マルクスとビターチョコレート

Yuki

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珈琲と罪の間で

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 夕暮れが近づくと、僕は〈ル・ジャルダン〉の木製ドアにそっと手をかける。軋む音が小さく響き、珈琲の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。店内に足を踏み入れると、夕陽の薄オレンジが窓からこぼれ、木のテーブルに柔らかな影を落とす。
 カウンターに近づくと、玲子がすでに座っていて、微笑みを向けてきた。僕は彼女の隣に腰を下ろした。玲子と過ごすこの時間が、僕の心にそっと灯りをともしてくれる。
「お疲れ様、亮くん。いつものブレンド?」とマスターの涼子さんがカウンター越しに言う。長い黒髪がゆるく揺れ、彼女の声が店内に溶け込む。
「お願いします。仕事終わりにこのお店の珈琲を啜るのを楽しみにしていたんです」と僕は返す。
「亮くんが常連になってくれて嬉しいよ」と涼子さんが笑う。
 玲子がカップを手に持つ。「涼子さんの珈琲、落ち着くよね」
「そう言ってくれると、やりがいを感じるよ」と涼子さんが笑った。
 二年前、この店で玲子と出会った。
 珈琲の苦味を話題に、彼女が「私も好きだよ」と笑った瞬間から、僕は彼女とここで過ごす時間が宝物になった。
 玲子がスプーンで珈琲をかき混ぜる。湯気が眼鏡を曇らせ、静かな声が響く。「昨日また『復活』を読んでいたんだけど、情熱ってやっぱり罪と救いが一緒なんだね。怖いよね」 彼女の瞳に、トルストイの深い影が揺れている。
「おーい、亮!玲子ちゃん、こんばんは!」と健太が陽気な声で入ってくる。
。「健太くん、夕方から騒がしいね」と涼子さんが言う。
 デニム姿でカウンターに近づき、「仕事終わりの解放感だよ。それに亮と玲子ちゃん見てると、元気が出るんだ」と笑う「なにそれ」と玲子が苦笑した。
「珈琲淹れるよ。落ち着いて」と涼子がたしなめる。健太の笑顔が、大学時代の気楽な日々を思い出させる。
 アルバイトの美咲ちゃんが、珈琲を提供してくれた。「亮さん、玲子さん、お待たせしました」声が明るく、エプロンに珈琲の染みが小さく滲んでいる。
「美咲ちゃん、大分慣れてきたんじゃない?」と玲子が言う。
「大学が忙しいけど、ここで働くのは楽しいです。涼子さんが優しいから」と照れる。その初々しい笑顔が、店内に温もりを添えてくれる。

「東和物産」のフロアは、電話の音とキーボードの響きでざわめいている。建材やインテリアを扱う三十人ほどのチームで、朝九時から夕方六時まで数字を追う。窓の外はビルの影、机の上には書類が散らばり、珈琲の香りを恋しく思う。仕事が終われば〈ル・ジャルダン〉へ向かうのが僕の習慣だ。玲子の笑顔が、頭の片隅で揺れている。
 昼休み、後輩の斎藤志保が僕のデスクに近づいてきた。珈琲のカップを手に持つ姿が、いつもより近く感じる。
「ねえ、長谷川さん」と甘い声で切り出す。「この前、佐々木リーダーと話してた時、亮さんの彼女さんの話になったんですよ」 彼女の瞳が光る。
「何だよ、突然」と僕は返す。
「私、玲子さんって方が会社のイベントに来て、長谷川さんと一緒にいるの見たことがありますよ。付き合っている人がいるって聞いていたから、ああ、あの人が玲子さんかってずっと気になってたんです」と続ける。声が少し低くなり、「あの玲子さんってさ、ちょっと地味じゃないですか? 私なら、もっと亮さんとドキドキする時間過ごせると思います」と笑う。
「冗談だろ」と返すが、
「私ともデートしてくださいよ」と畳み掛ける。彼女の笑顔が、胸に小さな棘を刺す。
 上司の佐々木さんが割り込んで、「斎藤、長谷川にあまり絡むなよ」と言う。落ち着いた声がフロアに響く。「佐々木さん、もしかして嫉妬? 私のこと気になっているでしょ?」と彼女がからかう。
「それはない。お前が入社した時から、人誑しなのは知ってるからな。落ち着け」と返す。「長谷川、お前の彼女と一度会ったことがあるけど、いい子掴まえたよな」と僕に言う。
 彼の言葉が、玲子への想いを呼び起こす。「佐々木さん、私の方が美人ですよね?」と斎藤が笑うと、
「余計なこと言うな」と佐々木さんがため息をつく。
 同期の首藤彩花が書類を手にデスクに寄ってくる。「長谷川くん、これ確認お願い」と言いながら、少し躊躇うように続ける。「そういえば……玲子さんとは上手くいってるの?」
「首藤までか」と僕は返すが、彼女はただ微笑んで書類を置く。一週間前、深夜のオフィスで珈琲を淹れながら、彼女に玲子のことを少しだけ話したことがあった。その時の静かな瞳が、今も頭に残っている。
 その日も〈ル・ジャルダン〉で玲子といつものように珈琲を飲んでいると、奈緒が現れた。
「玲子、亮くん、久しぶりね」長い髪が揺れ、声が店内に響く。
「奈緒ちゃん、ライターの仕事忙しいんじゃないの?」と涼子が聞く。
「フリーランスだから時間はあるよ。亮くん、玲子ちゃんだけで物足りないんじゃない? そろそろ私とも付き合ってよ」と奈緒が笑う。
「高校時代からの親友の彼氏を、目の前で口説かないで」と玲子が文句を言う。
「冗談だよ」と奈緒が返すが、その視線が僕の心をかすめる。
 玲子が珈琲を手に持ち、「亮、最近疲れてるみたいだから、夏休みになったらどこか旅行でも行こうか」と言う。声が優しく、心に染みる。
「ブラジルとかどう?」と僕は返す。
「珈琲の産地巡り、いいね。トルストイの本も持ってくよ」と玲子。その笑顔が、疲れた僕を包む。「涼子さん、『復活』読んでみて。情熱が罪と救いだって分かるから」
「私には難しすぎるんじゃない?」と涼子がいった。

 僕らが取り組んでいたプロジェクトが成功し、打ち上げが開かれた。そろそろ終わりというところで、斎藤が僕の腕にそっと触れ、「長谷川さん、二人で二次会行きませんか? 新プロジェクトの相談もしたいです」と誘う。目が光り、甘い声が耳に絡みつく。
「相談なら会社でいいだろ」と言いかけるが、
「お願い。まだ飲み足りないんです」と押しの強い彼女に流されてしまった。
 駅前から少し離れたバーは薄暗く、ビールの泡がグラスで弾ける。彼女が隣に座り、肩が触れる距離で囁く。
「玲子さんだけで満足しているんですか? 私ならもっと悦ばせてあげますよ」
 その言葉に、酒の熱が頭を巡る。「その過度な自信はどこから来るんだ?」と返すが、
「長谷川さんを私のものにしたいだけです」と彼女が笑う。
 斎藤の手が僕の膝に滑り、指先が軽く這う。ビールの苦味が喉を通り過ぎ、心が揺れる。
「やめとけ」と呟くが、彼女の唇が近づき、吐息が首筋に触れる。
「玲子さんにはできないこと、してあげます」と囁く声が、僕の理性を溶かす。
 バーを出ると、彼女が腕を絡めてくる。ホテルの部屋に入り、ドアが閉まった。彼女が僕のシャツのボタンを外し、肌に触れる指が熱い。彼女の髪が頬をくすぐり、彼女の唇が首筋を辿る。僕は目を閉じ、玲子の笑顔を押し殺すように彼女を抱き寄せる。
 ベッドの上で、彼女の息が乱れ、肌が汗で湿り、絡み合う体の熱が部屋を満たす。
「長谷川さん、気持ちいいでしょ」と囁く声が耳に響き、僕は彼女の腰に手を這わせる。罪悪感が胸を締め付けるが、酒と彼女の熱に溺れる。
 やがて動きが止まり、彼女が僕の胸に顔を寄せる。「私のものになってくれましたね」と呟く。その声が、鋭く心に突き刺さった。
 翌朝、会社のデスクでコンビニの缶珈琲を傾けていた。冷たい感触が指先に伝わり、玲子の「情熱って罪と救い」が頭をよぎり、胸が締め付けられた仕事に集中できなかった。
 残業を切り上げて〈ル・ジャルダン〉に寄ると、涼子さんがカウンターから僕をじっと見つめてきた。「亮くん、顔色悪いよ」と言う。
「寝不足かな」と誤魔化すが、彼女の目が心を見透かす。珈琲の香りが漂う店内で、僕は昨夜の過ちを握り潰そうと手に力を込めた。
 次の日も職場で斎藤が近寄ってきた。「長谷川さん、また飲みに行こう。玲子さんより私が幸せにできるよ」と言う。声が熱く、耳にまとわりつく。
「お前、いい加減にしろ」と返すが、
「長谷川さんは私のものだもん」その言葉が、悦楽の記憶を呼び戻す。
 夕暮れになって、彼女から逃げるように〈ル・ジャルダン〉のドアを開けて窓辺の席へ向かう。玲子がすでに来ていて、隣に腰を下ろした。斎藤との過ちが頭をよぎり、玲子との幸せが崩れる恐怖に息が詰まる。
 玲子が「亮、なにかあったの?」と聞く。声が柔らかく、心に染みる。
「大丈夫だよ」と誤魔化すが、彼女が僕をまっすぐ見つめる。
 玲子の手が僕の手に触れる。温もりが罪悪感を溶かし、遠くで揺れていた光が近くに感じられる。珈琲の表面に映る彼女の顔が、静かに揺れている。
「亮、隠さないで」と玲子が言う。柔らかな声が胸に刺さり、目を逸らすことができない。彼女の目には、深い優しさと、どこか不安げな影が宿っている。
「実は……」言葉が喉で詰まる。斎藤との過ちを告げるべきか、迷う。玲子の笑顔が崩れる姿を想像すると、息が苦しくなる。でも、彼女の瞳が僕を捕らえ、逃げ道を塞ぐ。
「何でもない、って言いたいけど、そうじゃないんだ」とやっと絞り出す。
 玲子が小さく息を吸い、僕の手を握る力が強くなる。
「亮がそんな顔してる時、黙ってられないよ。話して」と彼女が言う。声が震えていないのに、心が震えているのが分かる。
 僕は目を閉じ、深呼吸する。珈琲の香りが肺に満ち、記憶の中の玲子の笑顔が浮かぶ。二年前、彼女が「私も好きだよ」と笑った瞬間が、昨夜の熱と汗に塗り潰されそうになる。
「僕、間違えたんだ。玲子以外の誰かと……一晩だけ、でも」と言葉が途切れる。店内の静寂が重く、涼子さんのカップを拭く音だけが遠くに響く。
 玲子が手を離さない。彼女の瞳が揺れ、唇が小さく開く。「亮がそんなことをしても、私は許すよ。亮がここにいてくれるなら」と言った。声に涙はなく、ただ深い光がある。
「ごめん」と呟く。喉が乾き、珈琲に手を伸ばすが、指が震えてカップを傾ける。黒い滴がテーブルに広がり、玲子がハンカチで拭いてくれる。
「トルストイが言ってたよね。情熱は罪と救いを一緒に連れてくる。私、亮の全部を受け止めるよ。それが私の情熱だから」と彼女が言う。眼鏡の奥で瞳が濡れ、でも笑顔が崩れない。
 僕はその言葉に救われる資格があるのか分からない。斎藤の甘い声が耳の奥で響き、玲子の温もりがそれを押し返す。罪悪感は消えないけれど、彼女の手が僕を離さない。
 窓の外で夕陽が沈み、店内に薄闇が広がる。涼子さんがカウンターから小さく切り出した。「珈琲、お代わり淹れようか?」その声が、時間をそっと動かす。
 玲子が僕の手を握ったまま、「夏休みの旅行、ブラジルで珈琲豆見てくるのもいいよね」と言う。いつもの優しい声が戻ってくる。
「うん、そうしよう」と返す。声が掠れるけど、心に小さな光が灯る。玲子のそばで新しい珈琲を飲みながら、僕は罪と向き合い、救いを求める道を歩き出せる気がした。
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