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猫の神様─明治時代のある婦人より

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初めまして、どこかの貴方。 
貴方の願いは、しかと受け取らせて頂きました。
私はしがない小娘ですので大した事も書できませんが、それでも心ばかりの小話を一つ加えましょう。
それは、私が幼い頃に体験したある不思議な出来事についてです。






私は生まれつき足が悪い子供でした。
全く立てないという程ではないですが、ほんの少し歩くだけですぐにしゃがみこんでしまい、走ることなどは尚更です。その為、日がな一日を家の中で過ごしていました。
両親は優しく、退屈せぬ様にとよく遊んでくれたのですが、私もやはり幼子でした為。外で駆け回る同じくらいの子供達を羨ましく思っておりました。
しかし、無い物ねだりをしていてもしょうがない。それでもせめて気を紛らわそうと、私は絵や文字を書いて遊んでいました。
それを続けている内、次第に私は小説を書くことに夢中になってゆきました。
庭を飛び交い、恋の相手を探す蝶々。外国の美しい姫の恋。宝を求め、大地を駆ける青年。様々な物語を考えては母に語り、文字としていました。
勿論小さな子供が書くものですので、小説というよりはただの空想を書き出しただけの拙いものでした。それでも、両親は私が楽しそうなのを嬉しく思ったのでしょう。足が弱く、外に出られない子供を哀れに思ったのもあるかもしれません。
ある日、父は上機嫌で帰ってきました。どうしたのかと訊ねると、「おまえに良いものを買ってきた」と笑い、紙に包まれたそれを差し出してきたのです。
これはなんでしょうと問えば、まあ開けてみろと言うので私は丁寧に包みを剥がしていきました。
そこには、すべすべとした白い原稿用紙がぺたりと座っていたのです。
「あら、可愛らしいこと」
覗き込んだ母が顔を綻ばせ、ますの目を指さしました。
「ほんと。猫の足痕だわ」
それに気づいた時、思わず大きな声を上げてしまいました。普通ならば四角ばった筈のそれは、ひとつひとつが愛らしい足跡だったのです。
「向こうの、神社の近くに店が出ていてな。何となく覗いたらこれがあったんだ。聞けば、これには神様の御加護が篭っているのだとか。折角だから、お前にと思ったんだよ」
「嬉しい。ありがとう、お父様」
父に礼を述べながらも、私の心はこの可愛らしい紙にどんな話をしたためようかということでいっぱいでした。
とは思ったものの。
あまりにも可愛らしいそれは勿体なくて使えず、綺麗な箱に入れては夜寝る前などに眺めていたのです。
いつかここに、渾身の物語を書こう。そう思って、毎日眠りに着きました。





それから、何週間か経った頃の話。
ふと外が騒がしいと思い、庭の垣根からそっと除いた時のこと。
その時、私は今までに感じたことの無いほどに強い衝撃を受けたのです。
そこに居たのは二人の女性でした。
それだけなら、珍しくもなんともありません。彼女達にいっとう目を奪われたのは、その風変わりな出で立ちです。
二の腕が露わになった袖、膝下が隠れる位しかない様な、短くふわりと膨らんだ、所謂スカートと呼ばれる鮮やかな赤の服。
スカートの裾を靡かせる彼女達は、まだ珍しい洋装を纏えることに気が大きくなっているのか、それはそれは誇らしそうでした。
かつかつ、かかとの高い靴を鳴らして颯爽と道を往く彼女達。
私も、あんな靴を履いてみたい。
強い衝動は、しかしすぐに悲哀へと変わっていきました。
なぜなら、私の足は弱い。普通に歩くのすら大変なのに、あんな靴を履いて歩ける訳が無い。
私は、この先一生彼女達の様にはなれないのだ。
気づけば私は縁側に座り込み、膝を抱いてわんわんと泣いていました。




そうして、その日の夜。
私はいつものように箱を取りだし、そっと蓋を開けました。
白い紙は、月光を受けてきらきらと輝いていました。
そうして私は半ば狂ったように​──いえ、実際狂っていたのでしょう​──ひたすらに筆を滑らせました。



ある所に、足の不自由な少女がいた。
彼女は優しい子供であったが、しかし外に出ることが出来ず、遊び相手は専ら庭に訪れる白猫であった。
ある時、少女を哀れんだ神様が、彼女を自分の元へ連れてくるようにと白猫に命令し、白猫はそれに従った。
そうして、大きくなった白猫の背に乗った少女は、夜空を駆けて神様の元へと会いに行く。
そこで神様は、彼女の足を治してやった。
すっかり元気になった少女は、白猫と共にいつまでも幸せに暮らした。


書き終えた途端、あれ程冴えていた目が急激に重くなり、まるで吸い込まれるように眠りに落ちました。





その日、私は不思議な夢を見たのです。
草原の中で目覚めた私は、まず辺りを見渡しました。しかし、人っ子一人見当たらない。不思議に思って身を起こそうとすると、何やら胸の上に重いものがあり。
見れば、それは美しい白猫でした。
にゃあ、とひと鳴きすると共に、赤い組紐についた鈴が涼やかな音を奏でます。透き通るような黄色の目に見入っていると、彼女はぺろりと頬を舐め、そして着物の襟を銜え。
ぶん、と勢いよく投げられ、私の体は宙に浮いていました。
驚きと共に地面に叩きつけられるだろう衝撃に身を固くした私は、しかし次に触れたのは柔らかな毛皮。
みるみるうちに大きくなった彼女が、私を背に乗せてぐるぐると喉を鳴らしました。全身に伝う雷のような音に、思わずぎゅうとしがみつくと彼女はふわりと飛び上がったのです。


初めて見る広い夜空は、今となっても忘れられません。
濃紺に浮かぶまるい月、空一杯に零れた星々は、夢とは思えぬ程に鮮やかで美しく。はあ、と息を吐けば白む程に高くまで昇り、猫はぐんぐんと空をかけていきます。
そして。
音もなく着地した猫は、しゅるしゅると小さな、元の大きさへと戻っていき。
代わりのように、白い紙がその周りを舞っていました。
あ、と思いそれを掴めば、猫の足跡のますの目には自分の丸い文字。
「にゃあん」
猫がまたひとつ鳴いて、私の足にその身を擦り寄せ。


目が覚めた私を覗き込んでいたのは、白い猫の顔でした。
ふんふんと匂いを嗅いで、興味を失ったとでも言うように背を向ける。そのまま障子の奥へと消えたのを見送って、はっとして追いかけようと立ち上がった時。
「あら、起きたの。」
顔を出した母は、猫を抱いていました。
白い毛並みに琥珀のような瞳。
夢で見たのと同じそれに、私はあっと声を上げました。
「可愛らしいでしょう。ご近所さんがね、何匹が生まれたから一匹どうですか、きっと良い遊び相手になりますよって言うから、つい。」
ころころと笑う母に喉を擽られ、ごろごろと雷のような音を鳴らす子猫。
私は、その場から動けませんでした。
足が痛むからではなく、その逆で。
「…あら?どうしたの、どこか悪い?」
「いいえ。お母様、そうではなくて…」







あれから数十年、私の足は未だに健康そのものです。歩こうが走ろうがヒールを履こうが少しも痛むことも無く、同い年よりも丈夫な程です。
そして。
「にゃあ」
あの日やってきた白猫は、今も私の膝の上で寝ています。




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