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第55話 第三部 3・春が来た!
しおりを挟む5月。春季記録会の円山競技場には去年と同じで春の風がみんなを待っていてくれた。陽射しがなくなるとすぐに寒ささえ感じるこの時期の風は邪魔者でしかない。しかしながら、5月の札幌はこんな風から逃れられる日は少ない。
200mに山野紗季がエントリーした。上野先生に提案された「七種競技への挑戦」がこの冬の間に彼女の中で熟成していたのかもしれない。ただ一人26秒を切る25秒98を出して優勝した。12秒台の100mのスピードに16継で経験した400mの持久力をも獲得しつつあるようで、上野先生と沼田先生は自分たちの方向性の正しさを感じていた。冬季間のバドミントンやハンドボールといった「他種目」の経験がただ速く走るだけではない「プラスの力=余裕の蓄積」となって結果に結びついているようだ。そしてもちろん彼女の持つ天才的な理解力や適応力が発揮されたからに違いない。
川相智子の100mは13秒5まで向上した。冬季練習のバスケットボールではレイアップシュートをきれいな流れで決められるようになった。シャトルランにも似たバスケの攻守の切り替えは、妹と違って一歩を踏み出すまでに考えすぎてしまう弱さや、瞬時の迷いを消し始めていた。100mに現れたタイムの向上以上に彼女は大きな変化を獲得したようだった。
坪内航平と樋渡貴大の100mは、それぞれ11秒3と11秒4のタイムで2組ある決勝へと進出した。上位との差はまだ大きいが出場選手が多いこの地区で決勝まで進出するのは難しいことなのだ。
サッカーを経験した健太郎はボールを追いかけることに楽しさを感じた。ゴールを決めることでもパスをつなぐことでもなく、ただ単に行ったり来たりするボールを追いかけること自体に夢中になった。敵も味方もなくどこにでも顔を出しいつまでもボールを追いかける。全くゲームの行方とは関係なくボールに向かって走り続ける健太郎の姿は、サッカーの試合中にドッグランと勘違いして紛れ込んでしまった大型犬のようだった。周りの選手たちは邪魔にしかなっていないことに呆れていても、健太郎には楽しい楽しい時間になっていた。そして誰よりも長い時間走り続けた健太郎のスプリント力も覚醒したようだ。
800mに初めて出場した彼の走りはラップタイムを意識していた頃とは違うものになった。400mを62秒と63秒で走り切る健太郎の腕や肩の可動範囲は去年までとは別人を思わせ、力強ささえ感じさせた。
野田タクの100mは13秒4まで向上した。ようやく川相智子に勝てるくらいだがタクにしては力強い走りになっていた。バスケのランニングシュートで踏切の強さに変化が現れたと自分では感じていた。そして念願のダンクシュートはまだできなかったが、両足踏切からバスケットリングにぶら下がることはできるようになった。ただそれは顧問の髙橋先生に固く禁じられた。ここのバスケゴールは古い規格でプロの使うゴールとは違うので、ぶら下がると壊れてしまうのだという。今はもう高校生でもダンクシュートは珍しくない。ゴールにぶら下がるのもパフォーマンスではなく、着地を安全にするためでもあるが、ここを会場にするときは「ダンク禁止」のローカルルールでお願いするのだという。でももしかすると50㎏台のタクの体重ぐらいなら問題ないのかも知れなかったのだが。
ノダケンは隠岐川駿がオランダに行ってしまう昨秋までずっと彼と一緒に400mのトレーニングを続けていた。そこで隠岐川駿の走りを目に焼き付けようとしていた。力強さが特徴のノダケンに隠岐川駿の走りが結びついたら大変なことになってしまうとみんなは思っていた。けれどもそれは正反対のもの同士が合体することなので、実現するはずはないのだ。そう思うことで周りのみんなは納得し安心していたのだ。自転車競技とスケートで育ってきた隠岐川駿の走りは滑らかで澱むことない脚の回転が特徴で、それは誰もまねできるようなものではなかった。力強くしかもスムーズに振り戻された足がすぐにペダルで前に送り出されるように、彼の走りには無駄になる動きが一切ない。いつも彼は見えないペダルをこいでいる。足が後ろに流れたり、大きく巻き込んでしまったりすることはない。運動力学の研究から最近になって推奨され始めた効率的な走りそのものだった。
昨秋の二人の練習は円山に練習に来る選手たちには有名になっていた。いや、選手たちだけでなく各校の監督の先生たちにも話題になっていた。
「バックストレートの直線は気持ちよく走れ」
隠岐川さんの言葉がいつも頭の中にある。彼は今も自分の前を走っている。あの柔らかな足の運びが見えている。いつでも隠岐川駿との練習を思い出し、あの人の姿を感じることができる。
3m前を走る隠岐川駿を必死になって追いかけた。カーブの頂点で一端追いつきそうなるのに、出口でまた離されてしまう。そうして、ラストの直線では3mが5mへと差が広がってゴール地点に戻ってきた。何回やっても勝てなかった。しゃがみ込む僕を見る隠岐川さんの呼吸はあまり乱れていない。
「ポイントつかめよ!」
「……」
「あのさー、車でも自転車でもさー、カーブの入り口はスピード上げられないものなの!」
「……」
「お前はさー、カーブの入り口で抜こうとするからバテるんだって。いいか、スローイン、ファストアウト。覚えとけ!」
隠岐川駿は天才だ。そう思うほかなかった。こんなにきつい練習を顔色一つ変えずにこなしている。パワーとスタミナには自信を持っていた自分が、全くついて行けない。何度やっても勝てない。そんな隠岐川駿の底知れぬタフさに驚かされる毎日だった
1600mリレーの補欠出場をきっかけに、400mを走ることが多くなり、それ以来ずっと隠岐川と一緒に練習してきた。どんなに本気で競っても、隠岐川の軽い走りに楽々かわされてしまう。先行されるともう最後まで追いつけないで終わる。毎日毎日何度やっても追いつくことができなかった。100mのタイムは自分の方が上だった。200mだって二人とも計ったことはないのだが、やっぱり自分の方が上に違いない。だが、それ以上の距離になるともうダメなのだ。もう勝てなくなる。隠岐川は100mだろうと200mだろうと400mであろうと、その軽い走りに変わりはないのだ。スピードだって変わらずに走っているように感じる。
隠岐川の走りから力強さは感じられない。野田は力感全快で走っている。二人の走りは対照的で見てる者には面白すぎる。
「ノダケンは本物になるね。すごいことになるよ! ちゃんと育てなきゃダメだからね」
上野先生がダンナの沼田先生に向かって言う。
「隠岐川に勝つかも知れないな。でも、やっぱ、隠岐川っていつもと同じでさー、本気かどうかわかりにくいよな」
言葉にだすことはないが、本当は上野先生以上に生徒のことを気にしている沼田先生は、ひとりひとりの適性を見抜く力には定評があった。それでも、この二人の本当の力がどこまでなのかは掴みかねていた。
「天才隠岐川駿を本気にさせたんだよ、ノダケンが」
上野先生は自分の学校の生徒のように喜んでいる。
「でもな、隠岐川は自転車に行ってしまうから、陸上続けないだろうな」
「あーそっかー、オランダに戻っちゃうんだもんね」
「自転車ってよ、そんなにおもしろいのかね-」
「賞金レースなんでしょ」
「プロってことか?」
「たぶん」
「モモの太さとか、あいつまだたいしたことないのにな」
「冬にスケートしてるからねあの国」
「隠岐川もさ。冬はスケートの試合にも出てる。1500mとか3000mとか出てるぞ」
「やっぱねー、そりゃ、400m強いわけだよね-」
ノダケンの走りは無駄だらけだった。力で押し切ってしまう走りだった。隠岐川駿の走りがエネルギー効率95%だとするとノダケンのそれは60%にも満たないかもしれなかった。だが今年になって、そんな彼の走りが変わったのかもしれない。それはもちろん隠岐川駿の走りを追いかけ続けたこともあるだろうし、バレーボールの空中での間の取り方やハンドボールのフェイントの入れ方に影響されたものかも知れなかった。
スタートを切ったノダケンには期待された力強さが感じられなかった。シーズンの始まりでまだ調整できていないのか怪我を恐れて力をセーブしているのか。北海道大会のリレーで見せた去年の走りが印象的だっただけに見ているものはそう思ったに違いない。ところがどんどんスピードは上がっていき最後までそれは落ちることもせず余裕をもってゴールを通過した。上下動の少ないスムーズな足の運びが力感を感じさせずともタイムに結びついていた。49秒9という記録以上に余裕のあるその走りに生徒達も関係者たちも皆驚きを隠せなかった。
高体連陸上専門委員で大会委員長として忙しそうに走り回っていた田上先生が、沼田先生と上野先生が話しているところへわざわざやって来た。
「いやー沼田さん、すごいっしょ! っていうか、益々すごくなってるねあの子。去年さ、隠岐川君すごいって言ってたけど、超えたね! これで隠岐川君もいたら南ケ丘凄いことになってたのにね。オランダじゃねー……」
「野田もまだ二年なのでこれからじっくり行きますから。またアドバイスよろしくお願いします」
「そうだもんね、まだ二年だもんね! いやいや、まいったねー。ほんとにてっぺん取らせないとね。去年のさ、旭川の菊池さんもさ、もうちょっとなんかできればね、勝てたんだよねー」
「田上先生、菊池さん岩教大に進んだんですよ!」
「はいはい、聞いてますよ。えらいよねー! 14校から推薦の話あったみたいだからね。本州の大学だったらさ、授業料タダにしたら一発だべ、みたいな感じで電話してきたらしいもんね。旭山高校の先生怒ってたんだわー。あっちでやったら潰されるかもしんないもんねー」
「岩教大まだ片桐先生現役ですからね。絶対伸びますよ。去年の全国総体の時だって上の二人より菊池さんの方が断然伸びしろありましたもんね。これからって感じしますよ。だから逆に考えると旭山高校でのんびりやって来てよかったと思うんですよ、かえって」
「おー、さすが上野の悦ちゃん、養護教諭のお姉さんらしい視点だねー。あれっ、まだ上野先生でよかったのかな? 沼田悦子には変えてなかったよね?」
「はははははっ。はい、まだダイジョブですよ。あのー、菊池さんも野田君もこれからの伸びしろいっぱい持ってますからほんと楽しみですよ!」
「片桐大先生と上野悦子お姉さんの太鼓判って強烈だよね沼田さん! いいねー!」
「はい、……そうっすね……」
高体連札幌大会を一月後に控え、南ヶ丘高校陸上部は好スタートを切った。
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