インディア~親蜜の香り~その一章

サーガ

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インディア~親蜜の香り~その二章 2

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「では、貧しい人々はそうされたがっているから、今の生活をしているというのですか? いえ、それも一理はあるでしょう、でも誰もが餓死したいからしているなどとはいえない筈です。そもそもマハラナが料理人だと仰いましたが、それは生活の為ではないはずだ、単なる暇潰しでしょう。莫大な富を持っていながら、人間的な生活をひけらかして同調を求めるなんてのは、誤魔化でしかない」
 リンゼイの無作法に対し、義父の反応は思ってもいなかったものだった。
「これは度し難い唯物論者だ! 見えるものしか見えないのだから!」
 そういって、かかと笑ったのだ。それは喝采に近い。
「貴方様は御立派な政治家のようだ。違うのです、我々は内的世界の話をしているのですよ、いつだって不幸になるのは自分が悪いのです。犠牲のように見えるのは目が曇っているからなのですよ。人々は皆、あるがままに平和に、存在すべきです、自分が正しい、善いなどとは考えるべきではありません。世がどれだけ騒々しくても、常に自分の果たすべき役割をただ果たすことがヒンドゥーの平和です」
「――じゃあ、地主に襲われて身包み剥がされた挙句、乱暴されて井戸に突き落とされた女性は? 野晒しの不可触民の死体に何も思わないんですか? 夫に殴られる妻は? 焼き殺される妻の多さは異常としかいえない。善良に生きているのに降り懸かる災厄の七割は、宿命なんかじゃない!」
 その時、言葉を切ったのは義母と義姉が耳をサッと塞いだからだった。アーシャはそうしなかったが、どうやらそのせいで弟に耳を塞がれている。リンゼイが唖然と見返していると、弟がそれを止め、今度は英国人に向かって右手を伸ばし、白い手をペチリと叩いた。
「悪い考えを吹き込もうったってダメだよ、そんな話をこんな所で話して」
 その態度は決して、リンゼイを憎んでいるようにも馬鹿にしているようにも見えない、親愛を込めたものである。義父は同じように柔和な笑みを浮かべていう。
「そんなことを考えてはいけません、特に悲惨なことは話してもいけない、そんなことを家の中で考えていたら、意識から穢れを取り払うことが難しくなってしまいますよ。目に留めるもの、話すことは心に降り積もっていきます、穢ればかりを見ていると、人は自分の心を見たくなくなります。しかし何より幸福は無意識から現れ出でるものであり、だからこそ純粋に自分の内面を深く見つめねばならないのです。不幸を見ることで、我々の意思が穢れることの方を恐れねば」
 男は目を瞑って首を横に振った。
 まあ、だからアーシャを、働いているような女を選んだのやも知れぬ――古代インド叙事詩ではこういっている。賢明な男は蟲のわいた身体に触ることを避けるように、汚れた女の社会を避ける、と。しかしこの肌の白い男は穢れに突進し続け、生まれ変わらなければもっと大きな知恵とつながることはできまい。
 ヒンドゥーは「穢れ」を嫌う。貧しさ、醜さ、暴力。目の前で明らかであっても、自分の魂が侵食されないために近寄ろうともしなければ、助けようともしない。というよりも、ない物のように振る舞い、言葉にもしないのだ。
「確かに、そうかも知れませんね」
 こういって、ケルトの血を引く勇猛なブリテン人が黙りこくり、これ以上の論争を避けたのは敗北を帰したからではない。こんなことをいい出した婿を、アーシャが悲しげに見ていたから……まずい、一番いけないことをしてしまった。紹介の場で、相手の家風に合わないことを暴露してしまったのだ。こんな不心得者が夫などと嫌になってしまわないだろうか。
 そのせいで、この父にとって外国人は、宇宙意志に身を委ねず、自分の内的な側面と繋がることを自ら拒絶して混乱を主とし、その時々の大きな風潮に翻弄される犠牲者であるという考えを肯定したことになった。哀れなアングロ・サクソン人は自分の感情をコントロールすることもできず、ただただ突進するしか能がない、と。
 英国の新郎は貴族でありこそすれ、ヒンドゥー人の自分の国への無関心さは驚きと共に、怠惰であるようにしか映らなかった。その達観について、まったく話をすることができないと気付いてから、リンゼイは腹の底に苛立たしさを抱えて、インドを別の視点で見るようになった。
 そうか、そうだったのか、だからインドから貧困も、虐待も、争いもなくならないのか。何と無責任な国民、無責任な考え方、無責任な宗教だろうか。これだから西洋人は度し難い唯物論者ばかり、といわれようとも、目の前にある飢餓状態の人々を放置して、ヨガに耽って人生を愉しんでいることのいい訳にしか聞こえない。
 リンゼイは、英国人であることに新しく誇りを抱いていた。已むなくではあっても自分の国が選択した福祉制度、差別や他国からの難民の受け入れ、労働者階級の裁判、女性の地位の高さのすべてに。それらは彼の国が、目の前の貧困や虐待を悪と認識し、変えんとして戦った証しなのだ、それらの整備は神が行なったようには完全ではなかったとしても。
 こう思ったのは、リンゼイも彼の両親も昔からの労働党支持だったことが、大きいだろう。とはいえ、貴族の地位、端整な外見、長身だけでなく、標準的なキングズ・イングリッシュで、冷静を装う時に出る私立エリート校のパブリック・スクール訛りは、彼が高学歴のアッパークラスと呼ばれる上層階級であり、少しでも英国の階級主導の生活基準を知っていれば、彼を保守党支持者だと勘違いすること間違いない。それくらいに、血統によって区別される英国なのだ。
 またリンゼイの中にも、公立学校を卒業も出来ず、十六歳で世に出ていって失業する勉強不足の若年労働者を何処かで馬鹿にする気持ちがあるので、そう思われがちではある。しかしそうではなく、彼は保守党に票を入れる人間は、頭の軽い貴族か、頭の弱いフーリガンだけだと考えているのだ。
 英国における保守党支持者は、今でも広大な農地や森を私有化し、領主や卿として暮らす貴族たちが確かに多く、彼らはインドのバラモン同様労働者という下層階級からこの権利と血統を守り、チャーチルの英国に胸を張りたいと思っている。そして、インド他何処の国でもそうであるように、英国も保守党は教育の手を抜いて労働者を無知な愚か者に変えた。が、リンゼイの両親は高い教育を受けたが故に、何が正しいか、何を誇るべきか知っていたので、息子にはそれを教えた。
 インド人の婚約者は、容姿と発音で階級を探ることを知らなかったので、先入観なく付き合えたのだ。加えて彼の救いは、アーシャには社会への意識が仄見える純粋な晴眼があることだった。今までも彼が持ち掛ける英国の社会状況への苦言に、彼女は目を見開いて聞き入っていた。
 今日も家からリンゼイを送って再びホテルの部屋に入り、戸を閉めたことを確認してから、リンゼイがいう。
「さっき、ごめん」
「いいえ、いいんです」
「でも嫌だったんじゃないかな。僕はヒンドゥー教を悪くいう気なんかないんだ、敬意を払うつもりでいる。気に障ったなら本当に悪かった」
 と、彼が謝った時、彼女はリンゼイを見上げて、いった。
「父を物知らずだと思わないで下さいね、サー」
 と。
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