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第19話 第一部 18・陸上もけっこう面白い……かな?
しおりを挟む丹野の婆さんはどんな時でも手を抜かずに弁当を作ってくれる。ほぼ毎週のように試合や練習があるのに、朝食の時までには必ず弁当ができあがっている。焼き魚と出汁巻き卵が必ず入った弁当は、そのまま花見にさえ持っていけそうな内容だ。スポーツの大会に持ってくる弁当としてはどうなのかはわからないが、決して手を抜くことなく上品な弁当を毎回作ってくれている。こんなふうに弁当を作ってくれる下宿は他にあるはずもなく、祖父が見つけてくれたこの下宿は、いや、丹野さんは僕には恵まれすぎた下宿先なのかもしれない。
多分京風とでも言えばいいのだろう薄味にもだいぶ慣れてきた。
「来週は? 試合ですか? 練習ですか?」
丹野のばあさんは、一週間前には必ずそう確認してカレンダーに印をつける。かといって、試合の結果などは全く聞くつもりはないようだ。ちょっと気が引けてしまう汚れたユニフォームの洗濯でさえ、いやな顔を見せることは一度もなかった。今は苫小牧に住んでいるという、アイスホッケー選手だった息子さんが高校生だった頃を思い出しているのかもしれない。
たっぷりな量の弁当を完食した後でサブトラックに出てみると、砲丸のサークルで清嶺高校の高松菜々子さんが砲丸を持たずに投げの構えをチェックしていた。もうすぐ女子砲丸投げの決勝が始まる時間だ。午前中の予選では1投目で通過したが、集中できない部分があるのだという。予選記録は8mに設定されている中、高松さんは10m67の投擲で全体1位通過しているはずだ。女子砲丸投げの後が八種競技の砲丸の順になっているので、高松さんの投擲をじっくり見学できそうだ。
「そうだ、ちょっとお願い、もう少し下がって目印になってくれない。サークルの後ろの方、そう、もう少し後ろ」
「ここら辺ですか?」
「そう、そのへん。動かないでいて」
高松さんは投げの瞬間まで僕の方を向いたまま、グライドから突き出しまでの動きを何回か繰り返した。左肩と顔を最後までしっかりと残して、突き出しの瞬間まで直線的に前に進んでいた。
「うん、よかった。いい感じ! なんかいい時に来てくれたね。うまく残せるようになった」
「はい。顔残ってたし、開きがなくなりましたよ」
「えっ、わかるの?」
「野球と似てんですよ。左手で体の開きを抑えるっていう投げの時の動きがそっくりです。」
「そう!おかげで今日は勝てる!」
「女子の次が、八種だから、見てますから。頑張ってください」
「勝てたらなんかおごってね!」
「はい、練習でお世話になりましたから、そのうち……」
「ウソウソウソ。そんなことしたら皆に八つ裂きにされちゃうよ!」
「はい?」
「いや、いいのいいの。しっかり応援してよ」
「分かりました。新記録出してください」
高松さんは12m56㎝を投げて優勝した。彼女の他に10m台を投げた人は1人しかいなかったのだからダントツの楽勝は分かっていたのに、最後の6投目までしっかり左肩を残し顔を残し、最後のスナップの瞬間まで集中力を切らすことはなかった。高松さんが見ているものは他の人達とは違っていたのだ。
34度の角度に開いた計測エリアの外側に置かれた傾斜のあるレールの上を砲丸が転がって戻ってきた。試合が始まった。試技順7番目に名前を呼ばれ、外側半分の位置に引かれた白線の後ろからゆっくりとサークルに入った。
自分の打順にあわせてベンチ裏で素振りをしたり、ネクストバッターズサークルに片膝着いて待っていたりする野球部時代を思い出した。サークルの1番後ろに右足のつま先をあわせ、右手の中指の付け根に砲丸の重心を乗せた。人差し指と中指の3本で支える。親指と小指には力を入れずに添えるだけにする。左手で鉄球の表面をひと撫でした後、しっかりとあごの下に構えた。左腕を右膝にまで下ろして左足を後ろへ大きく踏み出した。右膝にためた力を一気に左に移しながら投げの構えをつくり、左腕を強く引きつけて右腕を前方高くに突きだした。
砲丸の重さを手のひらで受け止める前に小指側が先に前に出てしまったようで、中指に重心のあった鉄球は人差し指に滑り、スライダーを投げた時のような角度で手首が曲がってしまった。低い角度で放たれた鉄球は、力なくボスッと芝の上に落ちて少しだけ転がり、右側のファールラインに沿って止まった。力が砲丸に伝わりきらない投げになってしまった。
「9メートル、16センチ」と計測員がつまらなそうに声を上げ、女性の記録員が復唱した。スローカーブを待ちきれずにボールが来る前にバットを振ってしまった時のように、力を伝えきれなかった歯がゆさが残った。投げよう投げようという気持ちが強すぎて体が突っ込んでしまったかもしれない。
高松さんがサブトラックで僕を目印にしてチェックしていたことは、左肩を開かないことと顔を残すことだった。野球と同じだって自分で納得したはずだった。
さっきまでここで投げていた高松さんのイメージを追った。2投目はそれをやってみることにする。何か目印になるものをと探していると、最終コーナーの向こうに観客席の通路の切れ目が見えていた。コンクリートの上に鉄製の手すりが付いていてちょうど正面の位置で階段へと折れ曲がっている。少し遠いけれどもいいかもしれない。
「634番、野田君」
女性の記録員の声が僕を呼んだ。各校の顧問の先生たちはそれぞれ競技役員も兼ねていて、沼田先生はこれから始まるやり投げの判定員をすることになっている。きっとこの人もどこかの高校の先生なのだろう。
「はいっ!」
「おしっ!」
野球部式に今までの誰よりも大きな声で返事をすると、計測係をしているかなり年配の役員がそれに呼応して笑顔を作った。この人が高校の先生でないだろうことは想像できた。年を取りすぎている。きっと、若い頃には自分も選手としてならした方達なのだろう。
自分の若い頃の記憶や楽しみを僕たち高校生の競技する姿と重ねているのかもしれない。同じような年配の審判員の方がそれぞれの競技に必ずいた。野球の試合とは違って、陸上競技大会を開催するためには非常に多くの競技役員の方々や補助員が必要になってくる。しかも役員の方々は皆、公認審判としての資格を持っている方々なのだ。大会は必ず休日をつぶしてしまうことになるのだが、公認審判員の資格を持つ人は多くないために、いろいろな年代の大会のたびにこうやって協力してくれているのは、ほとんどが同じ人たちなのだという。
右足のつま先をサークルの1番後ろの位置に合わせて、真っ直ぐに立った。頭上に挙げた右手には6㎏の砲丸がおさまっている。肘を真っ直ぐにして支えてやると、ほとんど重さは感じなくなった。そのまま、正面の手すりと階段の付け根を見つめた。移動していく選手が視界に入ることもあるがそんなことは気にならない。
1点だけに意識を集中させ、砲丸をあごの下に構え、左足を後ろに大きく上げた。右足1本でバランスを取り、左足の膝を曲げ前方に小さく丸まってしまうように右膝を深く折った。少しだけ腰を後方に移動させ、わざとバランスを崩す直前までもっていき、後ろに倒れてしまう寸前に左足をすばやくステップした。膝を曲げたままの右足の角度をそのまま維持し、左足は身体の真後ろより少しだけ左に着地させる。投げの形ができた。ここから一気に体重移動をして右腕にエネルギーを移動させる。その間もずっとポールの付け根から目を離さない。左腕も後ろに残しておいた。右膝にたまった力を一気に解放し、左足にしっかりと重心を移す。左肘から肩を大きく回して、右腕の砲丸を目の高さまで引き上げて手首のスナップをきかせながら放りだした。左右の脚を入れ替え、右足でサークルの足止めを内側から蹴った。右腕のフォロースルーがきれいに決まった。センターからのバックホームがワンバウンドでキャッチャーまで届いたイメージだった。
1投目よりかなり高いところを6㎏の鉄球は飛行し、「ボフッ!」という音とともに芝生に囲まれたレンガ色の土の中にめり込んだ、と思う間もなく跳ね上がり、わずかだけ転がった。
「ジュウイチ メートル ジュウハチ!」
おじいちゃん計測員がうれしそうに叫んだ。
「11メートル18センチ」
机に向かって座った女性の先生が復唱して記録した。周りの選手達から小さな声が上がった。ここまでで3番目あたりの記録だった。
高松さんの投げが頭の中にしっかりイメージされたまま始まったおかげで、11mを超える記録を出すことができた。八種競技参加者全体の中で11mを超えたのは僕を入れて3人だけで、札幌第四の3年生が11m25㎝、中川健太郎に嫌われている喜多満男が11m80㎝を投げた。喜多満男は、3投の間に頻繁に話しかけてきた。自分の得意種目である砲丸でプレッシャーをかけておきたかったのだろう。あの厚い胸板は本物だった。そして健太郎が嫌っているわけも理解できた。
三投目はパスした。沼田先生のアドバイスをここで実施することにしたのだ。芝生に横になって全員が終わるのを待った。
曇りがちだった空が今は快晴になりつつある。スタンドで楕円形に切り取られた空を見ていると、いろんな音が聞こえてきた。スパイクが踏み切り板をたたく音。舞い上がる砂が見えてくるような着地の音。計測係が記録を読み上げる声。ピストルの号砲。観客席のざわめきと声援。そして走者の呼吸……。
いろいろな種目がこの楕円形のあちこちで同時に進行している競技場には、なにかに向かって収束していく音の流れがあった。盛り上がりも静寂も、トラックを蹴るスパイクの音も、喘ぎ声やため息さえもが生き物のように近づいて来ては……遠ざかっていく。
たった1つの白球に、全員の目が一斉に注がれる野球場の持つ臨場感と楽しさ……。
それとはまた違った楽しさや、美しさや、何かに操られたような空気の流れ。
いや、それは選手たちの気持ち……なのかもしれない。
ここ厚別競技場の中には、そんなエネルギーがあちこちに溢れていた。これが陸上競技の「面白さ」なのかもしれない。野田賢治は初めてそんな風に思いながら、これからこなさなければならない種目について考え始めた。
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