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第36話 第二部 7・試練の連鎖(その二)
しおりを挟む北海道大会 第3日目
七種競技の走り幅跳びが10時から始まった。昨日の乗り切れない調子を何とか挽回したかった菊池美咲はいつもより少し早くからアップをはじめ、顔見知りの出場者とたくさん話をすることにした。旭川以外の出場者にも何人か共に戦ってきた人たちはいる。他校の監督さんや競技役員さんたちにも敢えて歩き回って挨拶を多くした。
この大会ではいろいろと自分のことを考え過ぎた。いつもと同じ状態で競技に向かえていないのは、自分の心がいつもどおりにはたらいていないから。それは十分すぎるほど分かっていた。今日は、この通いなれた旭川花咲陸上競技場で自分の三年間の総まとめがなされる日だ。なんとなく始めてしまってはいけないと考えたのだ。いつも以上に時間をかけゆっくりとウォーミングアップした後に、一本だけ全力で助走を走ってみた。踏切版への足合わせだけで踏み切ることなく砂場を駆け抜けた。
昨日男子の走り幅跳びで、南ヶ丘の大迫という選手が大怪我をした話は聞いていた。彼はこの種目で去年の高校総体全国大会へ出場していたことも知っていた。踏み切り板と助走路のゴムとの段差なんてほとんど存在しないんだけれども、踵に滑り止めの溝パターンをつけた走り幅跳び用のスパイクだと、踵の角度によってはビタッと止まってしまうことはある。昔の土の助走路だった頃には試合の進行が後半になると踏み切り板の手前が掘れてしまうことがあるんだと聞いたこともあった。でも、どちらにしたって普段通りの踏切角度でいけば「踵がはまってしまう」なんてことはありえないはずだった。とはいっても、優勝候補の一人でもある彼は技術的にも優れていたはずだ。そして、これは昨日現実のものとしてこの場所で起こったことなのだ。
菊池美咲は何時もと同じ長さの助走距離にマークを入れて中間地点のマークもいつも通りとして助走を走ってみた。踏切も高く跳び出すことよりも走り抜ける感覚を大事にして走ってみたのだ。だいじょうぶ。いつもの感覚と変わりはなかった。
「いつも通り。何も特別なことなんかない。ここの助走路は今までに何百回も走って来たのだ。いつもと同じ感覚でいい!」
そう自分に言い聞かせて一本目の助走を開始した。風は無風状態。いつもより少し柔らかく感じる助走路はしっかりとスパイクのピンをとらえ体を自然に前へ前へと送ってくれた。ハードルの時と同じように右ひざから振り上げた脚を空中を歩く感覚で一回漕いでから着地姿勢に入る。前に伸ばした両足が砂場に着地すると同時に膝を曲げ体を前へと送った。砂場から出て振り返った時、監察員の白旗が上がった。
足に付いた砂を手では叩き落としながら天幕だけを張った待機場のあるスタート地点に戻る途中に「5m42㎝」という表示が掲示板に現れた。得点換算表に照らしてみると「677点」であることが分かった。目標の750点越えはならなかったが、もうパスすることにした。このまま続けることになんだか嫌な予感を覚えてしまったのだ。昨日からの乗れない部分を取り返そうと無理してしまうと思わぬことも起こりえるからだ。自己記録まではまだかなりの開きはあるけれど、ここは無理するところではない。
隠岐川駿は800m決勝を辞退した。昨日のケガはやはり簡単に治るものではなかったのだ。ところが彼は16継には出ると沼田先生に食い下がった。大迫勇也の怪我を目の当たりにしたばかりの沼田先生にとってはつらい全道大会になっていた。昨年から全道で注目されてきたエースを怪我で失ってすぐ、次のエースになるはずの隠岐川駿まで怪我をさせてしまった。しかも全力を出すなんてことは無理とわかっていながらリレーには出ると言い張っている。
隠岐川駿の性格を知っている部員たちには大きな驚きとなった。中学校の頃から仲間と一緒に何かすることよりも自分一人で楽しむことばかりを選んできた隠岐川なのに。仲間とつるむことを嫌い、むしろ一匹狼的な生き方をかっこいいと言い張っていた隠岐川だったのだ。
「800はむりでも、400なら何とか持たせて見せます」
「距離は半分だけど、そんなことしたら後々大きなリスクを背負い込むことになるかもしれないぞ。16継は補欠も二人登録されてるんだからな、ここで無理することないだろう。お前は来年もあるんだ……」
「先生、来年なんて、どうなるかわかんないっすよ。大迫さんがああなっちゃたんで先生方も大変だってことはよくわかりますよ。でも、俺は800決勝よりも16継でみんなと走りたいんです。こんな落ち込んだ雰囲気のまんまで札幌に帰るの嫌じゃないですか」
「だけどお前、現実の問題としてさ、走れるのか?」
「大丈夫です。新記録出せるとは言いません。でも、全力で行けます!」
初めて聞くことになった隠岐川駿の熱の入った話し方に沼田先生は覚悟を決めた。
「そうか。わかった。その代わり1走で行くぞ。アンカーは野田にする」
「そうすか。いいっすね。野田のアンカーはぴったりですよ。そして、俺は冷静に走れってことっすね」
「そうだ。但し、いいか前もって言っておくぞ、もし間違って予選突破してもな、お前の走り次第では替えるからな」
「もしじゃないっすよ先生。大丈夫、絶対準決行きますから。きっと、またノダケンがびっくりする走り見せてくれそうですよ。俺たちが出し尽くさなくっちゃ、その後の女子がかわいそうでしょ」
「お前、最近なんか変わったな」
「そうっすか。……それって、誰かの影響かもしれませんね」
そういう隠岐川駿は怪我で落ち込むどころか、むしろすっきりとした顔をしていた。
14時40分から始まった七種競技のやり投げは選手ごとの力の差がかなり大きかった。30mに届かない選手が何人もいるのだ。やり投げという競技が一般的に広がっていないことと、女子高生にとっては野球のように肩を回して物を投げる動作になじみがないことが原因だと考えられている。腕をいっぱいに後ろに伸ばして左足の踏ん張りと腰や肩の回転を調和させるという動きはなかなか短時間で身に付かないものらしい。
菊池美咲はこの種目3番目の記録で39m85㎝を投げ664点を獲得した。5000点突破を目指すにはこの種目で何とか得点を伸ばしたいところだった。16時45からの最終種目800mは得意種目の一つだったが、この点数では今回5000点突破は難しくなってしまった。それでもここまでの合計では4150点でトップとなった。全国大会への出場はほぼ確実になりほっとした気持ちが半分、うまく自分をコントロールできていなかったことに落胆したことが半分。でも、最後までしっかりやろう。ここで気持ちを切らしてはいけないと自分自身に強く言い聞かせて最終種目に向かって準備することにした。
15時25分からの1600mリレー予選に隠岐川駿が出場すると知り、南ヶ丘高校陸上部員は皆沼田先生の決断に疑問を持つことになった。800m決勝を欠場したのにそのすぐ後に行われる16継に出場させることの意味を理解できずにいた。
「それはね、あの隠岐川駿がね、南ヶ丘の陸上部で活動する中で生き方が変わって来たということじゃないのかな」
山口美優さんと一緒にやって来た上野先生の言葉だ。
「そうですね。隠岐川君も一匹狼じゃなくても良くなったって感じたんですね」
「さすがだね、ミス山口……」
上野先生がしばらくぶりに「ミス山口」と呼び始めた。
「隠岐川君も帰国子女として突っ張ってきたからねー。もうちゃんと南ヶ丘の中にどっぷりと浸かったってことだろうね。ミス山口にはよくわかるんでしょう、そのあたりのこと」
「そうですね、私は兄貴がいてくれたからまだたいして苦労してないんですけど、隠岐川君は一人っ子ですしね。弱み見せたくなかったでしょうね」
「ねー! そういうことなんだろうねー! やっぱミス山口、心理学者一直線だよー!」
16継が始まる時間になった。部員たちはみんなでトラックの周囲四か所に分散して応援体制を作った。スタンドの最前列には出場各校の応援団が鉄柵にびっしりと並んでいる。女子の16継メンバーは集合場所から声援を送る準備をしている。
一番外側のレーンからスタートを切った一走の隠岐川駿は、力をセーブしているような走りに見えていながらスピードに乗ったきれいな走りをしている。200mが過ぎてもその走りは変わらず、見ている誰もが怪我をしていることを疑ってしまうような動きをしている。これは大丈夫なのかもしれない、いつもと同じでここからまた一つギアが上がるだろうと思っていた。第三コーナーから四コーナーにかけてのカーブを周る彼の姿を見た沼田先生と上野先生はほぼ同時に顔をしかめた。カーブで左足に大きな力がかかり始めると彼は足をほんの少し引きずり始めた。普段の彼の走りを見ていない人にはわかりづらい程度だったが、二人にはすぐにそれが分かってしまった。直線に出た時に隠岐川駿の走りは全く違うものになっていた。もうすでにここまでが限界であることが感じられた。顔がゆがんでいる。腕の振りが必要以上に大きくなった。足が動かない分上半身でカバーしようとし始めたのだ。天才隠岐川駿らしくないバランスの悪い走りになってしまった。
「山野!! 一番後ろまで行け! バトンもらいに行け!」
珍しく沼田先生が競技中に大声で指示を出した。
完全に後ろ向きでバトンを待っている山野憲輔が両手で大事にバトンを抱えて走りだした途端、隠岐川駿はその場に倒れこんだ。昨日とは反対に一番外側のレーンに腹ばいで倒れた彼は左足を曲げて両手で抱え込んでいた。
バトンは3番目くらいで渡り山野憲輔が全力で前を追った。第二コーナーでオープンになると南ヶ丘を含めて4校で三番手争いになっていた。先頭とはたいして差がなく持ちタイムも拮抗している選手が多いようだ。コーナーを回る山野憲輔はさっき隠岐川駿が苦しみ始めたあたりから逆に力を全開にした。ペース配分をしっかりと考えた頭脳的な走りだった。三走の工藤純基にバトンが渡った時にはやはり三番手のままだったが、持ちタイムの一番いい二校に続き4番手を5mほど離して走り切った。
走り終わった山野憲輔さんは僕に満足そうな表情を見せた。走り終わった後の彼がこんな表情をしたことはなかった。
工藤純基は全市大会で自分のタイムを大きく伸ばし、自信をもってこの大会に臨んでいた。それでもやはり全道大会の上位校とは個人の持ちタイムにかなりの開きがあった。各組上位二校のタイムは南ヶ丘よりも2秒から3秒も速いのだ。上位二校の三走はいずれも40秒台の記録を持っている。札幌圏よりもむしろ函館地区や室蘭地区などはリレーに力を入れている私立校がたくさんあるのだ。
全力を出し切ることだけを考えていた南ヶ丘のメンバーはあまり順位を気にせずにいたのだが、大迫勇也と隠岐川駿の怪我もあって、期待していた結果を目にできていない仲間を意識し始めていた。何としても自分たちの足跡を残していきたかった。隠岐川駿の走りがさらにそれに油を注いだ。
工藤純基さんは上位二校に離されながらもしっかりと三番手の順位を守り切った。この予選は三着+3で準決に進める。この位置をキープすれば準決だ。僕はまたまたアンカーに指名されてしまい、全市大会以上の重圧の中にいた。大迫さんが抜けてしまい全く結果を残してきていない南ヶ丘高校最後のチャンスなのだ。しかもここで準決に行けなかったら、無理して出場した隠岐川さんの気持ちが台無しになってしまう。16継で決勝まで進むのは力の差がありすぎるので誰もそこまでは望んでいないにしても、何とか準決まで進んで南ヶ丘高校陸上部の名前を残したかった。
一着を争っている室蘭と函館の高校までは10mほどの差が開いていた。4位以下はほとんど一線と言ってよいほどで南ヶ丘とは3mほどの差。しかしこの差は400mでは無いに等しかった。
隠岐川さんに代わるアンカーとして大きな責任感とともに待っていた野田賢治は、バトンとー緒に後ろの高校がー気に押し寄せてくるような気がした。やはり必要以上に気負ってしまっていたかもしれなかった。いつもなら両手で確実に受け取っていたバトンを半身になりながら片手で受け取ろうとしてしまった。
ここまでにすべての力を出し切っていた工藤純基がいっぱいに伸ばしたバトンは大きく揺れ、先を急ごうとすることだけしか考えられなかった野田賢治の手からバトンが落ちた。
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