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「ナタリー、最近……よく微笑むようになったね」
そんなふうにゼノ様に言われたのは、ある朝のこと。
王宮の廊下をふたりで歩いているとき、何気ない声色で、でもどこか優しくて、胸の奥がふわってあたたかくなった。
「えっ……そ、そうですか……?」
たしかに最近、自分でもわかるくらい笑ってる気がする。前みたいに、かたくなで不器用な自分じゃなくて、ちょっとだけ心がやわらかくなった……そんな気がしていた。
「うん。とても、いいことだ。……君には、もっと笑っていてほしい」
「…………」
なんだろう、この気持ち。
恥ずかしいのに、うれしくて、なんだか泣きたくなるほど胸がいっぱいになる。
ゼノ様の言葉って、いつもまっすぐで、ずるくない。
ずるいのは……あの人だった。
――ラウル。
あのとき道で出会って以来、なんとなく心の奥で嫌な予感がしていた。
その予感は、わたしの想像よりも、ずっと早く、ずっと面倒なかたちでやってきた。
「ラウル・ヴァルキス、王都裁判所にて取り調べ中だそうだ」
宰相室にいたゼノ様が、静かにそう口にしたとき、わたしの手に持っていたペンが、カタン……と机に落ちた。
「……ラウルが、なぜ……?」
「不正入札、貴族税の不払い、土地の不当譲渡……調べれば調べるほど、芋づる式に出てくる。今朝方、証拠が提出され、国王陛下の許可で正式な告訴となった」
「……まさか」
わたしの胸が苦しくなったのは、ラウルが捕まったことに対してじゃない。
彼が、そんなにも愚かだったことに、呆れすぎて言葉も出なかったのだ。
「きっと、わたしと別れたあと……浮かれていたんでしょうね」
皮肉のように言ったつもりだったけど、ちくっと胸の奥が痛むのはなぜだろう。
未練なんて、ないはずなのに。
「……ナタリー。君は悪くない。彼が選ばなかったのは君じゃなく、未来だ」
はっ――。
その言葉は、まるで雷みたいに、心の奥を貫いた。
そんなふうに、真っすぐ見つめられたら、だめ。
だって、好きになってしまう。
わたし、きっと、もう……
「ゼノ様……」
「……ナタリー?」
思わず名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
いけない。わたし、まだちゃんと気持ちを言葉にしてない。
それなのに、こんなふうに気持ちばかり膨らんでしまって――
そんなある日、ついに事件は起きた。
王都の舞踏会。
春の祝宴として催されるこの舞踏会に、わたしはゼノ様の「正式な補佐官」として参加することになった。
ドレスは、淡い桜色の絹。
エミーが張り切って用意してくれて、髪もお花みたいに飾ってくれて。
鏡の前でくるりとまわると、知らない誰かになったみたいで、少しだけど自信が持てた。
――でも、そのとき。
舞踏会の広間で、わたしは、最悪の再会をすることになる。
「ナタリー……?」
声をかけてきたのは、もう見る影もないほどやつれたラウルだった。
その姿は、わたしが知っていたラウルとは、まるで別人のようだった。
髪はぼさぼさで、衣服もくたびれていて、以前のような輝きはどこにもなかった。
目の下にはくまがあり、頬はやつれ、貴族らしい品格なんてかけらもない。
服は貴族らしいものだったけど、目の下にくまができて、髪も乱れていた。
周囲の貴族たちは、彼に目もくれず、遠巻きにしていた。
まるで、汚らわしいものを見るように。
「お願いだ、話だけでも……!」
「……申し訳ありませんが、あなたとお話することは、ありません」
わたしは、背筋をぴんと伸ばして、ゼノ様のもとへ戻ろうとした。
でも、その背に、あの情けない声が響く。
「ごめんっ、ナタリー……ぼくが、間違ってた。君のこと、馬鹿にして、手放したのは……人生最大の失敗だった……!」
会場が、静まり返った。
人々の視線が、一斉にわたしたちへ向けられる。
わたしは、ゆっくりと振り返って、彼の前に立った。
「お、おねがいだ……ナタリー、もう一度だけ……!」
だけど、わたしはその姿を見下ろしても、何も感じなかった。
可哀想とか、悲しいとか、後悔とか――なにも。
それよりも。
今、わたしのすぐそばにいてくれるゼノ様のほうが、ずっとずっと大切だった。
「……ゼノ様、行きましょう。私、あなたと踊りたいんです」
「もちろんだ、ナタリー。君の願いなら、なんだって叶えよう」
そして、わたしたちは手を取り合い、華やかな音楽の中へと溶け込んでいった。
ラウルの姿は、もう――振り返らなかった。
ゼノ様と手を取り合って、舞踏会の中央へ歩いていく。
周囲の視線を感じて、胸がどきどきしてるけど……もう、怖くなかった。
隣にいるのが、ゼノ様だから。
わたしは、ちゃんと前を向いている。
「……ナタリー?」
くるり、とゼノ様がやさしくわたしを回転させる。
広間いっぱいに響く音楽と、たくさんの花の香り。
照明の光が、きらきらと床に反射して、まるで夢の中みたいだった。
「さっきは……とても、かっこよかったよ」
「ふふ……そう言ってもらえると、少しだけ救われます」
「君が前を向いて進む姿を見るたびに、私は、惹かれずにはいられなかった」
「えっ……?」
わたしの足が、一瞬、止まりそうになる。
でも、ゼノ様はそっと腰を支えて、やさしく踊りのリズムに戻してくれた。
「君は、自分では気づいていないかもしれない。でも――誰よりも強く、誰よりも美しい女性だ。私は……そんな君を、ずっと見ていたんだ」
「ゼノ様……」
耳が熱い。顔も、心も。
どうしてこんなに、胸が苦しいのに、嬉しいんだろう。
今にも泣きそうなのに、笑ってしまいそう。
「わたし……ずっと、自信がなかったんです」
「……うん」
「ラウルにふられて、自分には価値がないって思って……」
「そんなことは、ない。絶対にない。彼が愚かだっただけだ。君の価値を、見ようともしなかった」
「……ゼノ様は、違った」
「君の瞳を見た瞬間に、わかったんだ。……この人は、どんな嵐にも耐え抜けるひとだって」
「……ゼノ様……っ」
目元がにじんで、涙があふれてきそうだった。
どうしてだろう。こんなにも嬉しいのに、泣きたくなる。
言葉にならないほど、心がいっぱいで――
「ナタリー。私は、君が好きだ。誰よりも大切に思っている。だから……」
ふっと音楽が止まって、広間が静かになった。
その一瞬の静寂のなかで、ゼノ様の声だけが、まっすぐに響いた。
「私と結婚してほしい。……君の人生を、これからは私が共に生きたいんだ」
……時が、止まったようだった。
まわりの世界が遠ざかって、ゼノ様の言葉だけが、胸に深く深く響いた。
「……わたしで、いいんですか?」
それが、やっと絞り出したわたしの答えだった。
怖くて、不安で、でも心の奥でずっと願っていた言葉。
「君がいいんだ。君でなきゃ、だめなんだ」
ゼノ様の目は、まっすぐで、真剣で――でも、やさしかった。
この人なら、信じてもいいって、思えた。
「……はい。わたし、ゼノ様と一緒に生きていきたいです」
涙がぽろぽろとあふれてくる。
だけど、不思議と悲しくはなかった。
むしろ、こんなにも幸せで、嬉しくて、温かい涙なんて、知らなかった。
ゼノ様がそっと、わたしを抱きしめてくれる。
その腕の中は、まるで春の陽だまりみたいに、あたたかかった。
「ありがとう、ナタリー。……絶対に、君を泣かせたりしない。君が笑っていられる未来を、私がつくる。約束するよ」
――そうして、わたしたちはふたりで歩き出す。
過去の痛みも、苦しみも、すべて抱きしめて。
でももう、振り返ることはない。
だってこれから先は、きっと笑顔が待っているから。
わたしの未来は、わたしのもの。
そして、その隣には、ゼノ様がいてくれるから。
――幸せな、誓いの夜だった。
舞踏会が終わりに近づいたころ、ざわめきが広間の隅から広がってきた。
ふと、私はその方へ視線を向けて――思わず、目を見開いた。
「……え?」
そこにいたのは、先ほどのラウルだった。
「ナタリー……! ナタリーッ!」
彼はよろよろと、広間の中をかきわけるようにして、私の方へやってきた。
まわりの人たちが驚き、少し距離を取るのがわかった。
ゼノ様がさっと私の前に出たけれど、私はそっとその手を取って、一歩前に出た。
「ラウル……」
自分でも驚くくらい、落ち着いて言葉が出た。
胸は静かで、波一つ立たない水面のようだった。
「ナ、ナタリー……お願いだ、助けてくれ……!」
彼は、その場に崩れ落ちるようにして、私の前にひざをついた。
まわりの空気が凍りつく。
貴族が、公衆の面前で土下座するなんて、前代未聞だ。
「僕は……僕は、おまえにひどいことをした! わかってる! だから、だからっ……!」
「何が“だから”なの?」
わたしの声は、小さかったけど……不思議と、広間中に響いた。
ラウルがはっと顔をあげて、私を見上げる。
「あなたが私を捨てたとき、私は、世界が終わったように感じた。……でも、終わってなんかなかった。そこから始まったの。私の人生が」
「ナタリー……違うんだ、あのときは、母さんが……」
「お母様のせいにするの? 自分の判断を?」
ぴしゃりとした声が、自分のものとは思えないくらい強かった。
けど、ちゃんと伝えなきゃって思った。
これは、過去のわたしへのけじめだから。
「あなたは、華やかさがないからって私を捨てた。努力や誠実さより、飾りを選んだの。……それが、あなたの選択だった」
「ち、違う……! 僕は、ただ……! 僕には、君が必要なんだ……っ!」
「必要だったのは、あなたじゃない」
私はそっと振り返って、ゼノ様の方を見た。
そこにいる彼は、静かにうなずいてくれた。
あのときも今も、私の選択を信じてくれている。
「ゼノ様がいてくれた。私の価値を、見つけてくれた」
「そ、そんな……なんで僕が……っ」
「あなたが捨てたのは、私じゃない」
そう言った瞬間、あの言葉が自然と口からこぼれた。
「――あなたが捨てたのは、“未来”だったのよ」
ラウルの顔が青ざめた。
そのまま、彼は小さく震えながら、床に崩れ落ちたまま何も言えなくなっていた。
まるで、彼の人生が音を立てて崩れていくのを、目の前で見ているようだった。
「さあ、ナタリー。もう、行こう」
ゼノ様の声が、私の心に優しく響いた。
「……はい」
私はゼノ様の手を取り、広間を後にした。
もう、過去に縛られることはない。
これが、わたしの最後の“けじめ”。
そして、わたしの人生は――ここから、本当に始まるのだから。
そんなふうにゼノ様に言われたのは、ある朝のこと。
王宮の廊下をふたりで歩いているとき、何気ない声色で、でもどこか優しくて、胸の奥がふわってあたたかくなった。
「えっ……そ、そうですか……?」
たしかに最近、自分でもわかるくらい笑ってる気がする。前みたいに、かたくなで不器用な自分じゃなくて、ちょっとだけ心がやわらかくなった……そんな気がしていた。
「うん。とても、いいことだ。……君には、もっと笑っていてほしい」
「…………」
なんだろう、この気持ち。
恥ずかしいのに、うれしくて、なんだか泣きたくなるほど胸がいっぱいになる。
ゼノ様の言葉って、いつもまっすぐで、ずるくない。
ずるいのは……あの人だった。
――ラウル。
あのとき道で出会って以来、なんとなく心の奥で嫌な予感がしていた。
その予感は、わたしの想像よりも、ずっと早く、ずっと面倒なかたちでやってきた。
「ラウル・ヴァルキス、王都裁判所にて取り調べ中だそうだ」
宰相室にいたゼノ様が、静かにそう口にしたとき、わたしの手に持っていたペンが、カタン……と机に落ちた。
「……ラウルが、なぜ……?」
「不正入札、貴族税の不払い、土地の不当譲渡……調べれば調べるほど、芋づる式に出てくる。今朝方、証拠が提出され、国王陛下の許可で正式な告訴となった」
「……まさか」
わたしの胸が苦しくなったのは、ラウルが捕まったことに対してじゃない。
彼が、そんなにも愚かだったことに、呆れすぎて言葉も出なかったのだ。
「きっと、わたしと別れたあと……浮かれていたんでしょうね」
皮肉のように言ったつもりだったけど、ちくっと胸の奥が痛むのはなぜだろう。
未練なんて、ないはずなのに。
「……ナタリー。君は悪くない。彼が選ばなかったのは君じゃなく、未来だ」
はっ――。
その言葉は、まるで雷みたいに、心の奥を貫いた。
そんなふうに、真っすぐ見つめられたら、だめ。
だって、好きになってしまう。
わたし、きっと、もう……
「ゼノ様……」
「……ナタリー?」
思わず名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
いけない。わたし、まだちゃんと気持ちを言葉にしてない。
それなのに、こんなふうに気持ちばかり膨らんでしまって――
そんなある日、ついに事件は起きた。
王都の舞踏会。
春の祝宴として催されるこの舞踏会に、わたしはゼノ様の「正式な補佐官」として参加することになった。
ドレスは、淡い桜色の絹。
エミーが張り切って用意してくれて、髪もお花みたいに飾ってくれて。
鏡の前でくるりとまわると、知らない誰かになったみたいで、少しだけど自信が持てた。
――でも、そのとき。
舞踏会の広間で、わたしは、最悪の再会をすることになる。
「ナタリー……?」
声をかけてきたのは、もう見る影もないほどやつれたラウルだった。
その姿は、わたしが知っていたラウルとは、まるで別人のようだった。
髪はぼさぼさで、衣服もくたびれていて、以前のような輝きはどこにもなかった。
目の下にはくまがあり、頬はやつれ、貴族らしい品格なんてかけらもない。
服は貴族らしいものだったけど、目の下にくまができて、髪も乱れていた。
周囲の貴族たちは、彼に目もくれず、遠巻きにしていた。
まるで、汚らわしいものを見るように。
「お願いだ、話だけでも……!」
「……申し訳ありませんが、あなたとお話することは、ありません」
わたしは、背筋をぴんと伸ばして、ゼノ様のもとへ戻ろうとした。
でも、その背に、あの情けない声が響く。
「ごめんっ、ナタリー……ぼくが、間違ってた。君のこと、馬鹿にして、手放したのは……人生最大の失敗だった……!」
会場が、静まり返った。
人々の視線が、一斉にわたしたちへ向けられる。
わたしは、ゆっくりと振り返って、彼の前に立った。
「お、おねがいだ……ナタリー、もう一度だけ……!」
だけど、わたしはその姿を見下ろしても、何も感じなかった。
可哀想とか、悲しいとか、後悔とか――なにも。
それよりも。
今、わたしのすぐそばにいてくれるゼノ様のほうが、ずっとずっと大切だった。
「……ゼノ様、行きましょう。私、あなたと踊りたいんです」
「もちろんだ、ナタリー。君の願いなら、なんだって叶えよう」
そして、わたしたちは手を取り合い、華やかな音楽の中へと溶け込んでいった。
ラウルの姿は、もう――振り返らなかった。
ゼノ様と手を取り合って、舞踏会の中央へ歩いていく。
周囲の視線を感じて、胸がどきどきしてるけど……もう、怖くなかった。
隣にいるのが、ゼノ様だから。
わたしは、ちゃんと前を向いている。
「……ナタリー?」
くるり、とゼノ様がやさしくわたしを回転させる。
広間いっぱいに響く音楽と、たくさんの花の香り。
照明の光が、きらきらと床に反射して、まるで夢の中みたいだった。
「さっきは……とても、かっこよかったよ」
「ふふ……そう言ってもらえると、少しだけ救われます」
「君が前を向いて進む姿を見るたびに、私は、惹かれずにはいられなかった」
「えっ……?」
わたしの足が、一瞬、止まりそうになる。
でも、ゼノ様はそっと腰を支えて、やさしく踊りのリズムに戻してくれた。
「君は、自分では気づいていないかもしれない。でも――誰よりも強く、誰よりも美しい女性だ。私は……そんな君を、ずっと見ていたんだ」
「ゼノ様……」
耳が熱い。顔も、心も。
どうしてこんなに、胸が苦しいのに、嬉しいんだろう。
今にも泣きそうなのに、笑ってしまいそう。
「わたし……ずっと、自信がなかったんです」
「……うん」
「ラウルにふられて、自分には価値がないって思って……」
「そんなことは、ない。絶対にない。彼が愚かだっただけだ。君の価値を、見ようともしなかった」
「……ゼノ様は、違った」
「君の瞳を見た瞬間に、わかったんだ。……この人は、どんな嵐にも耐え抜けるひとだって」
「……ゼノ様……っ」
目元がにじんで、涙があふれてきそうだった。
どうしてだろう。こんなにも嬉しいのに、泣きたくなる。
言葉にならないほど、心がいっぱいで――
「ナタリー。私は、君が好きだ。誰よりも大切に思っている。だから……」
ふっと音楽が止まって、広間が静かになった。
その一瞬の静寂のなかで、ゼノ様の声だけが、まっすぐに響いた。
「私と結婚してほしい。……君の人生を、これからは私が共に生きたいんだ」
……時が、止まったようだった。
まわりの世界が遠ざかって、ゼノ様の言葉だけが、胸に深く深く響いた。
「……わたしで、いいんですか?」
それが、やっと絞り出したわたしの答えだった。
怖くて、不安で、でも心の奥でずっと願っていた言葉。
「君がいいんだ。君でなきゃ、だめなんだ」
ゼノ様の目は、まっすぐで、真剣で――でも、やさしかった。
この人なら、信じてもいいって、思えた。
「……はい。わたし、ゼノ様と一緒に生きていきたいです」
涙がぽろぽろとあふれてくる。
だけど、不思議と悲しくはなかった。
むしろ、こんなにも幸せで、嬉しくて、温かい涙なんて、知らなかった。
ゼノ様がそっと、わたしを抱きしめてくれる。
その腕の中は、まるで春の陽だまりみたいに、あたたかかった。
「ありがとう、ナタリー。……絶対に、君を泣かせたりしない。君が笑っていられる未来を、私がつくる。約束するよ」
――そうして、わたしたちはふたりで歩き出す。
過去の痛みも、苦しみも、すべて抱きしめて。
でももう、振り返ることはない。
だってこれから先は、きっと笑顔が待っているから。
わたしの未来は、わたしのもの。
そして、その隣には、ゼノ様がいてくれるから。
――幸せな、誓いの夜だった。
舞踏会が終わりに近づいたころ、ざわめきが広間の隅から広がってきた。
ふと、私はその方へ視線を向けて――思わず、目を見開いた。
「……え?」
そこにいたのは、先ほどのラウルだった。
「ナタリー……! ナタリーッ!」
彼はよろよろと、広間の中をかきわけるようにして、私の方へやってきた。
まわりの人たちが驚き、少し距離を取るのがわかった。
ゼノ様がさっと私の前に出たけれど、私はそっとその手を取って、一歩前に出た。
「ラウル……」
自分でも驚くくらい、落ち着いて言葉が出た。
胸は静かで、波一つ立たない水面のようだった。
「ナ、ナタリー……お願いだ、助けてくれ……!」
彼は、その場に崩れ落ちるようにして、私の前にひざをついた。
まわりの空気が凍りつく。
貴族が、公衆の面前で土下座するなんて、前代未聞だ。
「僕は……僕は、おまえにひどいことをした! わかってる! だから、だからっ……!」
「何が“だから”なの?」
わたしの声は、小さかったけど……不思議と、広間中に響いた。
ラウルがはっと顔をあげて、私を見上げる。
「あなたが私を捨てたとき、私は、世界が終わったように感じた。……でも、終わってなんかなかった。そこから始まったの。私の人生が」
「ナタリー……違うんだ、あのときは、母さんが……」
「お母様のせいにするの? 自分の判断を?」
ぴしゃりとした声が、自分のものとは思えないくらい強かった。
けど、ちゃんと伝えなきゃって思った。
これは、過去のわたしへのけじめだから。
「あなたは、華やかさがないからって私を捨てた。努力や誠実さより、飾りを選んだの。……それが、あなたの選択だった」
「ち、違う……! 僕は、ただ……! 僕には、君が必要なんだ……っ!」
「必要だったのは、あなたじゃない」
私はそっと振り返って、ゼノ様の方を見た。
そこにいる彼は、静かにうなずいてくれた。
あのときも今も、私の選択を信じてくれている。
「ゼノ様がいてくれた。私の価値を、見つけてくれた」
「そ、そんな……なんで僕が……っ」
「あなたが捨てたのは、私じゃない」
そう言った瞬間、あの言葉が自然と口からこぼれた。
「――あなたが捨てたのは、“未来”だったのよ」
ラウルの顔が青ざめた。
そのまま、彼は小さく震えながら、床に崩れ落ちたまま何も言えなくなっていた。
まるで、彼の人生が音を立てて崩れていくのを、目の前で見ているようだった。
「さあ、ナタリー。もう、行こう」
ゼノ様の声が、私の心に優しく響いた。
「……はい」
私はゼノ様の手を取り、広間を後にした。
もう、過去に縛られることはない。
これが、わたしの最後の“けじめ”。
そして、わたしの人生は――ここから、本当に始まるのだから。
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