今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです

阿里

文字の大きさ
4 / 4

4

しおりを挟む
 元婚約者にまつわる噂は、もはや限られた一部の人間が小声で囁き合うような段階を、とうの昔に通り過ぎていた。
 それは噂話というより、街全体を包み込む空気そのものとなり、人々の日常の中に自然に溶け込んでいたと言っていい。

 誰かが特別に話題に持ち出さなくても、通りを歩けば自然と耳に入り、酒場で杯を傾けていれば、隣の卓から当たり前のように聞こえてくる。
 回廊の隅や市場の片隅で、わざわざ声を潜める必要すらなくなった頃には、彼の転落は誰もが知る「周知の事実」になっていた。

 きっかけは、政治的な判断を誤ったことだったらしい。
 一つの選択、一つの決断が、取り返しのつかない結果を招いたのだと、人々は口を揃えて言っていた。

 さらに追い打ちをかけるように、彼自身が最も信用し、疑うことすらしなかった人物に裏切られたという話も広まっていた。
 積み上げてきた信頼や人脈、権威や立場は、まるで乾いた砂で作られた山が崩れるように、音もなく、しかし一気に瓦解していったらしい。

 ほんの少し前までなら、彼が困窮すれば、誰かが必ず手を差し伸べていたはずだった。
 利害や打算が絡んでいたとしても、少なくとも表向きには、彼の周囲には人が集まっていた。

 だが、今は違う。
 助けを求める声を上げても、その声は虚しく宙を彷徨うばかりで、応える者は一人もいなかった。
 人は、価値を失った存在に、これほどまでに冷淡になれるのだと、私は噂を聞きながら静かに理解していた。

「どうして……こんなことに……」

 彼がそう呟いたのだと、人づてに聞いたとき、私自身が驚くほど冷静であることに気づいた。
 胸が締めつけられるような痛みもなければ、目頭が熱くなることもない。

 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 それだけで、心の奥に残っていた何かが、静かに整理されていくのを感じた。
 私はただ、過去に小さな区切りをつけただけだった。

 成り上がり貴族の令嬢も、すでに彼の元を去ったらしい。
 価値があるときだけ寄り添い、価値を失えば、一切の未練もなく離れていく。

 その話を耳にしたとき、私は皮肉なほど鮮明に理解してしまった。
 それは、かつて彼が私に向けていた態度と、驚くほど重なっていたからだ。

 必要なときだけそばに置き、役目を果たしている間だけ価値を認める。
 そして不要になれば、理由をつけて切り捨てる。
 立場が逆になっただけで、起きていることは何ひとつ変わっていなかった。

 そんなある日のことだった。
 私は、背後から不意に呼び止められた。

「……少し、時間をもらえないか」

 聞き慣れた声に、私は自然と足を止め、ゆっくり振り返った。
 そこに立っていたのは、間違いなく、かつての婚約者だった。

 以前のような、自信に満ち溢れた姿はどこにもない。
 目の下には濃い影が落ち、顔色も冴えない。
 肩はわずかに落ち、身に着けている服装も、どこか乱れ、気を遣う余裕を失っているように見えた。

 人目を避けるように場所を移ると、彼はしばらく言葉を探すように視線を彷徨わせ、やがて躊躇いながら深く頭を下げた。

「頼む……。君に、謝りたい」

 私は何も言わず、その言葉の続きを、ただ静かに待った。

「あのとき、僕は間違っていた。君がどれだけ支えてくれていたか……失ってから、やっとわかったんだ」

 声は微かに震え、必死に感情を抑え込もうとしているのが伝わってくる。

「君がいなければ、何も回らなかった。仕事も、人間関係も……全部、君が支えてくれていた。君が必要だったんだ」

 その言葉を聞いても、私の胸は不思議なほど静まり返っていた。
 怒りも、悲しみも、そこにはもう存在していなかった。

「戻りたい。もう一度、やり直したい。今なら、君をちゃんと大切にできる」

 縋るような表情で向けられた言葉に、私は一瞬も迷わず、首を横に振った。

「それは、できません」

 彼は思いもよらない返答だったのだろう。
 目を見開き、言葉を失ったまま私を見つめていた。

「どうして……? 君だって、つらかっただろう?」

「はい。確かに、つらかったです。でも――」

 私は視線を逸らすことなく、まっすぐ彼を見つめ返した。

「私は、選ばれるのを待つ女ではありません」

 その言葉は、驚くほど自然に、私の口から零れ落ちた。

「あなたに選ばれなかったから、価値がなかったわけではない。
 あなたが、私を見ようとしなかっただけです」

 彼は何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。

「今さら遅いんです。これは、因果応報です」

 責める気持ちはなかった。
 ただ、起きたことを、起きたままの形で伝えただけだった。

 彼は最後まで言葉を見つけられないまま、ゆっくりと背中を丸め、その場を去っていった。
 その姿を見送っても、私は振り返らなかった。

 数日後、騎士団長が私を呼び出した。

「話がある」

 いつもと変わらない、落ち着いた声だった。

「君は、もう十分に自分の足で立っている。それでも――」

 一瞬だけ言葉を選び、彼は静かに続けた。

「私の隣に、いてくれるか」

 その瞬間、胸の奥がじんわりと、確かにあたたかくなるのを感じた。

「守るだけの関係ではない。支え合う関係だ」

 私は少しだけ考え、それからはっきりと答えた。

「……はい。私も、それを望みます」

 彼は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
 共に仕事をし、学び、意見を交わし、ときには衝突もする。
 守られているという実感はあるけれど、依存しているわけではない。

 対等であることが、これほど心地いいものだとは、以前の私は知らなかった。

 夜、窓辺に立ち、静かな空を見上げる。
 あの夜会の日、私はすべてを失ったと思っていた。

 けれど今なら、はっきりとわかる。

 本当に失ったのは――必要のなかったものだけだったのだと。

 私は前を向く。
 過去を振り返らず、自分の足で進む。

 もう、誰かに選ばれるのを待つことはない。
 私は、私の人生を、私自身で選ぶ。

 そうできるようになった今の自分を、私は――ほんの少し、誇らしく思っていた。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

崖からポイ捨てされた不運令嬢ですが、銀髪イケメン竜王に『最愛の伴侶』としてスカウトされました!

阿里
恋愛
不作も天災も、全部わたしのせい!? 「不運な女」と虐げられ、生贄として崖から捨てられたわたし、ミラ。 でも、落ちた先で待っていたのは、まぶしいほど綺麗な銀髪の竜王・アルベルト様でした! 「君がいたから、この国は守られていたんだよ」 えっ、わたしって実はすごい聖女だったの!? 竜宮城で贅沢三昧&溺愛生活スタート! そんな中、わたしを捨てて大ピンチになった元婚約者が「ミラ、戻ってきて!」と泣きついてきて……。

「華がない」と婚約破棄されたけど、冷徹宰相の恋人として帰ってきたら……

阿里
恋愛
「貴族の妻にはもっと華やかさが必要なんだ」 そんな言葉で、あっさり私を捨てたラウル。 涙でくしゃくしゃの毎日……だけど、そんな私に声をかけてくれたのは、誰もが恐れる冷徹宰相ゼノ様だった。 気がつけば、彼の側近として活躍し、やがては恋人に――! 数年後、舞踏会で土下座してきたラウルに、私は静かに言う。 「あなたが捨てたのは、私じゃなくて未来だったのね」

婚約破棄された夜、最強魔導師に「番」だと告げられました

阿里
恋愛
学院の祝宴で告げられた、無慈悲な婚約破棄。 魔力が弱い私には、価値がないという現実。 泣きながら逃げた先で、私は古代の遺跡に迷い込む。 そこで目覚めた彼は、私を見て言った。 「やっと見つけた。私の番よ」 彼の前でだけ、私の魔力は輝く。 奪われた尊厳、歪められた運命。 すべてを取り戻した先にあるのは……

地味令嬢と嘲笑された私ですが、第二王子に見初められて王妃候補になったので、元婚約者はどうぞお幸せに

阿里
恋愛
「君とは釣り合わない」――そう言って、騎士団長の婚約者はわたしを捨てた。 選んだのは、美しくて派手な侯爵令嬢。社交界でも人気者の彼女に、わたしは敵うはずがない……はずだった。 けれどその直後、わたしが道で偶然助られた男性は、なんと第二王子!? 「君は特別だよ。誰よりもね」 優しく微笑む王子に、わたしの人生は一変する。

婚約破棄されましたが、今さら後悔されても困ります

阿里
恋愛
 復讐なんて興味ありません。でも、因果応報って本当にあるんですね。あなたのおかげで、私の幸せが始まりました。  ・・・ 政略結婚の駒として扱われ、冷酷非道な婚約者クラウスに一方的に婚約破棄を突きつけられた令嬢エマ・セルディ。 名誉も財産も地に堕とされ、愛も希望も奪われたはずの彼女だったが、その胸には消せない復讐と誇りが燃えていた。 そんな折、誠実で正義感あふれる高位貴族ディーン・グラスフィットと運命的に出会い、新たな愛と絆を育む。 ディーンの支えを受け、エマはクラウスの汚職の証拠を暴き、公の場で彼を徹底的に追い詰める──。

私を捨てた婚約者へ――あなたのおかげで幸せです

阿里
恋愛
「役立たずは消えろ」 理不尽な理由で婚約を破棄された伯爵令嬢アンナ。 涙の底で彼女を救ったのは、かつて密かに想いを寄せてくれた完璧すぎる男性―― 名門貴族、セシル・グラスフィット。 美しさ、強さ、優しさ、すべてを兼ね備えた彼に愛され、 アンナはようやく本当の幸せを手に入れる。 そんな中、落ちぶれた元婚約者が復縁を迫ってくるけれど―― 心優しき令嬢が報われ、誰よりも愛される、ざまぁ&スカッと恋愛ファンタジー

【完結】王太子に婚約破棄され、父親に修道院行きを命じられた公爵令嬢、もふもふ聖獣に溺愛される〜王太子が謝罪したいと思ったときには手遅れでした

まほりろ
恋愛
【完結済み】 公爵令嬢のアリーゼ・バイスは一学年の終わりの進級パーティーで、六年間婚約していた王太子から婚約破棄される。 壇上に立つ王太子の腕の中には桃色の髪と瞳の|庇護《ひご》欲をそそる愛らしい少女、男爵令嬢のレニ・ミュルべがいた。 アリーゼは男爵令嬢をいじめた|冤罪《えんざい》を着せられ、男爵令嬢の取り巻きの令息たちにののしられ、卵やジュースを投げつけられ、屈辱を味わいながらパーティー会場をあとにした。 家に帰ったアリーゼは父親から、貴族社会に向いてないと言われ修道院行きを命じられる。 修道院には人懐っこい仔猫がいて……アリーゼは仔猫の愛らしさにメロメロになる。 しかし仔猫の正体は聖獣で……。 表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。 「Copyright(C)2021-九頭竜坂まほろん」 ・ざまぁ有り(死ネタ有り)・ざまぁ回には「ざまぁ」と明記します。 ・婚約破棄、アホ王子、モフモフ、猫耳、聖獣、溺愛。 2021/11/27HOTランキング3位、28日HOTランキング2位に入りました! 読んで下さった皆様、ありがとうございます! 誤字報告ありがとうございます! 大変助かっております!! アルファポリスに先行投稿しています。他サイトにもアップしています。

婚約破棄の帰り道

春月もも
恋愛
婚約破棄を宣言されたその日、彼女はただ静かに頷いた。 拍手の中を背筋を伸ばして歩き、令嬢としての役目をひとつ終える。 やがて醜聞にまみれ、「傷物」「行き遅れ」と囁かれながらも、 薔薇と風だけを相手に庭でお茶を飲む日々。 気品だけを残して、心はゆっくりと枯れていく。 ――そんな彼女の前に現れたのは、 かつて身分違いで諦めた幼馴染、隣国の若き王だった。 「迎えに来た」 静かな破滅の先に訪れる、軍を率いた一途な求婚。 これは、声を荒げずにすべてを覆す、上品な逆転劇。

処理中です...