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日比さんは九時少し前にオペ室に入った。
すぐさま奏が麻酔の導入を行い、九時半前には手術ができる状態となった。
「ではこれから日比順子さんの手術を始めます。小腸穿孔及び腹膜炎に対し、小腸部分切除術、腹腔ドレナージを行います。手術時間は一時間を予定しています。皆さん、準備はよろしいですか?」
手術室に優しい低音が響き、そこにいる皆が頷きかける。
因みに今日の手術はギャラリーつきだ。滝川外科本部長と山本腫瘍外科部長が奏のすぐ後ろから、研修医の遠藤は前立ちの井上の横から立ち見している。奏の手術にかなり興味があるようで、慌てて回診を終わらせ手術着を着て駆け込んできた。
「ではよろしくお願いします」
奏は、前回の手術の創(きず)に沿って、さぁっとメスを走らせ、続いて電気メスで皮下組織を丁寧に切開し、あっという間に開腹がおわった。
「思ったより癒着してますねぇ」
彼はそう言いながらも忙しく動かすメス先に目を凝らし、腹壁にくっついた小腸をどんどん剥離していく。
そこにためらいは一切感じられない。
――― は、速いな……。
前立ちの井上と、背後霊のように奏の後ろにくっついて覗き込んでいる二人の部長は、心の中で呟いた。
「ねぇ桜木先生、どうして一気に開腹できたの? てっきり僕は、癒着が予想されるからもっと丁寧にやるんだろうなぁ、と思ってたんだけど」
奏より少し年上の相沢が、麻酔の位置から不思議そうに言った。
「あぁそれは、さっきのCTで、この場所の下には腸管がなかったですよね? だからこの場所は安全だと分かってましたから」
「そっかぁ、師匠勉強になります!」
奏の朗らかな声に反応する、おどけているけれど真面目な声が、緊張した空気の中にさざめきのような笑いを起こす。
その間も奏の手は同じリズムを刻んでおり、刹那「よし、癒着は剥がし終わった」と、歯切れの良い声がその場に響いた。
「えっ、もうかよ!?」
相沢は驚きの声を漏らした。
――― 確かに早い、それに正確だ……。
と、これは背後霊の二人。
「いや、本当に勉強になる……。遠藤もしっかり見ておけよ」
前立ちの井上はしみじみと言い、遠藤はカクカクと頷いた。
「そんな事ないですよ」奏はハハハと小さく笑い、「それより、やっぱり原因はこの小腸ですね」と、今度はいたって真剣な眼差しをして、骨盤腔で一塊になった小腸を指差した。引き続きお腹の中を凝視しながら、
「ここの腸管以外には、飛び散ったガンの影響はなさそうですね……。予定通り部分切除します。これで日比さんも、また食べられるようになるでしょう」
マスク越しなので全ての表情は分からないものの、周りにいるスタッフの目に、奏は微笑んでいるように見えた。
彼の手は休むことなく、骨盤腔の再発巣から小腸を丁寧に剥離し、腹腔外へと挙上する。
そして、癒着した腸管同士も剥離して、一直線の小腸に戻していった。
相沢は何気なく壁の大時計に目をやったが、直ぐに驚愕の声を上げる。
「ご、五分!? マジか!」
あまりの速さに驚くのも無理はない。
加えて奏のクーパーの刃先は、しなやかに優しく愛護的に動いており、それは見る者に穏やかに時が流れているように感じさせ、もっともっと長い時間が経ったように錯覚させたのだった。
「穴は、この二ヶ所ですね……。ここを含めた小腸を切離して吻合します」
「了解! 思ったより小腸の切除は少しですみそうだな」
「はい、僕もそう思います」
奏と前立ちの井上医師はテンポ良く言葉を交わし、同じタイミングでフッと顔を上げ、一瞬楽し気に視線を合わせた。
その後奏は、腸間膜を処理して小腸を切除、それから手縫いで小腸を吻合していった。
「あ、十時ですね」奏は時計にチラリと目をやって呟き、「あとは洗浄して、ドレーンを入れて終了です。なんとか約束は守れそうで良かった~。大見得切りましたけど、間に合わなかったらどうしよう、なんて思ってました」
軽口のように言って、ハハハと笑う。
「これだけの技術だ、謙遜することはないよ」
滝川本部長がぬっと横から顔を出し、感心したように言った。
「いえいえ、井上先生のお陰です。初めての相手の前立ちって、相手がどうやって執刀するのか普通戸惑うものですが、僕にすんなり合わせて下さったので、本当にやりやすかったです」
「やめろよぉ、俺はそんなお世辞にのるほど単純じゃないぞ」井上はまんざらでもない顔で言ってから、「ところで桜木君、今度焼肉でも行くか?」でへへと心の声が漏れてくるようだ。
「滅茶苦茶のっかってるし……」
と相沢が突っ込みを入れ、手術室にはみんなの笑い声が響いた。
その後、腹腔内を多量の生理食塩水で洗浄してドレーンを3本挿入、滞りなく手術は進み、十時半に閉腹が終わった。
「ありがとうございました。あとは僕がやっておきますので、皆さんは食道の手術に備えて下さい」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
と、井上と相沢。
「それにしても勿体ないなぁ、なんで外科医辞めたんだい? 女性問題か? 君カッコいいし、色んな女の子とナニして、何かやらかしちゃったのか?」
粗野で不躾な質問を投げかけたのは、山本腫瘍外科部長。
井上と相沢は吹き出し、それ以外の医師と看護師は目が点だ。ビックリな問題発言だが山本のキャラクターだろうか、不思議と不快感はない。
「い、いや、女の子とは何もありませんっ!」
「てことは、男とやっちゃったのか!?」
「そぅじゃなくて、僕は単純に緩和とやりたぃって違うっ! 緩和がやりたいんです!」
手術室には奏の慌てた声が響き渡った。
すぐさま奏が麻酔の導入を行い、九時半前には手術ができる状態となった。
「ではこれから日比順子さんの手術を始めます。小腸穿孔及び腹膜炎に対し、小腸部分切除術、腹腔ドレナージを行います。手術時間は一時間を予定しています。皆さん、準備はよろしいですか?」
手術室に優しい低音が響き、そこにいる皆が頷きかける。
因みに今日の手術はギャラリーつきだ。滝川外科本部長と山本腫瘍外科部長が奏のすぐ後ろから、研修医の遠藤は前立ちの井上の横から立ち見している。奏の手術にかなり興味があるようで、慌てて回診を終わらせ手術着を着て駆け込んできた。
「ではよろしくお願いします」
奏は、前回の手術の創(きず)に沿って、さぁっとメスを走らせ、続いて電気メスで皮下組織を丁寧に切開し、あっという間に開腹がおわった。
「思ったより癒着してますねぇ」
彼はそう言いながらも忙しく動かすメス先に目を凝らし、腹壁にくっついた小腸をどんどん剥離していく。
そこにためらいは一切感じられない。
――― は、速いな……。
前立ちの井上と、背後霊のように奏の後ろにくっついて覗き込んでいる二人の部長は、心の中で呟いた。
「ねぇ桜木先生、どうして一気に開腹できたの? てっきり僕は、癒着が予想されるからもっと丁寧にやるんだろうなぁ、と思ってたんだけど」
奏より少し年上の相沢が、麻酔の位置から不思議そうに言った。
「あぁそれは、さっきのCTで、この場所の下には腸管がなかったですよね? だからこの場所は安全だと分かってましたから」
「そっかぁ、師匠勉強になります!」
奏の朗らかな声に反応する、おどけているけれど真面目な声が、緊張した空気の中にさざめきのような笑いを起こす。
その間も奏の手は同じリズムを刻んでおり、刹那「よし、癒着は剥がし終わった」と、歯切れの良い声がその場に響いた。
「えっ、もうかよ!?」
相沢は驚きの声を漏らした。
――― 確かに早い、それに正確だ……。
と、これは背後霊の二人。
「いや、本当に勉強になる……。遠藤もしっかり見ておけよ」
前立ちの井上はしみじみと言い、遠藤はカクカクと頷いた。
「そんな事ないですよ」奏はハハハと小さく笑い、「それより、やっぱり原因はこの小腸ですね」と、今度はいたって真剣な眼差しをして、骨盤腔で一塊になった小腸を指差した。引き続きお腹の中を凝視しながら、
「ここの腸管以外には、飛び散ったガンの影響はなさそうですね……。予定通り部分切除します。これで日比さんも、また食べられるようになるでしょう」
マスク越しなので全ての表情は分からないものの、周りにいるスタッフの目に、奏は微笑んでいるように見えた。
彼の手は休むことなく、骨盤腔の再発巣から小腸を丁寧に剥離し、腹腔外へと挙上する。
そして、癒着した腸管同士も剥離して、一直線の小腸に戻していった。
相沢は何気なく壁の大時計に目をやったが、直ぐに驚愕の声を上げる。
「ご、五分!? マジか!」
あまりの速さに驚くのも無理はない。
加えて奏のクーパーの刃先は、しなやかに優しく愛護的に動いており、それは見る者に穏やかに時が流れているように感じさせ、もっともっと長い時間が経ったように錯覚させたのだった。
「穴は、この二ヶ所ですね……。ここを含めた小腸を切離して吻合します」
「了解! 思ったより小腸の切除は少しですみそうだな」
「はい、僕もそう思います」
奏と前立ちの井上医師はテンポ良く言葉を交わし、同じタイミングでフッと顔を上げ、一瞬楽し気に視線を合わせた。
その後奏は、腸間膜を処理して小腸を切除、それから手縫いで小腸を吻合していった。
「あ、十時ですね」奏は時計にチラリと目をやって呟き、「あとは洗浄して、ドレーンを入れて終了です。なんとか約束は守れそうで良かった~。大見得切りましたけど、間に合わなかったらどうしよう、なんて思ってました」
軽口のように言って、ハハハと笑う。
「これだけの技術だ、謙遜することはないよ」
滝川本部長がぬっと横から顔を出し、感心したように言った。
「いえいえ、井上先生のお陰です。初めての相手の前立ちって、相手がどうやって執刀するのか普通戸惑うものですが、僕にすんなり合わせて下さったので、本当にやりやすかったです」
「やめろよぉ、俺はそんなお世辞にのるほど単純じゃないぞ」井上はまんざらでもない顔で言ってから、「ところで桜木君、今度焼肉でも行くか?」でへへと心の声が漏れてくるようだ。
「滅茶苦茶のっかってるし……」
と相沢が突っ込みを入れ、手術室にはみんなの笑い声が響いた。
その後、腹腔内を多量の生理食塩水で洗浄してドレーンを3本挿入、滞りなく手術は進み、十時半に閉腹が終わった。
「ありがとうございました。あとは僕がやっておきますので、皆さんは食道の手術に備えて下さい」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
と、井上と相沢。
「それにしても勿体ないなぁ、なんで外科医辞めたんだい? 女性問題か? 君カッコいいし、色んな女の子とナニして、何かやらかしちゃったのか?」
粗野で不躾な質問を投げかけたのは、山本腫瘍外科部長。
井上と相沢は吹き出し、それ以外の医師と看護師は目が点だ。ビックリな問題発言だが山本のキャラクターだろうか、不思議と不快感はない。
「い、いや、女の子とは何もありませんっ!」
「てことは、男とやっちゃったのか!?」
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手術室には奏の慌てた声が響き渡った。
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