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冷たい館の中で
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私の朝は、鶏の鳴き声ではなく、バケツの水が頭からかかる音で始まった。
「起きなさいよ、リディア。いつまで寝てるの?」
ああ、まただ。冷たい水が肌に染みて、寝ていた身体が強制的に目覚めていく。私はぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばった。声の主はもちろん、義妹のセリーヌ。愛らしい顔に似合わず、性格はまるで腐った果実みたいにひねくれている。
「もう朝? ごめんなさい、寝過ごしてしまったわ」
私は布団を押しのけ、冷たい床に膝をついた。髪から滴る水が、木の床にぽたぽたと落ちる。セリーヌはそれを見て、くすくすと笑った。
「ほんと、みっともないわね。まるで汚れた犬みたい。ねえ、お母様も見て? このざまよ」
階段の上から、継母のクラリッサが降りてきた。朝から香水の匂いがきつい。眠っていた空気が一気に毒されるような気がした。
「まあまあ、セリーヌ。あまり言ってはだめよ。リディアにはリディアの役目があるのだから。ねえ? あなたには掃除と洗濯と朝食の支度、それから今日は来客があるからその準備もしないと」
そう言って、クラリッサはにっこりと微笑んだ。まるで善良な貴婦人のように。でもその笑顔の裏には、棘がいくつも隠されている。私はその棘に何度も何度も刺されて、今ではもう、痛みにも慣れてしまった。
「はい、わかりました。すぐに支度いたします」
私は濡れたままの髪を無造作にまとめ、ぼろぼろのエプロンを腰に巻いた。かつては絹のドレスに身を包み、父の隣で微笑んでいた日々が幻のように思える。
父が亡くなってから、すべてが変わった。継母と義妹がこの家を好き勝手にし、私は家族ではなく召使いになった。父の形見だったピアノは売られ、私の部屋は屋根裏へ追いやられた。それでも、私は黙って耐えた。だって、ここしか居場所がないと思っていたから。
けれど──。
私はふと、階段の影に視線を落とした。昨夜、埃をかぶった本棚の裏で見つけた、小さな木箱。父の書斎にあったものだ。中には鍵と、古びた手紙が入っていた。内容はまだすべて読みきれていない。でも、胸の奥で何かがざわついている。
「ねえ、早くしてよ。朝食まだ?」
セリーヌのわがままな声に、私ははっとして現実に引き戻された。キッチンへ駆け込み、パンを焼き始める。冷蔵庫なんてないこの時代、保存できる食材は限られている。それでも美味しく見せなきゃいけない。セリーヌは文句ばかり言うから。
「今日はリンゴのタルトを焼くわ。お好きでしょ?」
そう声をかけると、セリーヌはふんと鼻を鳴らした。
「アンタの作るものなんて、美味しいわけないじゃない。どうせ底が焦げてるんでしょ?」
「まあ、そう言わずに。焦げも香ばしさって言うじゃない」
私は笑顔で言い返したけれど、その言葉の裏に、ほんの少しだけ棘を込めた。気づかれないように、でも確実に刺さるように。
朝食の支度を終え、洗濯物を干しに庭へ出たとき、ふと空を見上げた。灰色の雲が重く垂れ込めていて、まるでこの屋敷の空気そのものみたいだった。
「……今日も、いい日になりそうね」
私は誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。そして心の中で、ゆっくりと微笑んだ。
「起きなさいよ、リディア。いつまで寝てるの?」
ああ、まただ。冷たい水が肌に染みて、寝ていた身体が強制的に目覚めていく。私はぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばった。声の主はもちろん、義妹のセリーヌ。愛らしい顔に似合わず、性格はまるで腐った果実みたいにひねくれている。
「もう朝? ごめんなさい、寝過ごしてしまったわ」
私は布団を押しのけ、冷たい床に膝をついた。髪から滴る水が、木の床にぽたぽたと落ちる。セリーヌはそれを見て、くすくすと笑った。
「ほんと、みっともないわね。まるで汚れた犬みたい。ねえ、お母様も見て? このざまよ」
階段の上から、継母のクラリッサが降りてきた。朝から香水の匂いがきつい。眠っていた空気が一気に毒されるような気がした。
「まあまあ、セリーヌ。あまり言ってはだめよ。リディアにはリディアの役目があるのだから。ねえ? あなたには掃除と洗濯と朝食の支度、それから今日は来客があるからその準備もしないと」
そう言って、クラリッサはにっこりと微笑んだ。まるで善良な貴婦人のように。でもその笑顔の裏には、棘がいくつも隠されている。私はその棘に何度も何度も刺されて、今ではもう、痛みにも慣れてしまった。
「はい、わかりました。すぐに支度いたします」
私は濡れたままの髪を無造作にまとめ、ぼろぼろのエプロンを腰に巻いた。かつては絹のドレスに身を包み、父の隣で微笑んでいた日々が幻のように思える。
父が亡くなってから、すべてが変わった。継母と義妹がこの家を好き勝手にし、私は家族ではなく召使いになった。父の形見だったピアノは売られ、私の部屋は屋根裏へ追いやられた。それでも、私は黙って耐えた。だって、ここしか居場所がないと思っていたから。
けれど──。
私はふと、階段の影に視線を落とした。昨夜、埃をかぶった本棚の裏で見つけた、小さな木箱。父の書斎にあったものだ。中には鍵と、古びた手紙が入っていた。内容はまだすべて読みきれていない。でも、胸の奥で何かがざわついている。
「ねえ、早くしてよ。朝食まだ?」
セリーヌのわがままな声に、私ははっとして現実に引き戻された。キッチンへ駆け込み、パンを焼き始める。冷蔵庫なんてないこの時代、保存できる食材は限られている。それでも美味しく見せなきゃいけない。セリーヌは文句ばかり言うから。
「今日はリンゴのタルトを焼くわ。お好きでしょ?」
そう声をかけると、セリーヌはふんと鼻を鳴らした。
「アンタの作るものなんて、美味しいわけないじゃない。どうせ底が焦げてるんでしょ?」
「まあ、そう言わずに。焦げも香ばしさって言うじゃない」
私は笑顔で言い返したけれど、その言葉の裏に、ほんの少しだけ棘を込めた。気づかれないように、でも確実に刺さるように。
朝食の支度を終え、洗濯物を干しに庭へ出たとき、ふと空を見上げた。灰色の雲が重く垂れ込めていて、まるでこの屋敷の空気そのものみたいだった。
「……今日も、いい日になりそうね」
私は誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。そして心の中で、ゆっくりと微笑んだ。
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