緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

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朝の回診 601号室 

「竹内さん、ご機嫌はいかがですか?」

入ってくるなりそう言ってニッコリ微笑む若造を見つめながら、病棟一の頑固者はしかめっ面を少しほどいた。

「調子はいかがですかだろーが! まったくしょーもない医者だなぁ。調子は普通だ」

「ははは、すみません」

「はははじゃないだろ? ったくどこまで能天気なんだ、付き合いきれんっ!」

竹内さんは呆れた声を投げた直後、また眉間にしわを寄せ窓の方を向いてしまった。

大体いつもこんな感じだが、奏は特に気にする風でもなく、むしろ遠慮のない物言いは竹内さんらしくて良い、と前向きに捉えている。
また気難し屋の患者の方も、奥さんや看護師目線の話によれば、三週間前に来た若造を結構気に入っているらしい。

「きれいな青空ですね」
奏は竹内さんの視線を追って、窓の外に目をやった。
「テレビのお天気お姉さんも、今日はめちゃくちゃ天気が良くなるって言ってましたよ」
爽やかに話しかけつつも、
――― またあの虚ろな目だ。切なくて寂し気で……、いったい何を思われているんだろう。

奏は、いつもは威勢のいい老患者が時おり見せる遣る瀬無いような眼差しが、ずっと気になっている。

言いたく無いことは、無理に言わなくていい。
そう思う一方で矛盾するようだが、心配ごとがあるのならそれを取り除く手助けをしたいし、何か望みがあるのなら出来る限り力になりたい、抱えこまないで頼って欲しい、と切に願っている。

「竹内さん?」

「ん? あ、ああ」

やはり何か考え事をされていたのだろう、振り向いた顔には先ほどのようないかめしさは無く、突然声をかけられ少し驚いているといった雰囲気だ。眉尻も微妙に下がっている

「な、なぁ先生よぉ……」

「どうされました?」

目の前にいる老人が、躊躇ためらいつつも何かを話そうとしているのは明らかだ。奏は短く穏やかに問いかけ、返事を待った。

しかし竹内さんは、行き成りくっと表情を険しくし、
「どうもしてねぇよ。もう用事は済んだんだろう? 俺は一人になりたいから、とっとと出て行ってくれって言いたかっただけだ!」
捲し立てるように声を張り上げ、またプイっと窓の方を向いてしまった。

――― 仕方がないか……。
「気付かず、失礼しました」
奏は明るくソフトに言って踵を返し、ドアの方へ歩いて行った。

「竹内さん、何かご要望があれば、遠慮せずにおっしゃって下さいね」
微笑みを浮かべつついつもと同じ言葉を口にすると、部屋から出て行った。



その二日後の日曜日も、奏はいつもと変わらず病院にいた。

外科医の頃も、学会等で遠くへ行く時や夏休みを除いては、当たり前のように毎日病院へ行っていた。
まぁその点は周りの医者達も同じで、奏だけ特別というわけではなかったが、仕事はデキる人間に集中するもので、当時彼が担当する患者の数は、他のどの外科医よりも多く、そのうえ一人一人に時間をかけて向き合っていたため、病院での滞在時間は、他の医者よりも明らかに長かった。

『ホントにお前は病院が好きだな~。お前が残ってると下の医者が帰りづらいだろう? ちょっとは気ぃ遣ってやれよ~』

――― よく同期や先輩たちに揶揄われたっけ。結局そこは譲れなかった。譲れなかったせいで……。

一人きりのエレベーターの中、ふっと思い出がよみがえり、端正な顔がわずかに翳る。我に返りふと前を見れば、既に六階に着いておりドアが全開になっている。

――― おっと

奏は白衣の裾を翻し、急いで箱から降りた。

ナースステーションに寄り、一通りカルテを確認してから病棟回診、とまぁこれはいつもの流れだが、少し違うのは、竹内さんの病室の中からドアの外に賑やかな笑い声が漏れてることだった。
ちょっと高めで可愛らしい子供の声も混じっている。
奏は楽し気な変化に呼応するように、軽やかにドアを叩き声を弾ませる。

「失礼します」

――― あれ? オレ部屋間違えたかな?
イケメン医師は、ちょっと間抜けに目をパチクリ。

ベッドの上には、幼稚園生くらいの可愛いらしい女の子が座っていて、上半身を起こし柔和な笑みを浮かべるお爺ちゃんと差し向かいになり、キャッキャと楽しそうにあや取りをしている。
二人の傍には小学校三、四年生くらいの男の子がいて、子犬のように瞳をキラキラさせながら、『お爺ちゃん、お爺ちゃん』と、かまってオーラ全開でベッドの端っこにへばりついている。

子供たちを見つめるお爺ちゃんの顔には、いつものきびしさは一切なく、その眼差しは実に温かく愛情に溢れている。

――― くくく、竹内さん別人みたい、いや別人だな。目じりが顎まで下がっちゃってるし。

べッドの横には、ご夫婦と思われる三十代後半の男女が立っている。竹内さんの奥さんはといえば、窓際の椅子に座り、奥からみんなの様子を嬉しそうに見つめている。

「竹内さん、おはようございます。賑やかで楽しそうですね。お邪魔だったでしょうか?」

「ああちょっとな」笑みを浮かべ揶揄い口調の竹内さんの声に被せ、「あ、先生ですか? いつも父がお世話になっています」と、ベッドの横に立つ男性。

「この四月から緩和ケア病棟を担当をしている桜木と申します。よろしくお願いします」

「先生、父がいろいろご迷惑をお掛けしていると、母から聞いています。申し訳ありません。でもとても良くして下さるそうで、本当に有り難うございます」
息子さんは丁寧に頭を下げた。

――― 竹内さんをそのまま若くしたような感じだけど、凄く礼儀正しい人だ。

「余計なことを。俺はこの物知らずに、色々教えてやってんだ」

「はい、色々教えて頂きながら楽しく会話させてもらっています」
奏の明るい声に途中から、「ねぇねぇおじいちゃ~ん」と、甘えたような可愛らしい声が重なった。

皆の視線が、ベッドサイドで布団を揺り動かしている男の子に集中する。

「ねぇ、あそこいつになったら行けるの~? あったかくなったらって、ずっと前言ってたけどさ~、もうあったかくなったよぉ?」

男の子はもちろんだが、ベッドの上の女の子も、顔を上に向けて竹内さんの表情を覗き込みながら、色好い返事を待っている様子だ。

「ん? あぁそうだなぁ、お爺ちゃんがもう少し元気になったら行こうな。ごめんな」

竹内さんには『あそこ』で十分通じたらしい。ほんの一瞬困ったような表情をしたが、直ぐに穏やかな笑みを浮かべ、すまなさそうに言った。孫たちを見つめる優しさを湛えた瞳は、一方でとても寂しそうに見える。

「そうなのぉ? じゃぁ直ぐには行けないんだ……」男の子はがっかりした声を漏らし、女の子は「ねぇお爺ちゃん、いつ病気が治るの?」と無邪気に問いかける。

隆之たかゆき里奈りな、おじいちゃんを困らせちゃダメでしょう?」
母親が、やんわりと子供たちをしなめた。

奏は隆之君の脇に座り、笑顔で「どこに行くの?」と。
すると間髪容れず「なかしまスパーランドと中島なかしま温泉!」と、はしゃいだ声が返ってくる。

「へ~、なかしまスパーランドって、どんなところなの?」

「遊園地だよ。先生知らないのぉ?」
と不思議そうな隆之君。
「あのね、いっぱい乗り物に乗れるんだよ、すっごく楽しいの」
と声を弾ませる里奈ちゃん。

「そっかぁ、先生この辺のこと全然知らなくてさ、教えてくれてありがとうね」

「うん!」
と、子供たちは満面の笑みで元気いっぱいに声をそろえる。

二人と話しながら、奏の脳裏には確信めいたものが浮かんでいた。

――― 竹内さんが話そうとしていたのは、これじゃないか? 


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