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事務手続きを終え院内の案内が一通り終わったあと、院長と奏は院長室のソファーに向かい合って座った。
二人の前に置かれたコーヒーからは湯気が立ち上っている。
「桜木先生、来てくれて本当にありがとう。いやぁ前任が突然辞めて常勤の医者が見つからなくて困ってたからねぇ、こちらとしては本当に大助かりだよ」
一瞬置いて『ただ』とつなげようとしたが、奏の方が早かった。
「いえ僕の方こそ助かりました」
中性的な美しい顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「ちょうど緩和ケアで働きたいと思っていたところでしたし、このまえの『一心会』(同門の医師の会)のパーティーで院長に声をかけて頂いて、運命を感じましたよ」
「あぁいやあの時は、誰か知り合いに来てくれそうな良い医者は知らないかい? と聞いたつもりが、まさか君自ら来てくれるなんて」
「また秋葉先生と一緒に仕事ができて、本当に嬉しいです」
君から連絡があったときは、冗談かと思ったよ……。
微笑する奏を見ながら、秋葉院長は心の中で呟いた。
先ほどから彼の脳裏には、大学病院時代の奏のことが断片的に浮かんでいる。
――― 桜木君は優秀さを鼻にかけず、誰に対しても優しく穏やかだ。責任感も強い。死を前にした患者と向き合うには申し分のない人柄ではあるが、しかし……。
「私が言うのもなんだが、やはりもったいないね~。君みたいに優秀な外科医が一人減ってしまうのは、大学にとっても痛手だろうし、君なら将来確実に教授になれただろうに……」
奏はハハハと声を上げて笑い、外科医にうってつけの指の長い大きな手をひらひらと横に振った。
「そんな事ないですよ。僕より優秀なのはいっぱいいますし、水野や河合も立派なもんですよ。それにもともと僕は、出世には興味がありませんし」
「そうは言ってもね~」
大学病院時代のことが、院長の脳裏にありありと浮かぶ。
二人が一緒に仕事をしたのは奏が医師になって六年目、外の病院での修業を終え、大学病院に呼び戻された時からの二年間だ。
大学病院に戻って日が浅いその日、奏は教授のオペの第一助手を務めていた。
一方秋葉は他の医師たちと、見学室から手術の様子を見守っていた。
――― 桜木、教授がやりやすいようにやりやすいように絶妙なタイミングと角度で手を動かしてる。頭が良いし目端が利く。風格もある。こいつはきっと出世する……。
秋葉の中の医者の勘がそう囁いた。
教授もよほどやりやすかったのだろう。ある時から教授が行う大きな手術の前立ちは、必ず奏が指名されるようになった。
そして秋葉が大学病院から出る頃には、奏は執刀も任されるようになっていた。
――― たかが八年目の医者が、あの大学病院で大きなオペの執刀をするのは異例なことだった。後にも先にも私が知っているのは桜木君ただ一人だ。
彼のオペの前立ちを務めた時には、当時二十数年目の私も、その手技の巧みさに引き込まれた。
驚くほど出血の少ない精緻な手術。彼のしなやかな指が生み出す時間が、清流のように緩やかに、しかし確実に流れていた。
確かに桜木君の同年代には、将来の幹部候補と目される優秀な医者が多かったのは認める。だがしかしだ……。
「君は手術の腕だけじゃなくて、職場の人間からも患者さんからも人望があった」
懐かしそうな瞳で噛みしめるように言う院長に、奏が茶目っ気たっぷりに言葉を返す。
「秋葉先生? 僕を外科医として大学に戻したいんですか? それなら今から帰り」
「いやいや、そんなことはないよ」
院長は慌てて奏の言葉を遮り、誤魔化すように勢いよくコーヒーを啜ったが、直ぐに「あちぃっ」とおっちょこちょいな声を上げた。まだ冷めていなかったらしい。
「大丈夫ですか? 相変わらずそそっかしいですねぇ」
奏はくすくす笑いながら愛ある毒舌を吐き、コーヒーカップを口に運ぶ。どちらが年上やらといった雰囲気だ。
院長はカップをソーサーに戻し、「なあ桜木先生」と戸惑いを滲ませ奏を見つめた。
「立ち入ったことを聞くようだが、やっぱりまだあのこと気にしてるのかい? だから……」
落ち着きはらってコーヒーを飲んでいた奏の眉間に、一瞬くっと力が入ったように見えた。しかし直ぐに表情は和らぎ、「いいえ」と小さくかぶりを振る。
「もう終わったことですし、今回の転科とは関係ありませんよ。前から緩和に興味があったって、メールでも電話でも言ったじゃないですか~」
軽快な声が室内に響き、院長はそれ以上深追いするのをやめた。
奏が院長から視線を逸らし窓の外に目をやると、二匹の黄色い蝶が仲睦まじく戯れながら病院の庭を飛んでいた。
二人の前に置かれたコーヒーからは湯気が立ち上っている。
「桜木先生、来てくれて本当にありがとう。いやぁ前任が突然辞めて常勤の医者が見つからなくて困ってたからねぇ、こちらとしては本当に大助かりだよ」
一瞬置いて『ただ』とつなげようとしたが、奏の方が早かった。
「いえ僕の方こそ助かりました」
中性的な美しい顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「ちょうど緩和ケアで働きたいと思っていたところでしたし、このまえの『一心会』(同門の医師の会)のパーティーで院長に声をかけて頂いて、運命を感じましたよ」
「あぁいやあの時は、誰か知り合いに来てくれそうな良い医者は知らないかい? と聞いたつもりが、まさか君自ら来てくれるなんて」
「また秋葉先生と一緒に仕事ができて、本当に嬉しいです」
君から連絡があったときは、冗談かと思ったよ……。
微笑する奏を見ながら、秋葉院長は心の中で呟いた。
先ほどから彼の脳裏には、大学病院時代の奏のことが断片的に浮かんでいる。
――― 桜木君は優秀さを鼻にかけず、誰に対しても優しく穏やかだ。責任感も強い。死を前にした患者と向き合うには申し分のない人柄ではあるが、しかし……。
「私が言うのもなんだが、やはりもったいないね~。君みたいに優秀な外科医が一人減ってしまうのは、大学にとっても痛手だろうし、君なら将来確実に教授になれただろうに……」
奏はハハハと声を上げて笑い、外科医にうってつけの指の長い大きな手をひらひらと横に振った。
「そんな事ないですよ。僕より優秀なのはいっぱいいますし、水野や河合も立派なもんですよ。それにもともと僕は、出世には興味がありませんし」
「そうは言ってもね~」
大学病院時代のことが、院長の脳裏にありありと浮かぶ。
二人が一緒に仕事をしたのは奏が医師になって六年目、外の病院での修業を終え、大学病院に呼び戻された時からの二年間だ。
大学病院に戻って日が浅いその日、奏は教授のオペの第一助手を務めていた。
一方秋葉は他の医師たちと、見学室から手術の様子を見守っていた。
――― 桜木、教授がやりやすいようにやりやすいように絶妙なタイミングと角度で手を動かしてる。頭が良いし目端が利く。風格もある。こいつはきっと出世する……。
秋葉の中の医者の勘がそう囁いた。
教授もよほどやりやすかったのだろう。ある時から教授が行う大きな手術の前立ちは、必ず奏が指名されるようになった。
そして秋葉が大学病院から出る頃には、奏は執刀も任されるようになっていた。
――― たかが八年目の医者が、あの大学病院で大きなオペの執刀をするのは異例なことだった。後にも先にも私が知っているのは桜木君ただ一人だ。
彼のオペの前立ちを務めた時には、当時二十数年目の私も、その手技の巧みさに引き込まれた。
驚くほど出血の少ない精緻な手術。彼のしなやかな指が生み出す時間が、清流のように緩やかに、しかし確実に流れていた。
確かに桜木君の同年代には、将来の幹部候補と目される優秀な医者が多かったのは認める。だがしかしだ……。
「君は手術の腕だけじゃなくて、職場の人間からも患者さんからも人望があった」
懐かしそうな瞳で噛みしめるように言う院長に、奏が茶目っ気たっぷりに言葉を返す。
「秋葉先生? 僕を外科医として大学に戻したいんですか? それなら今から帰り」
「いやいや、そんなことはないよ」
院長は慌てて奏の言葉を遮り、誤魔化すように勢いよくコーヒーを啜ったが、直ぐに「あちぃっ」とおっちょこちょいな声を上げた。まだ冷めていなかったらしい。
「大丈夫ですか? 相変わらずそそっかしいですねぇ」
奏はくすくす笑いながら愛ある毒舌を吐き、コーヒーカップを口に運ぶ。どちらが年上やらといった雰囲気だ。
院長はカップをソーサーに戻し、「なあ桜木先生」と戸惑いを滲ませ奏を見つめた。
「立ち入ったことを聞くようだが、やっぱりまだあのこと気にしてるのかい? だから……」
落ち着きはらってコーヒーを飲んでいた奏の眉間に、一瞬くっと力が入ったように見えた。しかし直ぐに表情は和らぎ、「いいえ」と小さくかぶりを振る。
「もう終わったことですし、今回の転科とは関係ありませんよ。前から緩和に興味があったって、メールでも電話でも言ったじゃないですか~」
軽快な声が室内に響き、院長はそれ以上深追いするのをやめた。
奏が院長から視線を逸らし窓の外に目をやると、二匹の黄色い蝶が仲睦まじく戯れながら病院の庭を飛んでいた。
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