緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

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「なん……て?」

小さな希望を滲ませつつも、信じられないという表情をする相手に奏はそっと微笑みかけ、優しく語り掛ける。

「竹内さん、中島、お孫さんたちと行きませんか?」

老人は涙を拭い、先ほどとはうって変わったしっかりした声で、いまだ信じられない思いを口にし始める。

「でも今までの医者は、俺が外出したい、家に帰りたいって言ってもダメだって言ったぞ? 少し気が合う看護師さんに、医者に外出を止められたって話したら、そうですかって気の毒そうな顔で言うだけだった。だから俺は、もう無理なんだって諦めてたんだ……」

「そうでしたか……。でも僕は、できない事ではないと思っています。今回の場合、ご家族の協力は必要不可欠ですが」
奏は、奥さんと息子さんの方に視線を移した。

「先生、いくらでも協力させて頂きます。本当に父はいけますか!?」
興奮気味に問いかける息子さんの瞳は、うっすらと濡れている。

ええ、と奏は大きく頷いて、
「ただ、途中で急に状態が悪くなる事もありえますから、色々な場合を想定して、ご本人もご家族も安心して過ごして頂けるように、しっかりとした準備は必要になります。それをご理解、ご協力頂ければ大丈夫だと思います」

「父さん、中島行くかい? 母さんもそれでいい?」

奥さんは小さく何度か頷きながら、
「ええ、私一人では無理だけど、お前たちが手伝ってくれるなら……お父さん、行きましょう?」
と嬉しそうに言う。その瞼には今にも零れ落ちそうなものが、光っている。

竹内さんはまた嗚咽を漏らし始め、返事ができずにいる。

「そうと決まれば……息子さんのご都合がよろしいのは、いつ頃ですか?」

「ちょうど来週の土日が休みなんです。準備とかってまだ間に合いますか?」
息子さんは早口に言って、奏が「はい」と頷くのを見ながら「あっ、念のため妻に聞いてみますね」
言うが早いサッとスマホを取り出し、操作し始める。

「あっ、まだお子さん達には内緒にしといて下さいね。申し上げた通り、それまでに準備が整わなければ、僕も許可できませんから。楽しみにする子供の夢を壊したくないですからね」

ニッコリ微笑む奏に、「分かりました」と微笑を返しつつ、余ほど気持ちが急いているのか次の瞬間には、スマホのボタンを押し奥さんに電話をかけている。
そして繋がった後は、『後でゆっくり話すけど』と用件だけ短く話して電話を切った。
喜色を浮かべる顔を見れば答えは聞かずとも分かるが、「どうでしたか?」と奏は念のため尋ねた。

息子さんは、まるで重大な発表をするかのように一瞬言葉をためてから、
「妻も子供も予定はないみたいです!!」
満面の笑みで声を張り上げた。

「じゃあ、これから忙しくなりますね。僕も微力ながらお手伝いさせて頂きます。みんなで力を合わせて頑張りましょう!」

軽やかに言いながら、奏は涙が止まらない様子の竹内さんをチラリと見つめ微笑んだ。
奥さんと息子さんに頭を下げ、踵を返してドアに向かって歩きだす。

「先生……」
涙に濡れたしわがれ声に呼び止められ、奏は振り返る。

「どうされました?」

「あり……がとう……本当にありがとう……」

感極まったように紡がれる言葉とともに、竹内さんは奏に対して初めて、混じりけのない笑顔を見せた。

奏は予想もしていなかった竹内さんの対応に胸がいっぱいになりながら、
「お礼は、旅行が無事終わってから聞かせてもらいますね」
と口にし、一番の笑顔を返した。



奏がナースステーションに戻ると、師長と青木さんがいる。

――― おっ、ナイスタイミング!!
「お二人にちょっと相談があるのですが……」
と言いながら足早で近づく奏に、「どうしたんですか? そんなに興奮した顔で」と青木さん。

「えっ、顔に出てます?」

「そりゃあもう。で、今度は何ですか?」
と青木さんは苦笑を浮かべる。

「ええとですね……、竹内さん、家族で中島温泉に一泊旅行に行きたいそうなんです♪」
それはまるで自分が明日遊園地にでも行くような、楽しそうな声だった。

「はっ??」「えっ??」
師長も青木さんも耳を疑い、眼孔から零れ落ちそうなほど目をまん丸に見開いた。

「ん? どうしました? 中島温泉知らないんですか? 良かった~。僕も知らなかったんですよ~」

――― お前アホか!?
二人の看護師は同時に心の中で呟いた。
「そうじゃありませんよ! 先生、いいですか? 竹内さんは食事を摂る量も減ってきています。それに足の力も弱くなってますし、痛みも日に日に強くなってきてるんですよ!? 外泊どころか、外出さえ厳しいのに……」

「そうですが、でもそれがなぜ旅行に行けない理由になるんでしょうか?」

「……」

看護師達は、なんとか突拍子もない考えを止めさせようと頭をフル回転させている。
一方奏は言葉も出ない二人を目の前に、思いを込めて話し続ける。

「食事を摂る量は十分ではないかもしれませんが、全く食べれないわけではないですよね? 足の力も弱くなりましたが、支えがあればゆっくりですが歩けます。車椅子にも座れますよね? 痛みも痛み止めレスキューで落ち着きますよね?」

「それはそうですけど」「でもですね」
二人は反論しようとしつつも次の言葉が出てこない。却下する理由はいくらでもあるのだが、奏の言葉を聞いているうちに、確かに行けなくは無いのでは? と、魔法にでもかけられたように心が揺らぎ始めたからだ。

「それにですね」
奏は二人を眺めながらはやる気持ちを落ち着け、穏やかな声で語りかけた。

「中島温泉に行くのは、お孫さんとの約束を守りたいからなんです。それが今の竹内さんの一番の望みなんです」

『お孫さんとの約束』『一番の望み』、そんな殺し文句を聞いて二人は同時に溜め息を吐き、思案するのを止めて顔を上げた。

「わかりましたよ、先生。それで、何から始めましょうか?」

「そうですね~」
と考え込む奏に、青木さんはあれこれ具体的な言葉を口にする。
「私達は竹内さんに必要な器材が揃うように手配しますね。車椅子も借りる手配をしないといけないし、酸素も必要かしら? ええと、きっと車で行かれますよね。ご家族はどんな車に乗っているのかしら?」

「ワオッ、さすがは緩和ケアの看護師さんだ。決まったら、次々に出てきますね」

「そんなご機嫌とっても、何も出てきませんよ」
と青木さん。師長は部下の声に大きく頷いている。

「じゃあ『竹内さんの楽しい中島旅行プロジェクト』って事で、頑張っていきましょう」

二人の看護師は、まるで弟を見つめるような眼差しで奏を見つめ、微笑した。
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