緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

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その後院長の話は、仕事や院内の人間関係のことに移っていた。だんだんと雑談の様相を呈し、いつのまにか話題は趣味のゴルフや車のこと、グルメ情報にすり替わっていた。

――― もう十一時近い、そろそろ戻らないと。

奏がちらりと壁の丸時計に視線を向け、泉のように湧き出す雑談をどう切り上げようかと思った刹那、
「すまない、ついうっかり喋りすぎてしまった。いやぁナースにもよく注意されるんだよ~、空気読めって」
院長は苦笑交じりに話にピリオドを打った。

田舎の病院のほのぼのした雰囲気が伝わってきて、奏は思わずクスリ、
「お話、とても参考になりました」
感じの良い声を出し一礼すると、院長室を後にした。

――― さあ急げ!

小走りで緩和ケア病棟に戻り、入り口の自動ドアから入って行くと、ナースステーションには師長ともう一人、三十代半ばくらいの看護師がいるだけだった。

「守屋師長、遅くなってすみませんっ」

「走ってきたんですか!?」

驚いている師長の顔を見ながら、奏はこくこくと頷く。

「大丈夫ですよ先生、院長が相手ですからもっと遅くなると思ってました。話が長いですからね」
きっぱり言い切る守屋師長。その横から、
「院長、寂しがり屋さんですからね」
と、からっとした声が飛ぶ。

――― 院長秋葉先生の印象はみんな共通してるな……。

三人で声を上げて笑った後、
「そういえば先生、看護師の紹介がまだでしたね。彼女は加藤主任です」

「加藤です。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

「彼女こう見えて三児の母なんですよ。前は大笠市民病院でバリバリオペ看してたのを、私が引っこ抜いてきたんです」

守屋師長の言葉からは、加藤主任への全幅の信頼が窺い知れる。

――― 小柄で可愛らしい感じ、確かにお子さんが三人もいるようには見えない。それに大笠市民のオペ看かぁ……。バリバリこなしてたなんて、そうとう頼りになりそうだ。

大笠市民病院は、オペ件数が多いことで全国的にも有名である。

「いえいえ、四十過ぎて息切れしてきたので、拾ってもらえてラッキーでした」

――― 四十過ぎ!? 女性の歳は本当にわからない……。

奏が目を丸くしたとき、「ところで桜木先生」と師長から声がかけられた。
「あ、えぇと、はい」間の抜けた声で返事をする奏に、「次は病棟を案内しましょうか?」と。

「はい、少しでも早く患者さんに会いたいので」

真摯な表情と温かみのある声を聞きながら、前任者伊集院よりはマシな感じで良かった……、と師長は胸をなでおろした。

前任の伊集院いじゅういんは、奏と同じように一流の国立大学を出た四十代前半の医師だったが、エリート意識が強く横柄な男だった。
『看護師はグダグダ言わずに医者の指示に従って下さいよ』
下の看護師たちが、何度バカ医者に暴言を浴びせられたことか。
患者やその家族に対しても、思いやりなど感じられたためしがない。
常に自分が中心の伊集院は、辞める時も彼らしかった。
『もっと条件が良い病院に移るから』と、悪びれもせず突然言って、後任のめども立たぬなか、その翌々週には有休消化と称し病院には来なくなり、そのまま退職した。

なんて自分勝手なヤツ! 守屋師長はそう憤る一方で、患者さんたちのためには辞めてくれて本当に良かった、と安堵もしていた。立場上、もちろん口にはできなかったが。

後任が来るまでは、内科や外科の医師が交代で緩和を診ることに決まったが、本来の業務だけでも手がいっぱいなのに、と不満の声が上がる。
突き上げられ後任探しに奔走する院長を見ながら、伊集院のようなバカ医者だけは来てくれるな! と、師長は心の底から祈っていた。


――― ま、院長はこの先生のこと褒めてたけど、医者目線での優秀はイマイチあてにならないし、使い物になるかならないかは、未だ分からないけれどね……。

「そうですか、では早速ご案内しますね」

「ありがとうございます」

ナースステーションを出て開放感のある廊下を歩きながら、奏は今朝目を通したカルテの内容を思い出していた。

「この病棟は全部で十八床ありますが、今入ってみえるのは」

「十五人ですよね」
さらりと奏が口にした言葉に、師長は眼鏡の奥の目を丸くして、「よくご存知ですね」と。

「今朝院長を待っている時に、カルテには一通り目を通しました」

――― ああなるほど、そういうこと……。

そうこうするうちに、師長は一番手前の部屋の前で立ち止まった。

「ここが601号室です。こちら側の部屋の並びが南向きになっていて、609号室まであります。そして北側に610号室から618号室まであります」

師長の指差す廊下の奥には全面窓を通して、遠くに青い山々が望めた。
窓の外では木々が緩やかに風に揺れている。屋上庭園になっているようだ。
窓の内側にはゆったりとした白いソファーが見える。

「良い景色ですね。向こうに見えるのは養老山脈ですか?」

奏は遠くを覗き込みながら言った。

「ええ、周りに高い建物がないですから、どちらの方角を見ても眺めは良いですよ。それがこの緩和ケア病棟の売りでもあります」

「良いところですね。僕は院長に感謝しなきゃ」

「それだけ田舎ってことですけどね」

二人は顔を見合わせて小さく笑った。

「さて、そろそろ竹内さんにご挨拶させて頂きましょうか」

何でもない風に発せられた言葉に、師長も「そうですね」と返し、601号室のドアをノックしかけたが、ピタッと動きを止めて奏を振り返る。

「どうして竹内さんだって分かったんですか?」

奏はえ? という表情を見せる。
「さっきカルテは全部見たって言ったじゃないですか?」

「それはそうですが……」

――― まさか全部覚えたってこと? いやいやたまたまよね……。

師長は心の中でブツブツ言いながら、ドアの方に向き直り601号室をノックした。

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