さよなら、私を愛さなかった婚約者様

有賀冬馬

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鏡の中に立っているのは、色の抜けたような灰色の髪をひっつめに結んだ、地味な娘。それが私、エルサ。
代々続く侯爵家の令嬢という立場だけれど、社交界では「灰かぶりの令嬢」なんて皮肉たっぷりのあだ名で呼ばれている。着ているドレスも数年前の型遅れで、装飾なんてほとんどない。

「おい、いつまで鏡を見てるんだ。その冴えない顔をいくら眺めたところで、美しくなるわけじゃないだろう」

背後から突き刺さるような冷たい声がした。
私の幼馴染で、婚約者でもあるラインハルト公爵令息だ。彼は私のことを見ようともせず、手元にある厚い束になった書類を、私の足元にバラバラと投げ捨てた。

「エルサ、お前のような華もなければ愛想もない女が、将来の公爵夫人にふさわしいと思っているのか? お前と一緒にいるだけで、僕の格が下がるんだよ。いいか、夜までにはその領地報告書の修正と、未決済の案件をすべて片付けておけ。一つでもミスがあったら承知しないからな」

ラインハルトはそう吐き捨てると、いら立ちを隠そうともせずに部屋の出口へ向かった。
私は膝をついて、散らばった書類を一枚ずつ丁寧に拾い集める。
その書類には、ラインハルトが「適当に目を通しただけ」で放置していた、領地経営に関わる重要な数字がびっしりと並んでいた。

「……ラインハルト様、この東部の治水事業の予算、計算が合いません。このままでは来月の工事が止まってしまいます。一度、目を通していただけませんか?」

私が控えめに声をかけると、彼はドアノブに手をかけたまま、顔だけをこちらに向けてひどく不機嫌そうに歪めた。

「うるさいな! お前はただ、僕の指示通りに動いていればいいんだ。そんな細かい数字、僕がわざわざ見る必要なんてない。お前は目立たないのが取り柄なんだから、影で僕を支える道具として、黙って働いていればいいんだよ。わかったか!」

彼が怒鳴り声を上げた直後、部屋の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、ふんわりとしたピンク色のドレスに身を包んだ、男爵令嬢のミラ様だった。彼女はラインハルトの腕に迷わずしがみつき、上目遣いで甘えるような声を出す。

「ラインハルト様、準備はできましたか? 今日の観劇、とっても楽しみにしていたんです。あら……エルサ様もいらしたのね。ごめんなさい、あまりに影が薄くて、石像か何かだと思っちゃったわ」

ミラ様はクスクスと笑いながら、私を蔑むような視線を向けてくる。
ラインハルトは、私に向けていた冷酷な表情とは打って変わって、だらしなく目尻を下げて彼女の頭を撫でた。

「ああ、ミラ、待たせたね。こんな地味な女の相手をしていたせいで、せっかくのデートが遅れるところだった。おい、エルサ。僕たちが戻るまでに、さっきの仕事は完璧に終わらせておけよ。お前にはそれくらいしか価値がないんだからな」

二人は私の前で親しげに肩を並べ、部屋を出て行った。
バタンと乱暴に閉められたドアの音が、静かな部屋に空虚に響く。
私は深くため息をつき、拾い上げた書類の束を机の上に置いた。
ラインハルトは知らない。
彼が「天才的な経営センスを持っている」と周囲に自慢している領地の繁栄は、すべて私が夜通し数字を突き合わせ、現場の役人と手紙でやり取りをして作り上げたものだということを。
彼が遊び歩いている間に、私がどれだけ泥臭い実務をこなして、公爵家の崩壊を食い止めているのかを、彼は考えたこともないのだろう。

「……道具、ですか」

私はペンを手に取り、彼がめちゃくちゃにした収支計画書にさらさらと修正を入れていく。
数字を見るのは嫌いじゃない。むしろ、複雑なパズルを解くようなこの作業は、私の唯一の特権でもあった。
けれど、心の中には少しずつ、冷たい澱のようなものが溜まっていく。
いつか彼が、私の存在を完全に忘れて、この「道具」を手放す日が来るのかもしれない。
そうなった時、この家はどうなるのだろう。
そんなことを考えながら、私は深夜の静寂の中で、また一つ、彼が犯した計算ミスを静かに書き換えた。

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