インディア~親蜜の香り~その一章

サーガ

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インディア~親蜜の香り~その二章 4

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 リンゼイがアーシャを連れて英国に戻った時、ロンドンはいつもの天気模様で曇り空が続き、寒々としていた。
  しかし見慣れた暗い空、空港からのタクシーから見える、町全体が見渡す限りきちんとコンクリートで覆われていることに、アーシャは圧倒されていた。市街地にはカフェやパブ、様々な店が並び、それから郊外に入って綺麗に色が塗られた家屋が続く。首都は様々な人種が入り混じる、混沌の街である。大量の若い浮浪者、麻薬中毒者、アルコール中毒のホームレスに混じって、サリーを着た女や、ターバンの男もいる。インド人は移民の歴史が長く、排他性や低賃金に耐え、依然として白人からの差別も根強いのだが表面上、上手く溶け込んでいた。
  しかし人工的な郊外で赤いサリーを着たアーシャは、南国から攫われてきた飛べない大きな鳥の様相を呈して、酷く儚げだった。自分の家で彼は初めて化粧を落とした彼女の顔を見たのだが、罪深いほど幼く、繊細で愛らしかった。アジア人はゲルマンからすると皆そう見える。
  アーシャを両親の家に連れて行き、午後のお茶を愉しみながら婚約者として紹介したのは、リンゼイの自宅で三日過ごして時差ぼけが治ったのを見計らってからのこと。事前に「大事な人を連れて行くから」と断ったので、白髪雑じりの両親は快く接待してくれた。そして、それまでも二人は同じベッドで抱き合って眠っていたが、この三日目の夜、二人はやっと二度目に「寝た」。
  処女の固さを解きほぐしていくのは、辛抱の要る作業この上ないが、リンゼイに否やはない――部屋の明かりを消して初めて、彼はこの花の匂いが粗野なまでにエロティックだと知る。インドの香水はそれはもう甘く、濃厚で、合成に慣れた鼻には攻撃的ですらある。
  それから、内々に歓迎と御披露目のホームパーティが催されたのは、その日から再び三日後、両親の家でである。ソファの居間と、テーブルセットが置かれたキッチンとの間にあった簡易の壁を取り払っての、二十人程度のパーティでも彼女はずっとリンゼイの後ろに隠れていた。彼は彼女を自分の育った子供部屋に案内したのだが、やはり気になるようで、ぶつぶつと口の中でいい訳をしていた。
 「兄と一緒の部屋で二段ベッドだったから、兄が寄宿学校に入った時は嬉しくてね、うちにはがらくたが多くて狭いんだ」
  この「がらくた」が、代々受け継がれる貴族に特権があった頃のアンティークであり、それらの中でも価値の低い骨董も、日本製の新車が買えるほどだと知ったのは、パーティの会話を盗み聞いたからだった。それでなくても吹き抜けの階段や、客間、二階の子供部屋と寝室の大きさはよりアーシャを萎縮させる。
  しかし、二人の結婚に対して、反対は表立ってはなかった。
  リンゼイはもう三十路近い自立している航空操縦士であり、その男が決めたことを一体誰が覆せるというのだろう。それは家族からも独立した後は、一個の人間として扱われる英国の慣わしでもある。差別意識は残っていたが、それを恥ずかしいものだという価値観は誰にでも存在するようになっている。始めは寧ろ、皆喜んでくれた。結婚は言祝ぎであるのは何処の国でも同じである。
  アーシャは清楚で、若く、美しい。英語も話せるし、礼儀正しい。料理を持ち寄るこのクッキング・パーティにも、美味しいインド料理を作って持参し、他に買って来られた寿司、パスタ、中華に彩りを加えた。両手を合わせて深々とお辞儀する様は、信仰は違えど彼女が健全で敬虔な良識を持つ者だと教えてくれた。初めて結婚する裕福な男に、それ以外に何が必要であろうか。
  しかし、内心誰も納得していないのはリンゼイにも良く分かっていた。それが表出したのは、ささやかなパーティが開かれた後、彼女だけがリンゼイの家に戻った時だった。居間に残っていたのは両親と独身の兄、医者になった従姉妹、家族同然のリンゼイの親友ジョナサンとその妻メグである。
  酒のグラスを手にそれぞれ静まり返ったその場を支配する、しめやかだが確固たる重圧を感じて、リンゼイは三人掛けのソファに母親と座りながら腋の下に嫌な汗を掻いていた。
  小さなスツールにちょこんと腰掛ける従姉妹ジュリーが、場を和ませるためか肩を竦めていった。光り輝く染めていないブロンド、ほっそりとした長身の美人である。
 「可愛い人だったわ。いいんじゃない、毎日エスニック料理が食べられるもの」
 「そうかしら、料理が美味しいからって結婚するなんて」
  応えたのは、リンゼイとも友人であるメグ。従姉妹とは仲が悪いわけではないが、二人の子供を持つ専業主婦なので、金銭にも恋愛にも放埓で個人主義に過ぎる独身の医者ジュリーとはいつも見解が違う。女にも階級が存在し、自分を自分で支えられる強者ゆえの無頓着さともいおうか、ジュリーは女王の寛容さで他の女を見ているのだ。
  しかし場は大凡メグの意見に賛成であるようだ。爵位を持った小児科医の父は、指定席である一人掛けのソファに座っている。難しい顔をし、
 「外国の、途上国の女性と結婚するということがどういうことか、分かっているんだな?」
  と静かに聞いた。母は父にすべて任せているようで、心配げな顔で見比べている。リンゼイは真剣に答えた。
 「分かっているよ」
  いや、分かっているとはいい難い。文化や階級、貧富、愛情表現の差、それだけではない、最も壁に成り易いのは生活と良心の差でもある。何処の国も、風習を良心の表現だと思って行ない続けてきた。女性への虐待然り、不可触民への差別然り……英国の人権意識を盾にしても、それは悪癖と良心の戦いではなく、良心と良心の戦いだから決着がつかないのだ。
  実際に思い起こせば、アーシャとの愛が上手く行っているのか定かではない。彼女はまだリンゼイを信用していないのではないか。彼が示すささやかな愛情を拒絶して、アジア女性、特にヒンドゥー的な美姫の末裔たる女らしさを武器に、自分の意志を押し通す。英国の女は男とのどんな口論でも戦い続ける、それがブリテン女の誇りなのだ。労働賃金も定年引き延ばしも、彼女たちが法廷という場所で戦ってきた証しだ。
  彼にとっては、ずっと男女差などなく話し合うことそのものが愛の強さの表れだったのに、男の最も弱いところ――セックスもしくは庇護心を突いて条件を許諾させられるのは、アジア男はご機嫌かもしれないが北欧の男には心外そのもの――だが、それらは致命的な落胆や腹立ちを溜めていく類のものではなく、愛が失せる気配は、ない。
  だが、それを今ここでいう気はない。問題とされているのはそれではないのだ。ともかく結婚における他の短所ではなく、こんなことを思い起こすことそのものが、リンゼイの愛をはっきり示している。
  目下、何よりもアーシャはインド人で、まず第一に貧しい。これから彼女の家の援助は何もかもリンゼイが担うことになるだろう。英国に義理の家族を全員呼ぶのか? それとも治安の悪いインドに留め置くのか? アーシャは英国に馴染めるのか?
  そもそも彼女は真実リンゼイが信じるように、損得なしで付き合い始めたのか? 騙されているのではないか? 自分で自分を経済的に支えられない女が、英国の社会福祉に任せきりで働かなかったり、強くて善良な人間に寄生しようとする結婚は、対アジアの女だけではなく英国内だけでも間々ある。
 「こんなこといいたくないけど、降りるなら今しかないんだぜ」
  笑いを交えながら本気で引止めたのは、兄のロバートだった。その言葉にリンゼイは頬の紅潮と、微かな怒りを感じる。子供じゃないのだ、考えたことがないわけがない。友人として付き合って半年、やっと寝て、まだ一週間しか付き合っていない。それなのに結婚するというのか、狂気染みているのは判っている。
  結婚ともなればアーシャが妻だということは皆に知れ渡る。貴族のコミュニティにも、会社にも、隣近所にもリンゼイの妻が後進のアジア人だということが……だから、嫌になったからやめた、とはいい辛い。しかし今なら、シュードラの恋人に二週間の夢を見させてやった英国の紳士で片が付く。二週間、異人の恋人を自国に連れ帰って豪遊させてやるだけでも、それは本気の証しになる筈だ。
  ニューデリーにいさせて通う形なら、もっと気楽にいつでも辞められる関係でいられただろう。嫌になったら文字通り、もうニューデリーに降りなければいいのだから。後は、今ここでアーシャだけニューデリーに帰し、もう連絡しなければすべての重圧から解放される。
  この場にいるのは悪人ではない。全員沈黙し、皆まで口にすることはできないが、リンゼイにもこれが二度目の、そして最後の別れるに相応しい時だと分かった。今ここで別れなければ、あとはもう同じ英国人と付き合っても面倒臭い愁嘆場を演じなければ離れられない関係となる。
 「彼女を愛してる」
  顔を上げて、兄を見つめていってしまうと、プレッシャーが襲ってくると思っていた。だが、反対にスッキリする。その場は再び静まり返った。空気が変わり、何人かからは溜め息が漏れる。一体彼女の何が、恵まれた英国男の心を捕らえたのか――。
  少しして隣に座っていた母親がリンゼイの肩に手を置いた。兄を見るのをやめ、母親を見ると意外なことに微笑んでいた。
 「おめでとう、リンゼイ」
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