「華がない」と婚約破棄されたけど、冷徹宰相の恋人として帰ってきたら……

阿里

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宰相府での生活にも、だいぶ慣れてきた頃。

朝早く起きて、お茶をいれて、書類を整えて、ゼノ様が来られる前に机の上をきれいにして……。それが、わたしの日課になっていた。

 

ゼノ様は、朝になると必ず「おはよう」と声をかけてくれる。

低くてやさしい声で、きちんとわたしの目を見て。

それだけのことなのに、胸がふわってあたたかくなって……なんていうか、うまく言えないけど……すごく、うれしいの。

 

「あの、ゼノ様……昨日お渡しした報告書、読んでいただけましたか?」

 

「もちろんだ。内容も良かった。特に、税制改革案の指摘、助かったよ」

 

「えっ、本当に……?」

 

「君は、まだ自信がないようだな。もっと、自分の判断に誇りを持っていい」

 

その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かがキラキラって光った気がした。

なんで、そんなふうに信じてくれるんだろう。
わたしはただ、必死で頑張ってるだけなのに――。

でも、信じてくれる人がいるって、こんなにも心強いんだって、はじめて知ったの。

 

「……ありがとう、ございます」

 

わたしの声は、小さくて、ちょっと震えてしまった。

だけど、ゼノ様は、そんなわたしをちゃんと見ていてくれて……

 

「ナタリー」

 

「は、はいっ」

 

「君は……どうして、そんなに必死で努力する?」

 

突然の質問に、思わず目を瞬きました。

なんでって……そんなの……

 

「わたし……捨てられたくなかったから、です」

 

言ってしまってから、あっ、と口をおさえてしまった。

ゼノ様の前で、こんなこと、言うつもりじゃなかったのに……!

 

でも、ゼノ様は驚いたような顔をしたあと、ふっとやわらかく笑った。

それは、いつもの冷静な笑みじゃなくて――どこか、悲しそうで、優しい、そんな笑顔。

 

「そうか。……君は、あの男に、そんな思いをさせられたのか」

 

「……はい。でも、もう大丈夫です。あの頃みたいに泣いたりしませんから」

 

「……泣いてもいい。無理に強くなろうとしなくていい。君のままでいてくれれば、それでいい」

 

ゼノ様の言葉は、いつもまっすぐで、胸に刺さる。

そして、わたしの中の、まだ癒えていない傷に、そっと手を当ててくれるみたい。

 

わたし、気づいてしまったの。

ゼノ様のことを考えると、心がぽかぽかするの。
笑ってくれたらうれしくて、褒めてくれたら、もっとがんばろうって思える。

それって……それって……

 

「……好き、なのかな、わたし……」

 

ぽろっとこぼれた言葉に、自分でびっくりしてしまって、口を両手でおさえた。

でも、もう遅い。
胸の奥で、何かがほどける音がして――
やっと、素直な気持ちを見つけたの。

 

「ゼノ様……わたし……」

 

何かを言いかけたそのとき、ノックの音がした。

 

「宰相閣下、急ぎの文書が届いております!」

 

使用人の声が、現実を引き戻した。

 

「ああ、わかった。すぐ行く」

 

ゼノ様は、わたしにちらりと視線を向けてから、軽く微笑んで立ち上がった。

 

「続きは、また後で。……ちゃんと聞かせてくれ」

 

その言葉と笑顔が、あまりにあたたかくて。
わたしはその場に立ち尽くしたまま、胸を押さえてしまった。

 

ゼノ様――
わたし、きっと、あなたが――

 

 

その日の夜、ベッドに入ってからも、心臓がうるさくて眠れなかった。

カーテンの向こうで、月がやさしく光ってる。

ああ、どうしよう。
こんな気持ち、どうしたらいいの――。

 

でも、確かなのは。

わたしの心が、ゼノ様を好きになりはじめていること。

もう、戻れないくらい、深くて、やわらかい想いが……心を満たしている。








 

ゼノ様の言葉が、心の奥でずっと響いている。

「無理に強くならなくていい」って――
そう言ってくれたあの声を思い出すたびに、胸がぎゅうってなる。

 

こんなにやさしくされたの、いつぶりだろう。

お父様は厳しくて、褒めてくれることなんてあんまりなかったし、
お母様も、ずっと「女の子はおしとやかに」って言ってばかりで。

ラウル様は……最初はやさしい言葉をくれたけど、だんだん、「もっと美しくなれ」とか、「ドレスぐらい似合え」とか……そんなことばかり。

わたしが一生懸命勉強しても、興味すら持ってくれなかった。

 

だけどゼノ様は、わたしの「努力」をちゃんと見てくれる。

わたしの「まじめ」を、褒めてくれる。

それだけで、こんなにも心があたたかくなるなんて……知らなかった。

 

でも――

 

そんなゼノ様にも、「過去」があるのだと知ったのは、次の日のことだった。

 

「ナタリー嬢。ゼノ様は少し遅れられるそうです」

朝の執務室で、侍従の方がそう言って去っていった。

珍しい……ゼノ様が遅れるなんて。

少し不安になって、書類にも身が入らず、ふと、使いの者たちの話に耳を傾けてしまった。

 

「……例の墓所に行かれたそうです」

「年に一度の……あの日、か」

「若き頃、家族を……」

 

その言葉に、胸がひやりとした。

ゼノ様が……家族を……?

 

わたし、何も知らなかったんだ。

ゼノ様の過去も、痛みも、なにも。

 

──気づけば、足が動いていました。

今、会いに行かなきゃ。どうしても、今。

わたし、あの人のそばにいたい。

そう思った。

 

 

馬車を降りたのは、城下から少し離れた静かな森の奥。

そこには、小さな石造りの礼拝堂と、きれいに手入れされた墓所があった。

しん、とした空気。

風の音だけが、優しく木々を揺らしている。

 

「……ゼノ様」

わたしは、そっと声をかけた。

 

ゼノ様は、小さな花束を手にして、ひとつの墓石の前に立っていた。

その横顔は、いつもの冷静な仮面とはまるで違って……とても、悲しそうで、さびしそうで……

 

「……すまない、ナタリー。こんなところまで来させて」

 

「いえ、どうしても……あなたに、会いたくて」

 

わたしの声は、少し震えていたかもしれなかった。

でも、ちゃんと伝えたかった。ここに来た理由を。

 

「……これは、妹の墓だ。七つのとき、熱病で死んだ」

 

「……妹さん……」

 

「家族はもう、いない。戦争で、親も失った。……私に残ったのは、地位と責任だけだった」

 

ゼノ様の言葉は、静かで、それでいて重くて。

知らなかった。
あの人がそんなにも深い孤独を抱えていたなんて。

 

「……あなたは、強いですね」

わたしがそう言うと、ゼノ様は小さく首を振りました。

 

「違うよ。私はただ、背負うしかなかっただけだ」

 

「……でも、それをずっと……ひとりで……」

 

もう、だめだった。

気づいたら、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

それはきっと、ゼノ様の悲しみに触れたからだけじゃない。

自分でも気づかないうちに、わたしは、ゼノ様の心に寄り添いたいと思ってた。

もっと知りたいって思ってた。

 

「ゼノ様……あなたは、もうひとりじゃないです。わたしが……ここにいます」

 

そう言ったとき、ゼノ様がふいにわたしを見つめた。

その目が、ほんの少し揺れて……そして、優しく細められた。

 

「……ありがとう。ナタリー」

 

その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

ああ、やっぱり……わたし、好きだ。

この人の力になりたい。
ただの側近じゃなくて、もっと深く、この人の隣に――

 

 

その帰り道、ゼノ様は珍しく、わたしにいろんな話をしてくれた。

昔、妹とよく花を摘みに行った話。

家族を失ってから、宰相になるまでの話。

……そして、心を閉ざしていた時間の話も。

 

そのすべてを、わたしは大事に胸にしまった。

 

夜、ベッドに入ったあとも、心のなかがぽかぽかして眠れなかった。

 

わたし、ゼノ様のことが……ほんとうに好き。

 

この想いが、いつかあの人に届きますように。

いつか、わたしの笑顔が、あの人の悲しみを少しでも癒せるように――。








あれから、ゼノ様とわたしの距離は少しずつ――でも、確実に近づいていった。

毎日の執務室でのやりとり。

ふとしたときに目が合って、視線をそらせなくなってきたのは、きっとわたしだけじゃない……はず。



「この文書、確認お願いします。お昼までに王太后陛下へ」

「うん。ありがとう、ナタリー。やっぱり君がいると、仕事がはかどるな」

 

ふふっ、と自然に笑みがこぼれてしまう。

前なら、「お役に立てて光栄です」って固く返してたかもしれないけど、最近は少し、気がゆるんできた気がする。

 

「ゼノ様も……お疲れではないですか? 無理されてるように見える日、あります」

「君はよく見てるな。本当に。……ああ、今日は少しだけ休憩をとろう。君も一緒に」

 

えっ、い、一緒に……!?

……そんなふうに言われたら、ドキドキが止まらない。

いけない、いけないって思っても、ゼノ様の隣にいると、どうしても心が跳ねてしまう。

 

ふたりきりの控えの間で、温かいお茶を出していただいて、しばしの休息。

窓から見える庭の花が、風に揺れていて、空は明るく晴れていて。

 

「ナタリー、今日は髪、いつもと違う結い方だな。……よく似合ってる」

 

「っ……! あっ、はいっ……侍女のエミーが、たまには変えてみたらって……!」

 

「ふふ、いい侍女さんだ」

 

うそ。もう無理。
こんなにやさしく言われたら、わたし、舞い上がってしまう。

頬が熱くなってきて、視線を合わせられなくて、思わずお茶に口をつけた。

 

「……ナタリー、私の話、もう少し聞いてくれるか?」

 

「はいっ。なんでも、お話しください」

 

そう言ったら、ゼノ様は少し黙って……そして、ぽつりと口を開いた。

 

「……私は、感情を表に出すのが苦手でね。ずっと、強く見せないといけない立場だったから。……でも、君といると、なぜか話したくなる」

 

「……それは、きっと。ゼノ様が、わたしのことを信じてくださっているから……」

 

「……ああ。そうだな。私は、君を信頼している。そして……」

 

そこで、ゼノ様の言葉がふいに止まった。

沈黙。心臓が、ドクン、ドクンと鳴る音が聞こえるくらい静かだった。

 

「そして……?」

 

わたしが小さく問いかけると、ゼノ様は、まっすぐこちらを見た。

その瞳の奥に、隠しきれない何かが揺れていた。

 

「……いや。今は、やめておこう」

 

「……え?」

 

「君が、もっと自分の気持ちに気づいてから……そのときに、伝えるよ」

 

それって、どういう意味……?

わたしのなかに、小さなざわめきが生まれて、でもその正体がまだわからなくて。

ただ、胸の奥でふわっと広がるこの感情が、きっと「恋」なんだろうって、ぼんやり思った。

 

それからも、ゼノ様とわたしは毎日を一緒に過ごして。

誰にも言えない秘密のような、ふたりだけの時間が増えていって――

そして、ある日、とうとうあの人が、わたしの前に再び現れた。

 

それは、晴れた午後のこと。

書類を届けに外へ出ていた帰り、街角の貴族通りで――

 

「……ナタリーじゃないか!」

 

あの、耳障りな声。

嫌でも忘れられない、わたしの元婚約者――ラウル。

 

「こんなところで何をしてる? 貴族の通りは庶民が歩くには場違いだぞ?」

 

まるで昔と同じ、偉そうな態度。

だけど、今のわたしは、もう前のわたしじゃない。

ラウルの言葉に、胸をざわつかせることなんて――しない。

 

「失礼します。お仕事中なので」

 

そう言って通りすぎようとしたそのとき。

 

「待てよ、ナタリー。おまえ、今はあの宰相の側近だって? へぇ……出世したもんだなあ?」

 

にやにやと薄笑いを浮かべるその顔が、まるで落ち目の劇役者みたいで、見ていて哀れだった。

 

「……ゼノ様に無礼な口をきくのは、おやめください」

そう言って、わたしはラウルに背を向けてその場から去った。

わたしの声は震えてなかった。

強く、はっきりと、言えた。
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