あなたが「いらない」と言った私ですが、溺愛される妻になりました

有賀冬馬

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「マリア、またそんなところに突っ立って何をしているの? 目障りだわ」

背後から聞こえる声に、私の肩はびくりと震えた。振り向かずともわかる。この屋敷の次男坊、ロルフ様の取り巻きの一人、クリスタ様だ。クリスタ様は、私を見るたびに嫌そうな顔をする。まるで、私がそこにいること自体が罪であるかのように。

私は子爵家付きのメイド服をぎゅっと握りしめた。平民出の私が、才覚を買われてロルフ様と婚約することになったのは、今から半年前のこと。それはまるで夢のような話だった。貧しい村で育った私が、貴族様と結婚するなんて。最初は、ロルフ様も優しかった。私の話に耳を傾け、時には微笑んでくれた。けれど、婚約が決まってから、ロルフ様は少しずつ変わっていった。いや、元々がそうだったのかもしれない。私が、それに気づかなかっただけなのか。

「返事がないなんて、失礼ね」

クリスタ様の声が、ますます冷たくなる。私は慌てて振り返り、頭を下げた。

「申し訳ございません、クリスタ様。ぼんやりしておりました」

「ぼんやり? ふん、平民のくせに随分と余裕がおありなのね。ロルフ様が、あなたのような女を婚約者として受け入れているとでも思っているの?」

クリスタ様の言葉は、いつも私の心をえぐった。ロルフ様が私に冷たい態度をとるようになってから、使用人たちの目も、私を見るたびに軽蔑の色を帯びるようになった。私がこの屋敷にいること自体が、場違いなのだと、毎日毎日、突きつけられているようだった。

その日の午後、私はロルフ様の書斎の掃除を任されていた。書斎は、いつもひっそりとしていて、私にとっては唯一、心が安らぐ場所だった。広い窓からは、手入れの行き届いた庭が見える。この庭を眺めていると、遠い故郷の景色を思い出す。あの頃は、ただ明日を生きるだけで精一杯だったけれど、心はもっと自由だった気がする。

ふと、書斎の奥から話し声が聞こえた。誰かいるのだろうか? 書斎はロルフ様以外立ち入り禁止のはずだ。私は掃除の手を止め、そっと耳を澄ませた。

「…本当に、マリアのような平民と婚約するなんて、ロルフ様も大変でしたわね」

女の声だ。どこかで聞いたことのある、鈴が転がるような、けれどどこか嘲笑を含んだ声。

「ああ、まったく。あんな地味な女、見てるだけでうんざりする。早く縁を切って、君のような美しい令嬢と結婚したいよ、カトリーヌ」

その言葉に、私の心臓が凍り付いた。ロルフ様……? そして、カトリーヌという名前。それは、最近ロルフ様がよくお相手をしていると噂の、伯爵令嬢の名前だった。

私は震える手で、開いていた書斎の扉の隙間から中を覗いた。そこには、信じられない光景が広がっていた。ロルフ様が、カトリーヌ様と体を寄せ合い、親密な様子で話している。そして、ロルフ様の手が、カトリーヌ様の頬に触れている……。

頭が真っ白になった。足元がぐらつき、立っていられなくなる。私はその場にへたり込んだ。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。これは、怒り? それとも、悲しみ?

「マリア!? なぜここにいるんだ!」

ロルフ様の声が、怒りに満ちていた。私がそこにいることに気づいたのだ。私は慌てて立ち上がり、震える声で言った。

「あの、お掃除を、その…」

「掃除だと? お前はいつも、こうして勝手に俺の邪魔をする! 平民のくせに出しゃばるなと言っているだろう! まったく、目障りだ!」

ロルフ様の言葉が、私の心臓をえぐり取っていく。目障り。その言葉は、まるで私という存在すべてを否定されているようだった。カトリーヌ様は、ふふ、と上品に笑いながら、私を侮蔑の目で見ていた。

その日の夕食後、私はロルフ様に呼び出された。場所は、ロルフ様の私室。普段は絶対に入ることが許されない場所だ。私の胸は、嫌な予感でいっぱいだった。

「マリア」

ロルフ様は、私を見るなり冷たい声で言った。

「君との婚約は、なかったことにする」

その言葉に、私の世界は音を立てて崩れ落ちた。分かっていたことだ。薄々、いや、はっきりと感じていたことだ。でも、いざ目の前で突きつけられると、あまりにも残酷だった。

「わ、私に、何か至らない点が…」

絞り出すような声で、私は尋ねた。

「至らない点だと? 君はすべてにおいて至らない! 平民出身の君が、この子爵家の人間になろうとすること自体が、身の程知らずなんだ! 君のような女が隣にいるだけで、俺の評判が落ちる!」

ロルフ様の言葉は、容赦なかった。私の存在を、根こそぎ否定するような言葉の数々。

「それに、もう君には用はない。君のような女と、これ以上一緒にいるのはごめんだ。さっさとこの屋敷から出て行け。二度と俺の前に現れるな!」

私はその場に立ち尽くしていた。足の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。婚約破棄。そして、屋敷からの追放。私は、どこへ行けばいいのだろう。頼れる親戚も、友人もいない。故郷の村は、飢饉でほとんどの人がいなくなってしまった。

「今日中に荷物をまとめ、この屋敷を出て行け。明日には、もう君の居場所はない」

ロルフ様の冷酷な言葉が、私の耳の奥で響き続ける。私は、ただ頷くことしかできなかった。

屋敷を出たのは、夜も深まった時間だった。小さな荷物を抱え、私は石畳の道を歩いていた。街の明かりが遠ざかり、闇が私を包み込んでいく。冷たい風が、私の頬を伝う涙を凍らせた。

どこへ行こう。どうやって生きていこう。頭の中は、真っ白だった。ただひたすら、足だけを動かす。街を抜けて、人気のない道を歩き続けると、やがて森の入り口へとたどり着いた。もう、街に戻る気力もなかった。このまま、どこか遠くまで行ってしまいたい。誰にも見つからない場所へ。

森の中は、さらに暗く、不気味だった。獣の鳴き声が聞こえ、身が竦む。それでも、私は歩き続けた。疲労と空腹が、私の体を蝕んでいく。もう、限界だった。足がもつれて、私はその場に倒れ込んだ。

「う…うう…」

声にならない嗚咽が漏れる。こんなところで、私は死んでしまうのだろうか。誰にも知られずに、ひっそりと。ロルフ様の言葉が、頭の中を駆け巡る。目障り。いらない女。私には、生きる価値なんてないのかもしれない。

その時だった。

「おい、そこの女! 金目のものを置いていけ!」

低い、荒々しい男の声が聞こえた。顔を上げると、目の前に数人の男たちが立っていた。手には、ごつごつとした棍棒や、錆びた剣を持っている。山賊だ。

私の全身から、血の気が引いた。死ぬなら、せめて穏やかに、と思っていたのに。こんな形で、終わってしまうなんて。私は、震える手で、唯一持っていた小さなポーチを差し出した。中には、わずかな銀貨が入っているだけだ。

「これしか、ありません…」

「なんだ、これだけか! ふざけるな!」

男の一人が、私に近づいてくる。その顔には、醜い笑みが浮かんでいた。私は目をぎゅっと閉じ、来るべき衝撃に備えた。もう、抵抗する気力もなかった。

その時、キン、と金属がぶつかる音が響いた。

「この先は、私の領地だ。これ以上、勝手な真似はさせない」

低い、けれど芯のある男の声。目を開けると、私の目の前に、一人の男性が立っていた。彼の背丈は高く、漆黒の外套を羽織っている。夜の闇に紛れるように、その姿はぼんやりとしていたが、彼の持つ剣が、月明かりを反射してきらりと光った。

山賊たちが、ぎょっとしたように後ずさる。

「て、手出しするんじゃねえ! お前は何者だ!」

山賊の一人が叫んだ。男性は、その問いに答えることなく、ただ静かに剣を構える。その姿は、まるで夜の闇に溶け込む影のようだった。けれど、そこから放たれる威圧感は、尋常ではなかった。

「退かぬのなら、容赦はしない」

男性の声が、静かに響いた。山賊たちは、その言葉に怯えたように顔を見合わせる。そして、一斉に逃げ出した。

私は、呆然とその光景を見ていた。あっという間の出来事だった。危機が去り、安堵の息が漏れる。

「大丈夫か?」

男性が、私に優しく声をかけた。その声は、先ほどの冷徹な声とは違い、どこか温かみがあった。私はゆっくりと顔を上げた。彼の顔は、暗くてよく見えなかったけれど、その瞳だけは、月明かりを受けてきらりと光っていた。深い青色の瞳。

「あ、ありがとうございます…」

私は震える声で答えた。体が震えて、なかなか立ち上がれない。

「怪我はないか? 立てるか?」

男性は、そっと私の腕を掴み、立ち上がるのを手伝ってくれた。彼の手に触れると、ひどく冷たかった。でも、それがどこか心地よかった。

「あ、あの…あなたは?」

私が尋ねると、彼は少しだけ口元を緩めたように見えた。

「私はエリオット。この先の辺境伯だ。君は?」

辺境伯…。私は驚いて目を見開いた。まさか、こんな場所で、辺境伯に出会うなんて。しかも、私を助けてくれるなんて。

「わ、私はマリアです…。その、行き場がなくて…」

私は正直に今の状況を話した。ロルフ様との婚約破棄のこと。屋敷を追われたこと。

エリオット様は、黙って私の話を聞いてくれた。その間、一度も私を遮ることも、嘲笑うこともなかった。ただ、じっと私の目を見て、静かに頷いていた。

「そうか。辛かっただろう」

エリオット様の言葉に、私の目からまた涙が溢れてきた。誰にも言えなかった、胸の奥に閉じ込めていた悲しみと絶望が、彼の優しい言葉によって堰を切ったように溢れ出す。

「よければ、私の領地に来るといい。今夜は、そこで休むといい」

エリオット様の言葉は、私の心を温かく包み込んでくれた。私は、ただ頷くことしかできなかった。彼の隣を歩きながら、私は思った。この人は、私にとっての救いなのだろうか。闇の中に差し込んだ、一筋の光なのだろうか。
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