小学校の教師程度であろうが、しかし、そういう男に限ってアーシャなど眼中にない。
同じくして、アーシャもまたリンゼイが好みではない。白人も嫌い、彼女が好きな白人はマザー・テレサだけだ。男としても……インド映画を見れば分かることだが、特に体型においてゲルマン人の理想の肉体は細過ぎる。がっしりとした骨太の、欧州でいうなら太目といわれるような体型がインドでは男らしい美形となっている。
それにこのアングロ・サクソン人は凛々しく、女に対して抒情的過ぎる。更にいうなら、女の意見を真正面から受け止めて、右往左往する。それに感情を剥き出しにしたり、スキンシップを取ろうとしたりして、彼女の望まないことを押し付けてくる。でも、それを拒んだ時のあの眉が下がった時の悲しそうな顔といったら、此方が慌ててしまうほどだ。それらがあってこそ部屋に来てしまった。そしていうことを聞いてしまった。
いいや、違う。
自分もまた、彼を好きだったのだ。
あの手入れのされた、女々しい肉体は立派だった。あんなに白くても、ちゃんと男だった。
だが、それでも、親に紹介してもらう約束を取り付けても、満足ではない。彼といると、自分が今まで教え込まれて来たものを失いそうだ。今もそうである、処女を失ってしまって、自分はこの町では、いやこの国では罰される穢れの対象になった。それがヒンドゥーの中階層の意識なのだ、彼女もその中にいる。違う、いたのだ――ついさっきまで。もう、違う。
だが、実のところ、彼女はこうなって良かったとすら思う。
持参金、結婚できるかどうか、もしくはその男と結婚した後の生活だけに争点を充てるアジア的、インド的な結婚観と彼は欠片も相容れない。ヒンドゥー教徒の男は女の性を恐れているのだ。それを内包したアーシャが悪魔と形容したそれ。それを求める男と彼女は寝たのだ。かつてカーマスートラで芽吹いた女の欲望は、アーシャの血潮にも流れている。
もう息苦しかった。
そうでなければ、こんなことができよう筈もないのだ、ヒンドゥーの女に。
――――――――――――――――――――
次の朝、アーシャはリンゼイよりも早く起き出した。英国に来てからずっと行っていなかった、嘗ては慣れ親しんだ空間に戻る為に。彼女はシルクのナイトドレスを脱ぎ、インド更紗のサリーを身に着け、髪を後ろで一つに縛る。
香を焚いてから――今日は買って置いたが使わなかった薔薇の香に燻ぶらせた。
薔薇は、リンゼイのイメージである。金色で、白くて、彫刻みたいに整っている。好色な所は少し違うのだが……彼女は居間に移り、ソファの上に胡坐を掻いてゆったりと腰を下ろす。丁度鼻の位置で手の平と手の平を合わせて、緩慢に上へと伸ばした。それを何度か繰り返し、今度は仏像の様に均等の高さで揃った膝に手の甲を当て、掌を上に向ける。
始めは呼吸を整え、それから目を閉じた。すると、西欧では信じ難いことに彼女の全身は幸福感が生まれ、落ち着いてきた。随分離れていたのに、流れる血はインドのもの、すぐ還れることが可能なのだ。
この幸福感を使えば、我々は痛みすら超越できる。この感覚はエンドルフィンの為せる技だが、西欧人は最近発見した。
しかし我々ヒンドゥーは、数千年前から「これ」を知っていた。そして、それを阻害するものとして、穢れという概念を形作っていった。決して根拠のないものではない、しかし始めは人の幸福を願ったものだったとしても、人は堕落すると彼女は小さな頭で知っている。怠惰さと何もしないことへの体裁へと変貌する、欧州でいうところの「大衆」の果敢無さを。
父から息子へと何かが相続されるように、それと同じようにガンジスの血潮は母から私へ、もしかしたらこれからも私から子へ受け継がれていくだろう。アーシャは大いなる大河の一部に過ぎないと千里を走る智慧がいう。それは真理だ。
しかし、これから彼女は父に連なるアーリアの男たちに禁じられた、沢山の穢れを自ら求め、知識として頭に留めて、生きる知恵とするだろう。性のことだけではない、講義で聞き及んだ政治の学びは、ただ覚えて素通りするアーリアの法則に叶いそうもない。
カーテンの隙間から、朝のエネルギーが漂ってくる。朝陽が昇り始めている。アーシャは目を開けて見なくとも、それと知ることができた。肌の感覚が鋭敏になっていて、朝の冷気を感じ取れる。もし、これをサーとの閨房に応用したら、どうなるだろう。アーシャの鼠径部が別の生き物のように痺れを呼び起こした。想像しただけで、潤っている。彼女は目を開け、吐息を漏らし、気配を感じて瞼を上げた。
――リンゼイが腕に空虚を感じて目を覚ました時、その訳は妻が腕にいないことだと気付いた。昨夜脱ぎ散らかしたトレーナーパンツを穿き、寝室から出て彼が妻を発見した時、アーシャは出会った時のまま、ソファの上に蹲る雄の孔雀と成り果てていた。
いや、あれは骨董品屋で見かけた仏像の形だ。仏教に帰依したのか? 瞳を軽く閉じ、まるで浮かび上がりそうな風情で体中の力が抜けているのが見て取れる。至極整然と肩が上下し、たおやかな曲線を抱く輪郭が白い光に包まれ発光した。
否、光は朝陽のものである、だが、その光を内部に取り込むかのように見えて、リンゼイは目を見張った。肌に光が踊って、輝いた。尻の方まで流れ落ちる黒髪は柔らかいウェーブのまま、青み掛かっていた。
嗚呼、やはり、彼女はヒンドゥーを捨ててはいないのだ。
だが、リンゼイは結婚当初のように、それを下等な意識と繋がっている、とは思わなかった。微かな遺恨を残しつつも、彼は妻の半分が今以てヒンドゥーのものだと認めつつあった。大いなる悟りを生活の理念としたアーシャの精神美と、それらの価値を斥けてしまうほど美しい顔立ちと肉体の麗人。リンゼイは昨晩識ったことを思い起こした。自分は妻を半分も理解できない白人でしかないが、妻を愛している。
出会ったときから――会った時、アーシャはくりくりした大きな瞳に濃いアイラインを引いて強調し、髪は軽くせずに長く伸ばし、真ん中で分けてシニヨンにしていた。
伝統的な赤と緑のサリーを身に着け、しゃなりしゃなりと丸い尻を振って女性らしく歩く。料理をし、酒も夫以外の男がいると飲まず、態度も女らしくて物静かで、体付きは筋肉は余り付いておらず豊かで、リンゼイを立ててくれる。先進的なところは、余りない。
だが、完璧に女らしい彼女は、結婚に少しも興味を示さなかった。男には頼らず、好きな仕事にだけ執着し、家族を養おうとした。男の下に身を置かないその自制心と誇りの意識は、その魂が本来強い主導権を求めているということを現していたのだ。
生理的に受身となることを拒否していたが故に独り身だったのだと考えれば、彼女が自身を悪魔と表現したのも致し方なかろう。その野心と意志の強さは男尊女卑のインドでは相容れなかった。女が性的な嗜好を自分の為に考えることすら罪なのだから。
きっとヒンドゥーの神は、彼女を現世で試練に晒す為にそれらを与えたのだろう。妻のギャップが、倣岸と薄々知りつつもリンゼイの血を騒がせる。自分に宿る狩猟本能を、謎めいたアーシャがずっと擽り続けるだろう。
ふと、彼女の頬が紅潮し、その周りに漂う静謐が乱れた。
彼女がぼんやりと瞳を開けたが、視線定まらず陶然となっている。
それから此方を向いた女に、リンゼイはもう気付かれていながら足音を忍ばせて近付く。そして隣に深く腰掛け、彼女の体を後ろから引き寄せて腿の上に倒した。アーシャは戦かず、だらりと身を預けて彼を見た。
「アーシャ、何所にも行かないで欲しい」
彼女もそれを望んでいる。ここにいるのは確かにアーシャの主人であるが、同時に彼女の自由にできる愛しい「男」だった。自分はヒンドゥーを捨てられはしない、だが中道を採ることはできる。それが彼だ、私にとっての……。
アーシャは彼から目を離さず、手を伸ばして夫の顔に掛かる髪を掻き揚げて、頬をそっと導いて接吻を交わした。黒い瞳にはリンゼイが映り込んでいる。それが揺れ、片方の瞳から雫が一筋流れ落ちた。
「仰せのままに」
アーシャがリンゼイに惹かれたのは、きっと偶然ではなかったのだ。彼女にも今はそれが信じられる。彼のような許容範囲の深い欧州の男を選んだのは、当然の帰結だったのだ、と。御し易く、優しく、またそれだけの美貌と価値のある男は滅多にいない。
打算的なアジアの女は、それを愛と呼ぶ。
アーシャは次の学期、無事大学に合格した。彼らは入学の前に一週間の休暇を取って、インドへ蜜月旅行に行った。エアライン空港ニューデリー支社へ客として扱われ、彼女は恥ずかしそうな顔をする。
「アーシャ、貴女、結婚したのね」
「ええ、そうなの」
二人は自分たちが一番初めに過ごした思い出のニューデリーのホテルで休んだ。気怠い朝の空気に包まれて二人は幾度も抱き合い、タクシーに乗ってガンジス川を臨む。
彼女は金銭的負担が軽減されて自由に動ける強味を使って、時差ぼけで眠っている夫をホテルに置き、従兄弟のタクシーでバムセフのニューデリー事務所とダリット・メディア・センターを訪れた。戻って来た彼女が、バムセフで学校設立について聞いたことをメモしていた紙を見て、リンゼイはこのヒンドゥーの女性が本当は何をしたい女なのか、初めて識った気がした。
彼女は、インドを見捨てない――。アーシャがいるだけで御満悦だったリンゼイの何かが、少し形を変え、彼の視野が格段に展望を良くした。
無論旅行はそれだけではなく、彼女が一度も見たことのないといった愛のタージマハールを見に行った時には、赤々と染まった夕陽で空が染まって素晴らしい景観を拝することが出来た。リンゼイは半分は本心で、彼女に耳打ちする。
あのイスラムの王の様に自分も、何もかも君の了承を得てから行動し、君が推さない話には乗らない。
だが、心の隅ではいつまでも君の騎士のつもりでいたい、と。
アーシャは微笑み、その夜にお返しをくれた。
これらはこれから続くであろう、特別な毎日の一つである。
(終)
インドでは女の肌は白い方が好まれるが、男は自分たちの青く光ることがある黒い肌を、オートミールのような白人の肌色よりも優れていると信じている。女たちもその意見には賛同するので、大抵の若いヒンドゥーの女は白人を嫌う。毛嫌いしているといっても良い、彼らに近付くことは穢れを呼び込む切っ掛けになると思い込んでいた。
彼女はヒンドゥーの教えを体現して、穏やかに、雑音を耳に入れずに超然とした男に惹かれる性質だった。瞑想を活用し、優雅に振る舞える、感情を表にしないアーリア人の男。カーストが同じであるとすると小学校の教師程度であろうが、しかし、そういう男に限ってアーシャなど眼中にない。
同じくして、アーシャもまたリンゼイが好みではない。白人も嫌い、彼女が好きな白人はマザー・テレサだけだ。男としても……インド映画を見れば分かることだが、特に体型においてゲルマン人の理想の肉体は細過ぎる。がっしりとした骨太の、欧州でいうなら太目といわれるような体型がインドでは男らしい美形となっている。
それにこのアングロ・サクソン人は凛々しく、女に対して抒情的過ぎる。更にいうなら、女の意見を真正面から受け止めて、右往左往する。それに感情を剥き出しにしたり、スキンシップを取ろうとしたりして、彼女の望まないことを押し付けてくる。でも、それを拒んだ時のあの眉が下がった時の悲しそうな顔といったら、此方が慌ててしまうほどだ。それらがあってこそ部屋に来てしまった。そしていうことを聞いてしまった。
いいや、違う。
自分もまた、彼を好きだったのだ。
あの手入れのされた、女々しい肉体は立派だった。あんなに白くても、ちゃんと男だった。
だが、それでも、親に紹介してもらう約束を取り付けても、満足ではない。彼といると、自分が今まで教え込まれて来たものを失いそうだ。今もそうである、処女を失ってしまって、自分はこの町では、いやこの国では罰される穢れの対象になった。それがヒンドゥーの中階層の意識なのだ、彼女もその中にいる。違う、いたのだ――ついさっきまで。もう、違う。
だが、実のところ、彼女はこうなって良かったとすら思う。
持参金、結婚できるかどうか、もしくはその男と結婚した後の生活だけに争点を充てるアジア的、インド的な結婚観と彼は欠片も相容れない。ヒンドゥー教徒の男は女の性を恐れているのだ。それを内包したアーシャが悪魔と形容したそれ。それを求める男と彼女は寝たのだ。かつてカーマスートラで芽吹いた女の欲望は、アーシャの血潮にも流れている。
もう息苦しかった。
そうでなければ、こんなことができよう筈もないのだ、ヒンドゥーの女に。
――――――――――――――――――――
次の朝、アーシャはリンゼイよりも早く起き出した。英国に来てからずっと行っていなかった、嘗ては慣れ親しんだ空間に戻る為に。彼女はシルクのナイトドレスを脱ぎ、インド更紗のサリーを身に着け、髪を後ろで一つに縛る。
香を焚いてから――今日は買って置いたが使わなかった薔薇の香に燻ぶらせた。
薔薇は、リンゼイのイメージである。金色で、白くて、彫刻みたいに整っている。好色な所は少し違うのだが……彼女は居間に移り、ソファの上に胡坐を掻いてゆったりと腰を下ろす。丁度鼻の位置で手の平と手の平を合わせて、緩慢に上へと伸ばした。それを何度か繰り返し、今度は仏像の様に均等の高さで揃った膝に手の甲を当て、掌を上に向ける。
始めは呼吸を整え、それから目を閉じた。すると、西欧では信じ難いことに彼女の全身は幸福感が生まれ、落ち着いてきた。随分離れていたのに、流れる血はインドのもの、すぐ還れることが可能なのだ。
この幸福感を使えば、我々は痛みすら超越できる。この感覚はエンドルフィンの為せる技だが、西欧人は最近発見した。
しかし我々ヒンドゥーは、数千年前から「これ」を知っていた。そして、それを阻害するものとして、穢れという概念を形作っていった。決して根拠のないものではない、しかし始めは人の幸福を願ったものだったとしても、人は堕落すると彼女は小さな頭で知っている。怠惰さと何もしないことへの体裁へと変貌する、欧州でいうところの「大衆」の果敢無さを。
父から息子へと何かが相続されるように、それと同じようにガンジスの血潮は母から私へ、もしかしたらこれからも私から子へ受け継がれていくだろう。アーシャは大いなる大河の一部に過ぎないと千里を走る智慧がいう。それは真理だ。
しかし、これから彼女は父に連なるアーリアの男たちに禁じられた、沢山の穢れを自ら求め、知識として頭に留めて、生きる知恵とするだろう。性のことだけではない、講義で聞き及んだ政治の学びは、ただ覚えて素通りするアーリアの法則に叶いそうもない。
カーテンの隙間から、朝のエネルギーが漂ってくる。朝陽が昇り始めている。アーシャは目を開けて見なくとも、それと知ることができた。肌の感覚が鋭敏になっていて、朝の冷気を感じ取れる。もし、これをサーとの閨房に応用したら、どうなるだろう。アーシャの鼠径部が別の生き物のように痺れを呼び起こした。想像しただけで、潤っている。彼女は目を開け、吐息を漏らし、気配を感じて瞼を上げた。
――リンゼイが腕に空虚を感じて目を覚ました時、その訳は妻が腕にいないことだと気付いた。昨夜脱ぎ散らかしたトレーナーパンツを穿き、寝室から出て彼が妻を発見した時、アーシャは出会った時のまま、ソファの上に蹲る雄の孔雀と成り果てていた。
いや、あれは骨董品屋で見かけた仏像の形だ。仏教に帰依したのか? 瞳を軽く閉じ、まるで浮かび上がりそうな風情で体中の力が抜けているのが見て取れる。至極整然と肩が上下し、たおやかな曲線を抱く輪郭が白い光に包まれ発光した。
否、光は朝陽のものである、だが、その光を内部に取り込むかのように見えて、リンゼイは目を見張った。肌に光が踊って、輝いた。尻の方まで流れ落ちる黒髪は柔らかいウェーブのまま、青み掛かっていた。
嗚呼、やはり、彼女はヒンドゥーを捨ててはいないのだ。
だが、リンゼイは結婚当初のように、それを下等な意識と繋がっている、とは思わなかった。微かな遺恨を残しつつも、彼は妻の半分が今以てヒンドゥーのものだと認めつつあった。大いなる悟りを生活の理念としたアーシャの精神美と、それらの価値を斥けてしまうほど美しい顔立ちと肉体の麗人。リンゼイは昨晩識ったことを思い起こした。自分は妻を半分も理解できない白人でしかないが、妻を愛している。
出会ったときから――会った時、アーシャはくりくりした大きな瞳に濃いアイラインを引いて強調し、髪は軽くせずに長く伸ばし、真ん中で分けてシニヨンにしていた。
伝統的な赤と緑のサリーを身に着け、しゃなりしゃなりと丸い尻を振って女性らしく歩く。料理をし、酒も夫以外の男がいると飲まず、態度も女らしくて物静かで、体付きは筋肉は余り付いておらず豊かで、リンゼイを立ててくれる。先進的なところは、余りない。
だが、完璧に女らしい彼女は、結婚に少しも興味を示さなかった。男には頼らず、好きな仕事にだけ執着し、家族を養おうとした。男の下に身を置かないその自制心と誇りの意識は、その魂が本来強い主導権を求めているということを現していたのだ。
生理的に受身となることを拒否していたが故に独り身だったのだと考えれば、彼女が自身を悪魔と表現したのも致し方なかろう。その野心と意志の強さは男尊女卑のインドでは相容れなかった。女が性的な嗜好を自分の為に考えることすら罪なのだから。
きっとヒンドゥーの神は、彼女を現世で試練に晒す為にそれらを与えたのだろう。妻のギャップが、倣岸と薄々知りつつもリンゼイの血を騒がせる。自分に宿る狩猟本能を、謎めいたアーシャがずっと擽り続けるだろう。
ふと、彼女の頬が紅潮し、その周りに漂う静謐が乱れた。
彼女がぼんやりと瞳を開けたが、視線定まらず陶然となっている。
それから此方を向いた女に、リンゼイはもう気付かれていながら足音を忍ばせて近付く。そして隣に深く腰掛け、彼女の体を後ろから引き寄せて腿の上に倒した。アーシャは戦かず、だらりと身を預けて彼を見た。
「アーシャ、何所にも行かないで欲しい」
彼女もそれを望んでいる。ここにいるのは確かにアーシャの主人であるが、同時に彼女の自由にできる愛しい「男」だった。自分はヒンドゥーを捨てられはしない、だが中道を採ることはできる。それが彼だ、私にとっての……。
アーシャは彼から目を離さず、手を伸ばして夫の顔に掛かる髪を掻き揚げて、頬をそっと導いて接吻を交わした。黒い瞳にはリンゼイが映り込んでいる。それが揺れ、片方の瞳から雫が一筋流れ落ちた。
「仰せのままに」
アーシャがリンゼイに惹かれたのは、きっと偶然ではなかったのだ。彼女にも今はそれが信じられる。彼のような許容範囲の深い欧州の男を選んだのは、当然の帰結だったのだ、と。御し易く、優しく、またそれだけの美貌と価値のある男は滅多にいない。
打算的なアジアの女は、それを愛と呼ぶ。
アーシャは次の学期、無事大学に合格した。彼らは入学の前に一週間の休暇を取って、インドへ蜜月旅行に行った。エアライン空港ニューデリー支社へ客として扱われ、彼女は恥ずかしそうな顔をする。
「アーシャ、貴女、結婚したのね」
「ええ、そうなの」
二人は自分たちが一番初めに過ごした思い出のニューデリーのホテルで休んだ。気怠い朝の空気に包まれて二人は幾度も抱き合い、タクシーに乗ってガンジス川を臨む。
彼女は金銭的負担が軽減されて自由に動ける強味を使って、時差ぼけで眠っている夫をホテルに置き、従兄弟のタクシーでバムセフのニューデリー事務所とダリット・メディア・センターを訪れた。戻って来た彼女が、バムセフで学校設立について聞いたことをメモしていた紙を見て、リンゼイはこのヒンドゥーの女性が本当は何をしたい女なのか、初めて識った気がした。
彼女は、インドを見捨てない――。アーシャがいるだけで御満悦だったリンゼイの何かが、少し形を変え、彼の視野が格段に展望を良くした。
無論旅行はそれだけではなく、彼女が一度も見たことのないといった愛のタージマハールを見に行った時には、赤々と染まった夕陽で空が染まって素晴らしい景観を拝することが出来た。リンゼイは半分は本心で、彼女に耳打ちする。
あのイスラムの王の様に自分も、何もかも君の了承を得てから行動し、君が推さない話には乗らない。
だが、心の隅ではいつまでも君の騎士のつもりでいたい、と。
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