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秘書課の仕事
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「おはようございます」
タイムカードを切って着替えのためにロッカールームへと向かう。
ちらりとデスクの島に目をやると私の指導担当をしてくれている夏川真帆(まほ)さんは既に準備を整えてスタンバイしていた。
ほんの少しだけ気まずいと思いながらも急いで着替えようとすると、更衣室には先客があった。
「おっはよう、冴子ちゃん♪」
「おはようございます」
運が悪いと言うべきか。同じく秘書課の先輩である小田梢(こずえ)さんに捕まってしまった。彼女は「女の子好き」を公言していて実際に対女子の言動は実に軽い。気に入った女子には遠慮なく迫ってくるし触ってもくる。
年代としては、真帆さんは30代前半、梢さんは20代後半といった所で、梢さんの方が私とは年齢が近い。
真帆さんがしっとりとした和風美人なのに対して梢さんは明るくて活発な印象で、見た目はほんの少しだけど、同期入社で受付業務の仲間だった友紀に似ている気がする。
友紀は元々色素が薄い感じだったけど、梢さんは目鼻立ちがはっきりしていて、肩よりほんの少し長いくらいの髪を赤っぽいブラウン色に染めていた。
私より少し小柄で、身のこなしが非常に素早い人だ。学生時代から陸上の選手だった、との談である。
「暑いよねぇ、毎日」
「そうですね」
私は適当に返事をしながら着替えにかかると、梢さんが「これ、あるよ?使う?」と汗拭きシートのパッケージを見せてきた。
…できれば使わせてもらいたい。
「使いたいよね、そう顔に書いてある」
くすくすと笑いながら梢さんはパッケージから一枚、大判のシートを取り出した。
「拭いてあげる~」と私に迫ってくる。
「だ、大丈夫です」
「まあまあ、減るもんじゃなし、拭かせてよ」
「…」
きつめに拒否するのも変かなと思って黙っていると、それを了承と受け取られたようで梢さんは「じゃ上全部脱いで」と言いつつ私のブラジャーのホックを外しにかかった。
「あ、ちょ、待ってください」
「待ちません」
梢さんは実に楽しそうだ。防ぐ間もなくさっと私の下着は剥ぎ取られてしまい、私は梢さんの目の前に裸の上半身を晒す恰好になる。
「わー、やっぱいつ見ても大きいよね、冴子ちゃん」
「…」
一応腕で隠しているけれど、梢さんの視線は私の胸に注がれている。
「そこにこそ、汗が溜まるんじゃないの?」
汗拭きシートをつまんだ手で指差されたのは私の胸の谷間だ。鋭いが直接的すぎて困ってしまう。
あー、と思うがもう遅い。興味津々といった風情の梢さんに言われるがまま、私は首から脇、背中や胸の谷間まで丁寧に汗拭きシートで拭かれる事となった。
シートにはひんやりとしたメントールの美容駅がたっぷり染み込んでおり、拭き上げた所はものすごくスースーする。
「…あ」
「何ですか」
ぎくりとするが極力それを表現しないように問い返す。
早く着替えを済ませたいのに、こういう時に限って更衣室に新たに入る人物もなく、梢さんが変な悪戯を思いつかないようにという事と、毎日のように美咲さんと交わっている痕跡が梢さんに見つからないで欲しいという事を考えた。
「これ…」
梢さんがシートと私の胸とを交互に見ながら笑う。
更に嫌な予感がするがそれがどういうものなのかは見当もつかない。
「これで乳首を拭き取ったら気持ちいいんじゃないかと」
一瞬それを想像してしまい私の顔が赤くなる。
「やらないよ?やらないけど思いついちゃった」
アハハ、と梢さんは笑っているけど、私の様子を見て「冴子ちゃんもエロいなあ」などとけらけら笑っている。
私は気を取り直して着替えを続けた。身体を拭いてはもらったが、あえて御礼は言わずにおく。
異動してからこのかた、梢さんにはしょっちゅうこういう悪戯をされているのだ。おそらく対象は私に限らないだろうが、どちらかと言うと梢さんには気に入られている方だと思う。
私は舌打ちしたくなるのをこらえて着替えを続ける。
ボルドーカラーを基調とした秘書課の制服は社内の女子からの人気が高いが、制服目当てで務まるほど秘書課の業務は簡単ではなかった。
セクハラ要素満載の人だけど、梢さんはとにかく仕事は速いし正確で、人格面を覗けばとても優秀な先輩なのだ。だからむしろたちが悪いとも言える。
急に梢さんは静かになってしまい、かえってその沈黙が不気味で、着替えを終える直前私は梢さんの方を見た。
スマホでも見ているのかと思ったけど、梢さんは私の方を見ていた。
「どうか、しましたか」
「…いや、ちょっとエロい気分になっちゃうと冴子ちゃん顔が変わるなあと思って」
「…そうですか」
私は思わず下を向いてしまう。
「顔に出る」とは以前美咲さんにも指摘された事がある内容だったから、それが美咲さん以外の人にもわかってしまうほど、私の表情の変化は露骨なのかと思い気持ちが落ち込んだ。
「…冴子ちゃん、変な男にめちゃくちゃ遊ばれたりしたでしょ、あ、答えなくていいけど」
「じゃ答えません」
いつの間にか梢さんもすっかり着替えを済ませている。どうやればそんなに手早く着替えられるのか、謎だ。
私は梢さんのセクハラにそこまで嫌悪感を持っているわけじゃないし、この半年近くの期間の中である程度仲のいい関係とは呼べるぐらいになった。だからこそ、繰り出されるセクハラに対して私も言いたい事を言い返しているのだけど。
秘書課メンバーからはそれが仲睦まじいように見えているらしいけど、そういう解釈をされるのは幾分不本意だ。
ただ、梢さんは梢さんなりに、異動してきたばかりの私をどうにか和ませたり、課に溶け込めるようにはからってくれていると感じる場面も多くあったから、派手な言動の裏には気使いがある人なのだという事もわかる。
「…ま、いいか」
梢さんは今の話がなかった事であるかのようにテンションを切り替えて笑顔になる。「先に行ってるね」とさっさと更衣室を出て行ってしまった。
私も慌てて支度を済ませ真帆さんの待つデスクへと向かう。
*-*-*-*-*-
秘書課で実務に携わるメンバーは今の所全員が女性である。年齢や経験、スキルの差はそれぞれにあるけれど、ここでは皆ファーストネームでお互いを呼ぶというルールがあった。それは勿論、課員同士の会話においてのみの事だけど。
例えば結婚して姓が変わる事もあるし、そんな場合も考えるとこれは合理的なルールでもある。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
改めて真帆さんに挨拶すると、柔らかい笑顔が返ってきた。
この人は無条件に人を癒すパワーがあるのか、その笑顔を見ただけでほっと心が落ち着く気がする。
これから仕事なので落ち着き過ぎてはいけないのだが。
異動して以来、私は真帆さんの補佐役という立場で彼女の仕事を分けてもらい、秘書としての仕事の流れややり方を覚えている最中だ。
美咲さんに近づけるという一点でこの部署への異動を喜んでいた私だけど、秘書の利用率と言うか、どこまでのサポートを必要としているか、その度合は部長役員それぞれに個人差があった。
秘書を使う、というやり方をデフォルトとしてとらえているかどうかは年代や経歴によってもかなり違う。特に若い部長職の人あたりだと実務の割合も多く、そこまで秘書を頼る人はいなかった。
異動初日に、秘書課の存在意義というものについてこう語られた。
基本的には課員は減らす方向にあり、徐々にセルフマネジメントを行える人たちの役職が上がってきて、秘書課が課の形で永遠に残る事はないかもしれない、という事である。
勿論社長をはじめ役員まで上がればそのニーズは高くなるし、やるべき仕事も増えてくるけど、それらにしても必ずしも秘書がしなければならないという考えは、徐々に廃れていくのではないか、と。
だからこそ、専業の秘書である以上は「いてもいなくても同じ」と言われるような仕事ではだめなのだ、と釘を刺された。
人に平等に与えられた一日24時間を、特に要職にある人物には有効活用してもらう必要があるし彼ら自身もそれを望んでいる。
秘書業務は時間を生み出すためにある、という心得は重要だ、との事だった。
「いずれは全員引き継ぎたいけど」と真帆さんからは言われているが、手始めにあまり秘書を酷使しないタイプの進藤部長だけ担当するようになったのがここ2、3ヶ月の事である。
正直、進藤部長だけならわざわざ秘書のリソースを一人分割くほどの業務量ではない。けれども進藤部長自身は秘書の使い方がどちらかと言うと上手くない方で、何でも自分でやろうとする割に抜け漏れがあるような気がしている。
新人の私が付いているから尚更、遠慮されているのかもしれない。
そのように思わせている段階で、私の落ち度であると思う。
今日の進藤部長のスケジュールは、朝から晩まで会議がぎっしりだ。
これは昼食を摂る暇さえ取れないかもしれない。
最初のうちは会議体の名前も、関連部署の名前もプロジェクト名も、何の事だかさっぱりわからなかったけど、最近になりようやく言葉と意味が繋がるようになった。
わからない事があったとして、進藤部長本人に意味を尋ねるわけにはいかないので、それについては真帆さんをはじめ各部門の役員を受け持つ先輩秘書に言葉の意味を教えてもらったりする日々が続いた。
…しかしこのスケジュールではほぼ丸一日進藤部長本人と話をする暇はないかもしれない。
朝のうちに、昼食の事と会議で配る資料があるならそれらを準備する旨申し出るぐらいか。
その他、空いた所は真帆さんの仕事を分けてもらおう。
今日やるべき事をあらかた頭の中でまとめた所で、真帆さんが言う。
「進藤部長、まだ冴子ちゃんと話すの緊張してるよね」
いつの間にそんな事をチェックしているのかと思うが、それは多分事実なので「はい」と応じる。
「親しくなると、『可愛い女の子は大好き』とかそんな事まで言う人なのにねえ」
「…そこまで、気を許してはもらえてないです」
「そうなのよね」
「どうしたら、良いんでしょうか」
「うーん……まあ、毎日話をして、観察していればそのうち慣れてくれるわよ」
「だと良いんですけど」
「ちょっと、進藤部長にとっては冴子ちゃんは若いし可愛いから、恐縮してるだけのように思うんだけどね」
「は、はぁ…」
「見慣れてくれば、大丈夫よ」
そんなものだろうか。
いや、なんとなくは感じている。進藤部長は多分私の胸が大きいのに目が行ってしまって、それで長時間話すのを嫌がっているのだろう。
私にしてみればそういう視線の動きには慣れっこだけど、進藤部長は案外とそういう事を気にするタイプのようだった。
いっそその事を話題としていじってもらうぐらいでも構わないのだが。
そう、先ほどの梢さんのように。
おそらく真帆さんは、人の心を開かせる事において何かしらの努力を要さない人だから、方法論を聞いても無駄な気がする。
これに関してはどうにか自分で方法を編み出すよりないのかもしれない。
「松浦部長なら、いい方法教えてくれるかも」
「…え?」
確か美咲さんは進藤部長と長く一緒に仕事をしてきてとてもお世話になった、という事は聞いている。だがどの程度親しいのかまではあまり探った事はない。
真帆さんは思い出したように笑って続けた。
「それがおかしいのよ、松浦さんったら事あるごとに『二宮さん大丈夫ですか』みたいな事聞いてくるんだもの」
「……」
「最近そうでもなくなったけど、最初の1カ月ぐらいはけっこう頻繁で、年齢的に若い秘書課員は確かに珍しいからわからなくもないんだけど」
…私が美咲さんと一緒に暮らしている事を、真帆さんに話すべきか話さずにおくべきか悩んでいる間に、けっこうな月日が経ってしまっている。
今のも含めて、もしかして勘付いているのではないかと思う事は多いし、話した所で怒られたりはしないはずだが、なかなかきっかけがつかめずにいた。
こんな事なら異動した直後にカミングアウトしておけば良かったと思う。
それに美咲さんもあまり目立つ事をしてしまうとこんな風に変な印象が残ってしまうのだから、気を付けた方がいいと思うのに、案外そういう事は気にしていないのだろうか。
私は一旦気を取り直して考える。
「松浦部長と進藤部長ですか」
「そう、一時期あの方は進藤部長の社内妻とまで呼ばれていたのよ」
「本当ですか?」
「勿論変な意味じゃなくてだけど、それぐらいあの二人は苦楽を共にして同じ釜の飯を食った仲という事ね」
…同じ釜の飯を食う、とは。
同じ釜の飯を食って同じ部屋で眠ったりはしなかったのだろうか、と余計な想像をしてしまった。
進藤部長には家庭もあるし、オス感を前面に押し出したようなタイプの男性ではない。どちらかと言うといいお父さん的な雰囲気の人だ。
だから美咲さんと進藤部長の関係性に、戦友以上のものはないと思うけれど、時として戦友は夫婦以上の繋がりを持つ事も、あるのではないだろうかと思う。
「…機会があれば聞いてみます」
「そうしてみて」
始業の時間となり私は進藤部長の率いる開発部のフロアへと急いだ。
*-*-*-*-*-
本来、部長職には一人の秘書がベタ付きする事はないので、進藤部長からすればやりにくいのはよくわかる。
でも、私の修行のためと思ってある程度理解してくれている様子もそれなりに感じられた。
会議用の配布資料の印刷を一通り終えてから、次はコンビニへ向かう。
進藤部長に食事の好みを聞いてみるけれど、いつも「適当でいいよ」と言われてしまうのだ。
今日は休憩そのものが取れないかもしれない、と思うとお弁当のようなものよりもサンドイッチなどすぐに食べられるようなものの方が良い気がして、行き先をコンビニではなくコーヒーショップへと変更させた。
そこで偶然、私は美咲さんと出くわしてしまう。
「あれ、どうしたの?冴子」
不用意に名前で呼ばれたので私は思わず周囲に同じ会社の人がいないかチェックしてしまった。
「…進藤部長の昼食を買いに来ました」
「そうなんだ」
短い待ち行列の最後尾が美咲さんだったので、私はその後ろに並ぶ。
「私も今日あんまり昼休みが取れそうにないから、先手を打って買いに来たのよね」
「そういう事なら真帆さんにお願いすれば良いんじゃないですか」
「あー、そういう事じゃないのよ」
「…?」
少し列が進み、美咲さんは手早くオーダーを済ませた。
「一日中会社の外に出られないのは、私の方がもたないから、彼女には頼まないでこうして自分で買うわけよ」
「そうだったんですか」
「んで?進藤さんのランチはどれを選ぶのかな」
「…どれにしたら良いですか」
「聞いてないの?」
私の注文の番が回ってくるが、私はどのサンドイッチにすべきかまだ迷っていた。
「適当でいいよって言われちゃうんです」
「あー、進藤さんぽいな、そういうのがかえって迷惑なのにね」
「…仕方ないです」
美咲さんはバーカウンターの方には行かず私に付き添ってくれていた。じきに商品の受け渡しがあるだろうに、むしろ私の方が焦る。
「あの人、量が多くて肉が入ってれば基本喜ぶから、そういうチョイスにしとけば十分よ、実際本人としてもけっこう何でもいいと思って言ってるふしもあるしね」
「はい、ありがとうございます」
私は大急ぎでローストチキンや生ハムが具材に使われているサンドイッチと、ラージサイズのアイスコーヒーを注文する。
「お忙しいんですよね?大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫」
私が会計を済ませている間にいつの間にか美咲さんはテイクアウト用の紙袋を受け取り手に提げていた。
「…まだ、まともに口利いてもらえてないの?進藤さんと」
「そこまで酷い感じではないですけど…」
「どー考えても冴子からしたらストライクゾーンどころかワイルドピッチレベルのおっさんなんだから、ドライに付き合えばいいのに、なぜかそういう事できない人なのよ、あの人」
「……やっぱり、よくご存知ですね」
そこまで話した所で私の注文した商品が手渡される。
美咲さんは「ぶらぶら歩いて帰る」と言うので私は「失礼します」とだけ言い残して先に社へ戻った。
開発部のデスクに進藤部長の姿はない。まだ会議中なのだろう。
差し出がましいかもしれないとは思いつつ、私は進藤部長が愛用している保温タンブラーの中がほぼ空であるのを確かめ、それを洗ってから、買ってきたアイスコーヒーを注ぐ。
サンドイッチは仕方ないので机上に置いた。
そこまでしてからあっと思い出す。
美咲さんは、私よりずっと進藤部長の事に詳しいけれど、私がそれをあてにしたがらないのを知っていて、先回りして情報を与えてきたりはしない。
それなのにさっきはさりげなく助け船を出してくれたのだ。
私が、あえて近道したがらないのをわかっていて、そして実際近道を選ばない方が良いのだと考えて美咲さんはずっと口出ししない姿勢を貫いていたのに。
…いっそ、秘書ではなく部下や同僚という立場の人が関わる方が、進藤部長には気楽だし良いのではないか、と思えたりする事も多い。
自分の中で禁じ手としていた事を、今日は困ったのと急いでいた流れでつい使ってしまったのだな、と思った。
一瞬だけ悔しい思いにはなったけど、今朝の真帆さんの言葉もある。良い結果が得られるなら手段は問わずに行動すべきだ。
でも私がそうしないのは、単に近道したくないという真面目な理由だけじゃなくて、進藤部長の人となりを語る美咲さんに、少なからず嫉妬してしまいそうで、避けているというのが大きい。
時計とスケジュールを照合し進藤部長の戻り時間を推測する。今行われているのは毎回よく時間超過するメンバーのものだから、終わりも伸びる可能性が高い。
待っていてもどうなるかわからないと思い私は一旦離席した。
自分の昼食はコンビニのおにぎりだけで済ませて、適当な所で進藤部長を捕まえて何か必要なものがないか尋ねるとしよう。残りの時間は真帆さんの受け持ちから少し業務をシェアしてもらう事になる。
時間が惜しいので私は真帆さんが受け持つ部長たちのスケジュールを確認した。その中には美咲さんも含まれている。
私は、少しでも早く進藤部長に認めてもらわないと、美咲さんを受け持つ事はできないと考えている。
いずれ引き継ぐと言われた時から、真帆さんは時間を見つけて受け持ちのボスに関する細かい情報をメモに残すようにすると言い、私にもはじめからそれをしておくようにと指示されていた。
要は私が進藤部長に関するどこまでを把握できているか答え合わせするためである。
禁じ手ではあるかもしれないが、私はさっき美咲さんに教えてもらった進藤部長の食事の好みをメモに書き留めた。
…真帆さんは、美咲さんの事をどんな風に書いているのだろうと気になってくる。
「…」
冷たいお茶を飲みながら、私は美咲さんについてどの程度メモに書けるのか考えてみたけれど、自分で思うほど、美咲さんの職場での振る舞いや思考については知らない事に気が付いた。
さっきのコーヒーショップにしてもそうだ。一日のうち一度は会社の外に出たい、だから滅多に秘書に昼食の買い物を頼まないという事だって、今日まで知らなかった。きっと真帆さんはそれを当たり前の事として理解しているはずなのに。
「…」
進藤部長の事は美咲さんが超詳しくわかっているし真帆さんだって一通り理解しているのだろう。
そして美咲さんの事も真帆さんは熟知していて、いちいち確かめるまでもなく美咲さんが働きやすいようにはからっているのだ。
取り付く島もない、とはこういう事ではないか。
現状いい感じに回っているのに、何故私は異動してきたのかわからなくなる。
受付の時はどうやって仕事を覚えたんだっけ。
…友紀と二人で一緒にやってきた。困った時や悩んだ時、友紀も同じように思っていたし二人で解決してきた気がする。
私は、秘書課に来て孤独を感じている。
自分はこの仕事には向いていないのではないか、とさえ思う事もある。
自分が、人と打ち解けるのに時間がかかるタイプである事を、今ほどコンプレックスに思う事はない。
真帆さんからは日々「慌てずにやっていけばいいのよ」と言われているけど、それで本当に良いのだろうか。
午後は概ね真帆さんと二人で仕事をしたので、変な感慨に浸る事もなく一日を終える事ができた。
夕方一度進藤部長に用事がないか確認しに行った時、「お昼助かったよ~、ありがとう」と声をかけられて、救われる思いがした。
たったそれだけの事しかしていないしできていない、というもどかしさを、その言葉は一瞬で打ち消してくれるように思えた。
タイムカードを切って着替えのためにロッカールームへと向かう。
ちらりとデスクの島に目をやると私の指導担当をしてくれている夏川真帆(まほ)さんは既に準備を整えてスタンバイしていた。
ほんの少しだけ気まずいと思いながらも急いで着替えようとすると、更衣室には先客があった。
「おっはよう、冴子ちゃん♪」
「おはようございます」
運が悪いと言うべきか。同じく秘書課の先輩である小田梢(こずえ)さんに捕まってしまった。彼女は「女の子好き」を公言していて実際に対女子の言動は実に軽い。気に入った女子には遠慮なく迫ってくるし触ってもくる。
年代としては、真帆さんは30代前半、梢さんは20代後半といった所で、梢さんの方が私とは年齢が近い。
真帆さんがしっとりとした和風美人なのに対して梢さんは明るくて活発な印象で、見た目はほんの少しだけど、同期入社で受付業務の仲間だった友紀に似ている気がする。
友紀は元々色素が薄い感じだったけど、梢さんは目鼻立ちがはっきりしていて、肩よりほんの少し長いくらいの髪を赤っぽいブラウン色に染めていた。
私より少し小柄で、身のこなしが非常に素早い人だ。学生時代から陸上の選手だった、との談である。
「暑いよねぇ、毎日」
「そうですね」
私は適当に返事をしながら着替えにかかると、梢さんが「これ、あるよ?使う?」と汗拭きシートのパッケージを見せてきた。
…できれば使わせてもらいたい。
「使いたいよね、そう顔に書いてある」
くすくすと笑いながら梢さんはパッケージから一枚、大判のシートを取り出した。
「拭いてあげる~」と私に迫ってくる。
「だ、大丈夫です」
「まあまあ、減るもんじゃなし、拭かせてよ」
「…」
きつめに拒否するのも変かなと思って黙っていると、それを了承と受け取られたようで梢さんは「じゃ上全部脱いで」と言いつつ私のブラジャーのホックを外しにかかった。
「あ、ちょ、待ってください」
「待ちません」
梢さんは実に楽しそうだ。防ぐ間もなくさっと私の下着は剥ぎ取られてしまい、私は梢さんの目の前に裸の上半身を晒す恰好になる。
「わー、やっぱいつ見ても大きいよね、冴子ちゃん」
「…」
一応腕で隠しているけれど、梢さんの視線は私の胸に注がれている。
「そこにこそ、汗が溜まるんじゃないの?」
汗拭きシートをつまんだ手で指差されたのは私の胸の谷間だ。鋭いが直接的すぎて困ってしまう。
あー、と思うがもう遅い。興味津々といった風情の梢さんに言われるがまま、私は首から脇、背中や胸の谷間まで丁寧に汗拭きシートで拭かれる事となった。
シートにはひんやりとしたメントールの美容駅がたっぷり染み込んでおり、拭き上げた所はものすごくスースーする。
「…あ」
「何ですか」
ぎくりとするが極力それを表現しないように問い返す。
早く着替えを済ませたいのに、こういう時に限って更衣室に新たに入る人物もなく、梢さんが変な悪戯を思いつかないようにという事と、毎日のように美咲さんと交わっている痕跡が梢さんに見つからないで欲しいという事を考えた。
「これ…」
梢さんがシートと私の胸とを交互に見ながら笑う。
更に嫌な予感がするがそれがどういうものなのかは見当もつかない。
「これで乳首を拭き取ったら気持ちいいんじゃないかと」
一瞬それを想像してしまい私の顔が赤くなる。
「やらないよ?やらないけど思いついちゃった」
アハハ、と梢さんは笑っているけど、私の様子を見て「冴子ちゃんもエロいなあ」などとけらけら笑っている。
私は気を取り直して着替えを続けた。身体を拭いてはもらったが、あえて御礼は言わずにおく。
異動してからこのかた、梢さんにはしょっちゅうこういう悪戯をされているのだ。おそらく対象は私に限らないだろうが、どちらかと言うと梢さんには気に入られている方だと思う。
私は舌打ちしたくなるのをこらえて着替えを続ける。
ボルドーカラーを基調とした秘書課の制服は社内の女子からの人気が高いが、制服目当てで務まるほど秘書課の業務は簡単ではなかった。
セクハラ要素満載の人だけど、梢さんはとにかく仕事は速いし正確で、人格面を覗けばとても優秀な先輩なのだ。だからむしろたちが悪いとも言える。
急に梢さんは静かになってしまい、かえってその沈黙が不気味で、着替えを終える直前私は梢さんの方を見た。
スマホでも見ているのかと思ったけど、梢さんは私の方を見ていた。
「どうか、しましたか」
「…いや、ちょっとエロい気分になっちゃうと冴子ちゃん顔が変わるなあと思って」
「…そうですか」
私は思わず下を向いてしまう。
「顔に出る」とは以前美咲さんにも指摘された事がある内容だったから、それが美咲さん以外の人にもわかってしまうほど、私の表情の変化は露骨なのかと思い気持ちが落ち込んだ。
「…冴子ちゃん、変な男にめちゃくちゃ遊ばれたりしたでしょ、あ、答えなくていいけど」
「じゃ答えません」
いつの間にか梢さんもすっかり着替えを済ませている。どうやればそんなに手早く着替えられるのか、謎だ。
私は梢さんのセクハラにそこまで嫌悪感を持っているわけじゃないし、この半年近くの期間の中である程度仲のいい関係とは呼べるぐらいになった。だからこそ、繰り出されるセクハラに対して私も言いたい事を言い返しているのだけど。
秘書課メンバーからはそれが仲睦まじいように見えているらしいけど、そういう解釈をされるのは幾分不本意だ。
ただ、梢さんは梢さんなりに、異動してきたばかりの私をどうにか和ませたり、課に溶け込めるようにはからってくれていると感じる場面も多くあったから、派手な言動の裏には気使いがある人なのだという事もわかる。
「…ま、いいか」
梢さんは今の話がなかった事であるかのようにテンションを切り替えて笑顔になる。「先に行ってるね」とさっさと更衣室を出て行ってしまった。
私も慌てて支度を済ませ真帆さんの待つデスクへと向かう。
*-*-*-*-*-
秘書課で実務に携わるメンバーは今の所全員が女性である。年齢や経験、スキルの差はそれぞれにあるけれど、ここでは皆ファーストネームでお互いを呼ぶというルールがあった。それは勿論、課員同士の会話においてのみの事だけど。
例えば結婚して姓が変わる事もあるし、そんな場合も考えるとこれは合理的なルールでもある。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
改めて真帆さんに挨拶すると、柔らかい笑顔が返ってきた。
この人は無条件に人を癒すパワーがあるのか、その笑顔を見ただけでほっと心が落ち着く気がする。
これから仕事なので落ち着き過ぎてはいけないのだが。
異動して以来、私は真帆さんの補佐役という立場で彼女の仕事を分けてもらい、秘書としての仕事の流れややり方を覚えている最中だ。
美咲さんに近づけるという一点でこの部署への異動を喜んでいた私だけど、秘書の利用率と言うか、どこまでのサポートを必要としているか、その度合は部長役員それぞれに個人差があった。
秘書を使う、というやり方をデフォルトとしてとらえているかどうかは年代や経歴によってもかなり違う。特に若い部長職の人あたりだと実務の割合も多く、そこまで秘書を頼る人はいなかった。
異動初日に、秘書課の存在意義というものについてこう語られた。
基本的には課員は減らす方向にあり、徐々にセルフマネジメントを行える人たちの役職が上がってきて、秘書課が課の形で永遠に残る事はないかもしれない、という事である。
勿論社長をはじめ役員まで上がればそのニーズは高くなるし、やるべき仕事も増えてくるけど、それらにしても必ずしも秘書がしなければならないという考えは、徐々に廃れていくのではないか、と。
だからこそ、専業の秘書である以上は「いてもいなくても同じ」と言われるような仕事ではだめなのだ、と釘を刺された。
人に平等に与えられた一日24時間を、特に要職にある人物には有効活用してもらう必要があるし彼ら自身もそれを望んでいる。
秘書業務は時間を生み出すためにある、という心得は重要だ、との事だった。
「いずれは全員引き継ぎたいけど」と真帆さんからは言われているが、手始めにあまり秘書を酷使しないタイプの進藤部長だけ担当するようになったのがここ2、3ヶ月の事である。
正直、進藤部長だけならわざわざ秘書のリソースを一人分割くほどの業務量ではない。けれども進藤部長自身は秘書の使い方がどちらかと言うと上手くない方で、何でも自分でやろうとする割に抜け漏れがあるような気がしている。
新人の私が付いているから尚更、遠慮されているのかもしれない。
そのように思わせている段階で、私の落ち度であると思う。
今日の進藤部長のスケジュールは、朝から晩まで会議がぎっしりだ。
これは昼食を摂る暇さえ取れないかもしれない。
最初のうちは会議体の名前も、関連部署の名前もプロジェクト名も、何の事だかさっぱりわからなかったけど、最近になりようやく言葉と意味が繋がるようになった。
わからない事があったとして、進藤部長本人に意味を尋ねるわけにはいかないので、それについては真帆さんをはじめ各部門の役員を受け持つ先輩秘書に言葉の意味を教えてもらったりする日々が続いた。
…しかしこのスケジュールではほぼ丸一日進藤部長本人と話をする暇はないかもしれない。
朝のうちに、昼食の事と会議で配る資料があるならそれらを準備する旨申し出るぐらいか。
その他、空いた所は真帆さんの仕事を分けてもらおう。
今日やるべき事をあらかた頭の中でまとめた所で、真帆さんが言う。
「進藤部長、まだ冴子ちゃんと話すの緊張してるよね」
いつの間にそんな事をチェックしているのかと思うが、それは多分事実なので「はい」と応じる。
「親しくなると、『可愛い女の子は大好き』とかそんな事まで言う人なのにねえ」
「…そこまで、気を許してはもらえてないです」
「そうなのよね」
「どうしたら、良いんでしょうか」
「うーん……まあ、毎日話をして、観察していればそのうち慣れてくれるわよ」
「だと良いんですけど」
「ちょっと、進藤部長にとっては冴子ちゃんは若いし可愛いから、恐縮してるだけのように思うんだけどね」
「は、はぁ…」
「見慣れてくれば、大丈夫よ」
そんなものだろうか。
いや、なんとなくは感じている。進藤部長は多分私の胸が大きいのに目が行ってしまって、それで長時間話すのを嫌がっているのだろう。
私にしてみればそういう視線の動きには慣れっこだけど、進藤部長は案外とそういう事を気にするタイプのようだった。
いっそその事を話題としていじってもらうぐらいでも構わないのだが。
そう、先ほどの梢さんのように。
おそらく真帆さんは、人の心を開かせる事において何かしらの努力を要さない人だから、方法論を聞いても無駄な気がする。
これに関してはどうにか自分で方法を編み出すよりないのかもしれない。
「松浦部長なら、いい方法教えてくれるかも」
「…え?」
確か美咲さんは進藤部長と長く一緒に仕事をしてきてとてもお世話になった、という事は聞いている。だがどの程度親しいのかまではあまり探った事はない。
真帆さんは思い出したように笑って続けた。
「それがおかしいのよ、松浦さんったら事あるごとに『二宮さん大丈夫ですか』みたいな事聞いてくるんだもの」
「……」
「最近そうでもなくなったけど、最初の1カ月ぐらいはけっこう頻繁で、年齢的に若い秘書課員は確かに珍しいからわからなくもないんだけど」
…私が美咲さんと一緒に暮らしている事を、真帆さんに話すべきか話さずにおくべきか悩んでいる間に、けっこうな月日が経ってしまっている。
今のも含めて、もしかして勘付いているのではないかと思う事は多いし、話した所で怒られたりはしないはずだが、なかなかきっかけがつかめずにいた。
こんな事なら異動した直後にカミングアウトしておけば良かったと思う。
それに美咲さんもあまり目立つ事をしてしまうとこんな風に変な印象が残ってしまうのだから、気を付けた方がいいと思うのに、案外そういう事は気にしていないのだろうか。
私は一旦気を取り直して考える。
「松浦部長と進藤部長ですか」
「そう、一時期あの方は進藤部長の社内妻とまで呼ばれていたのよ」
「本当ですか?」
「勿論変な意味じゃなくてだけど、それぐらいあの二人は苦楽を共にして同じ釜の飯を食った仲という事ね」
…同じ釜の飯を食う、とは。
同じ釜の飯を食って同じ部屋で眠ったりはしなかったのだろうか、と余計な想像をしてしまった。
進藤部長には家庭もあるし、オス感を前面に押し出したようなタイプの男性ではない。どちらかと言うといいお父さん的な雰囲気の人だ。
だから美咲さんと進藤部長の関係性に、戦友以上のものはないと思うけれど、時として戦友は夫婦以上の繋がりを持つ事も、あるのではないだろうかと思う。
「…機会があれば聞いてみます」
「そうしてみて」
始業の時間となり私は進藤部長の率いる開発部のフロアへと急いだ。
*-*-*-*-*-
本来、部長職には一人の秘書がベタ付きする事はないので、進藤部長からすればやりにくいのはよくわかる。
でも、私の修行のためと思ってある程度理解してくれている様子もそれなりに感じられた。
会議用の配布資料の印刷を一通り終えてから、次はコンビニへ向かう。
進藤部長に食事の好みを聞いてみるけれど、いつも「適当でいいよ」と言われてしまうのだ。
今日は休憩そのものが取れないかもしれない、と思うとお弁当のようなものよりもサンドイッチなどすぐに食べられるようなものの方が良い気がして、行き先をコンビニではなくコーヒーショップへと変更させた。
そこで偶然、私は美咲さんと出くわしてしまう。
「あれ、どうしたの?冴子」
不用意に名前で呼ばれたので私は思わず周囲に同じ会社の人がいないかチェックしてしまった。
「…進藤部長の昼食を買いに来ました」
「そうなんだ」
短い待ち行列の最後尾が美咲さんだったので、私はその後ろに並ぶ。
「私も今日あんまり昼休みが取れそうにないから、先手を打って買いに来たのよね」
「そういう事なら真帆さんにお願いすれば良いんじゃないですか」
「あー、そういう事じゃないのよ」
「…?」
少し列が進み、美咲さんは手早くオーダーを済ませた。
「一日中会社の外に出られないのは、私の方がもたないから、彼女には頼まないでこうして自分で買うわけよ」
「そうだったんですか」
「んで?進藤さんのランチはどれを選ぶのかな」
「…どれにしたら良いですか」
「聞いてないの?」
私の注文の番が回ってくるが、私はどのサンドイッチにすべきかまだ迷っていた。
「適当でいいよって言われちゃうんです」
「あー、進藤さんぽいな、そういうのがかえって迷惑なのにね」
「…仕方ないです」
美咲さんはバーカウンターの方には行かず私に付き添ってくれていた。じきに商品の受け渡しがあるだろうに、むしろ私の方が焦る。
「あの人、量が多くて肉が入ってれば基本喜ぶから、そういうチョイスにしとけば十分よ、実際本人としてもけっこう何でもいいと思って言ってるふしもあるしね」
「はい、ありがとうございます」
私は大急ぎでローストチキンや生ハムが具材に使われているサンドイッチと、ラージサイズのアイスコーヒーを注文する。
「お忙しいんですよね?大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫」
私が会計を済ませている間にいつの間にか美咲さんはテイクアウト用の紙袋を受け取り手に提げていた。
「…まだ、まともに口利いてもらえてないの?進藤さんと」
「そこまで酷い感じではないですけど…」
「どー考えても冴子からしたらストライクゾーンどころかワイルドピッチレベルのおっさんなんだから、ドライに付き合えばいいのに、なぜかそういう事できない人なのよ、あの人」
「……やっぱり、よくご存知ですね」
そこまで話した所で私の注文した商品が手渡される。
美咲さんは「ぶらぶら歩いて帰る」と言うので私は「失礼します」とだけ言い残して先に社へ戻った。
開発部のデスクに進藤部長の姿はない。まだ会議中なのだろう。
差し出がましいかもしれないとは思いつつ、私は進藤部長が愛用している保温タンブラーの中がほぼ空であるのを確かめ、それを洗ってから、買ってきたアイスコーヒーを注ぐ。
サンドイッチは仕方ないので机上に置いた。
そこまでしてからあっと思い出す。
美咲さんは、私よりずっと進藤部長の事に詳しいけれど、私がそれをあてにしたがらないのを知っていて、先回りして情報を与えてきたりはしない。
それなのにさっきはさりげなく助け船を出してくれたのだ。
私が、あえて近道したがらないのをわかっていて、そして実際近道を選ばない方が良いのだと考えて美咲さんはずっと口出ししない姿勢を貫いていたのに。
…いっそ、秘書ではなく部下や同僚という立場の人が関わる方が、進藤部長には気楽だし良いのではないか、と思えたりする事も多い。
自分の中で禁じ手としていた事を、今日は困ったのと急いでいた流れでつい使ってしまったのだな、と思った。
一瞬だけ悔しい思いにはなったけど、今朝の真帆さんの言葉もある。良い結果が得られるなら手段は問わずに行動すべきだ。
でも私がそうしないのは、単に近道したくないという真面目な理由だけじゃなくて、進藤部長の人となりを語る美咲さんに、少なからず嫉妬してしまいそうで、避けているというのが大きい。
時計とスケジュールを照合し進藤部長の戻り時間を推測する。今行われているのは毎回よく時間超過するメンバーのものだから、終わりも伸びる可能性が高い。
待っていてもどうなるかわからないと思い私は一旦離席した。
自分の昼食はコンビニのおにぎりだけで済ませて、適当な所で進藤部長を捕まえて何か必要なものがないか尋ねるとしよう。残りの時間は真帆さんの受け持ちから少し業務をシェアしてもらう事になる。
時間が惜しいので私は真帆さんが受け持つ部長たちのスケジュールを確認した。その中には美咲さんも含まれている。
私は、少しでも早く進藤部長に認めてもらわないと、美咲さんを受け持つ事はできないと考えている。
いずれ引き継ぐと言われた時から、真帆さんは時間を見つけて受け持ちのボスに関する細かい情報をメモに残すようにすると言い、私にもはじめからそれをしておくようにと指示されていた。
要は私が進藤部長に関するどこまでを把握できているか答え合わせするためである。
禁じ手ではあるかもしれないが、私はさっき美咲さんに教えてもらった進藤部長の食事の好みをメモに書き留めた。
…真帆さんは、美咲さんの事をどんな風に書いているのだろうと気になってくる。
「…」
冷たいお茶を飲みながら、私は美咲さんについてどの程度メモに書けるのか考えてみたけれど、自分で思うほど、美咲さんの職場での振る舞いや思考については知らない事に気が付いた。
さっきのコーヒーショップにしてもそうだ。一日のうち一度は会社の外に出たい、だから滅多に秘書に昼食の買い物を頼まないという事だって、今日まで知らなかった。きっと真帆さんはそれを当たり前の事として理解しているはずなのに。
「…」
進藤部長の事は美咲さんが超詳しくわかっているし真帆さんだって一通り理解しているのだろう。
そして美咲さんの事も真帆さんは熟知していて、いちいち確かめるまでもなく美咲さんが働きやすいようにはからっているのだ。
取り付く島もない、とはこういう事ではないか。
現状いい感じに回っているのに、何故私は異動してきたのかわからなくなる。
受付の時はどうやって仕事を覚えたんだっけ。
…友紀と二人で一緒にやってきた。困った時や悩んだ時、友紀も同じように思っていたし二人で解決してきた気がする。
私は、秘書課に来て孤独を感じている。
自分はこの仕事には向いていないのではないか、とさえ思う事もある。
自分が、人と打ち解けるのに時間がかかるタイプである事を、今ほどコンプレックスに思う事はない。
真帆さんからは日々「慌てずにやっていけばいいのよ」と言われているけど、それで本当に良いのだろうか。
午後は概ね真帆さんと二人で仕事をしたので、変な感慨に浸る事もなく一日を終える事ができた。
夕方一度進藤部長に用事がないか確認しに行った時、「お昼助かったよ~、ありがとう」と声をかけられて、救われる思いがした。
たったそれだけの事しかしていないしできていない、というもどかしさを、その言葉は一瞬で打ち消してくれるように思えた。
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