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第一部 運命
知らない笑顔
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小学校に上がる頃には、二人はもう“セット”だった。
名門私立一貫校の初等部。
広い芝生の校庭。
白いシャツに整えられたネクタイ。
入学式の日、二人が並んで立つだけで、周囲は自然と距離を取る。
天城家と九条家。
運命の番。
幼い頃から有名な存在。
誰もが知っている。
近づきすぎてはいけない、と。
けれど、子どもは時々、大人の空気を無視する。
四月の終わり。
図工の時間。
二人は別々の席に座っていた。
初めての“別々”。
教師の配慮だった。
「自立を促すため」と、穏やかに説明された。
陽臣は反論しなかった。
ただ、「わかりました」と頷いた。
月那は、少しだけ不安そうに陽臣を見る。
陽臣は微笑む。
「だいじょうぶ」
それで月那は安心する。
月那は、自分の隣にいる。
それは疑う必要のないことだった。
――当然だ。
陽臣は、そう思っていた。
絵の具の匂い。
水のはねる音。
子どもたちの笑い声。
月那の隣の席には、初等部から編入してきた少年が座っていた。
黒髪。
人懐こい笑顔。
「それ、きれいだね」
少年が言う。
月那の描いていたのは、夜明けの空だった。
青と薄紫の境目。
「ほんと?」
月那が顔を上げる。
少年が、迷いなく頷く。
「うん。ぼく、こんな色つくれない」
その言葉に。
月那は、笑った。
柔らかく。
無防備に。
陽臣に向けるのと、同じ笑顔で。
その瞬間。
陽臣の筆が止まった。
水彩が、紙の上で滲む。
胸の奥が、ざわつく。
怒っていない。
悲しくもない。
ただ。
――違う。
何かが、違う。
月那は、いつも自分の隣にいる。
そうやって、生きてきた。
なのに。
あの笑顔は。
どうして、他の誰かに向けられている?
「ねえ、るな」
少年が、月那の手を引いた。
「いっしょに描こ?」
その指先が、月那の手首に触れる。
軽い接触。
ただの、子ども同士の距離。
陽臣の喉が、ひどく乾いた。
立ち上がる。
歩く。
自然な足取りで。
月那の机の横に立つ。
「るな」
声は穏やかだ。
けれど、月那は振り向いた瞬間、わずかに息を止めた。
陽臣の目が、笑っていない。
「どうしたの?」
無邪気な声。
陽臣は、少年を見る。
悪意はない。
だからこそ、厄介だ。
「るな、えのぐ、こぼれそう」
月那の手元を見る。
こぼれそうではない。
けれど、月那は慌てて筆を持ち直す。
「ほんとだ」
少年が、少しだけ手を離す。
その一瞬で。
陽臣は、月那の椅子を自分の方へ、ほんの少しだけ引き寄せた。
誰にも気づかれない距離。
けれど、十分だった。
「ぼく、るなのとなり、すわってもいい?」
教師は離れた場所で他の子を見ている。
月那は、嬉しそうに頷く。
「うん」
少年は、何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言ってはいけないと、本能的に感じた。
空気が、変わっていた。
帰り道。
月那は楽しそうに話す。
「きょうね、あたらしいともだちができたの」
陽臣は、笑顔で聞いている。
「へえ」
「えがじょうずっていってくれた」
「そっか」
声は優しい。
いつも通り。
けれど。
胸の奥のざわつきは、消えない。
あの笑顔。
あの距離。
あの、触れ方。
思い出すたびに、息が浅くなる。
月那が、陽臣を見上げる。
「はるくん?」
「なに?」
「なんか、きょう、こわいかおしてたよ」
一瞬。
陽臣の足が止まる。
すぐに、笑う。
完璧な笑顔。
「まもってただけ」
「なにを?」
本気で分からない顔。
陽臣は、少し考えて。
「るなが、さびしくならないように」
月那は、納得したように頷く。
「そっか」
疑わない。
問い詰めない。
その無防備さが、陽臣を安堵させる。
同時に。
決めさせる。
怒らない。
怒鳴らない。
奪わない。
ただ。
環境を整えればいい。
自然に。
誰も傷つけずに。
そうすれば、月那は自分の隣にいる。
守る、では足りない。
“囲う”。
それがいちばん静かな方法だと、知った。
夜。
ベッドの中。
月那はすぐに眠った。
陽臣は、天井を見つめる。
初めて知った感覚。
奪われるかもしれない、という想像。
その想像は、不快で。
そして、恐ろしい。
「るなは、ぼくの」
小さく、繰り返す。
今度は確認ではない。
誓いだった。
その言葉の奥に、ほんの一瞬。
崩れ落ちる城の影。
炎の匂い。
割れて堕ちる月。
遠い残滓。
けれど次の瞬間には、消える。
まだ、思い出さなくていい。
まだ、世界は壊れていない。
けれど。
この日。
陽臣の中で、何かが静かに固定された。
愛ではなく。
恐怖から生まれた、選択として。
名門私立一貫校の初等部。
広い芝生の校庭。
白いシャツに整えられたネクタイ。
入学式の日、二人が並んで立つだけで、周囲は自然と距離を取る。
天城家と九条家。
運命の番。
幼い頃から有名な存在。
誰もが知っている。
近づきすぎてはいけない、と。
けれど、子どもは時々、大人の空気を無視する。
四月の終わり。
図工の時間。
二人は別々の席に座っていた。
初めての“別々”。
教師の配慮だった。
「自立を促すため」と、穏やかに説明された。
陽臣は反論しなかった。
ただ、「わかりました」と頷いた。
月那は、少しだけ不安そうに陽臣を見る。
陽臣は微笑む。
「だいじょうぶ」
それで月那は安心する。
月那は、自分の隣にいる。
それは疑う必要のないことだった。
――当然だ。
陽臣は、そう思っていた。
絵の具の匂い。
水のはねる音。
子どもたちの笑い声。
月那の隣の席には、初等部から編入してきた少年が座っていた。
黒髪。
人懐こい笑顔。
「それ、きれいだね」
少年が言う。
月那の描いていたのは、夜明けの空だった。
青と薄紫の境目。
「ほんと?」
月那が顔を上げる。
少年が、迷いなく頷く。
「うん。ぼく、こんな色つくれない」
その言葉に。
月那は、笑った。
柔らかく。
無防備に。
陽臣に向けるのと、同じ笑顔で。
その瞬間。
陽臣の筆が止まった。
水彩が、紙の上で滲む。
胸の奥が、ざわつく。
怒っていない。
悲しくもない。
ただ。
――違う。
何かが、違う。
月那は、いつも自分の隣にいる。
そうやって、生きてきた。
なのに。
あの笑顔は。
どうして、他の誰かに向けられている?
「ねえ、るな」
少年が、月那の手を引いた。
「いっしょに描こ?」
その指先が、月那の手首に触れる。
軽い接触。
ただの、子ども同士の距離。
陽臣の喉が、ひどく乾いた。
立ち上がる。
歩く。
自然な足取りで。
月那の机の横に立つ。
「るな」
声は穏やかだ。
けれど、月那は振り向いた瞬間、わずかに息を止めた。
陽臣の目が、笑っていない。
「どうしたの?」
無邪気な声。
陽臣は、少年を見る。
悪意はない。
だからこそ、厄介だ。
「るな、えのぐ、こぼれそう」
月那の手元を見る。
こぼれそうではない。
けれど、月那は慌てて筆を持ち直す。
「ほんとだ」
少年が、少しだけ手を離す。
その一瞬で。
陽臣は、月那の椅子を自分の方へ、ほんの少しだけ引き寄せた。
誰にも気づかれない距離。
けれど、十分だった。
「ぼく、るなのとなり、すわってもいい?」
教師は離れた場所で他の子を見ている。
月那は、嬉しそうに頷く。
「うん」
少年は、何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言ってはいけないと、本能的に感じた。
空気が、変わっていた。
帰り道。
月那は楽しそうに話す。
「きょうね、あたらしいともだちができたの」
陽臣は、笑顔で聞いている。
「へえ」
「えがじょうずっていってくれた」
「そっか」
声は優しい。
いつも通り。
けれど。
胸の奥のざわつきは、消えない。
あの笑顔。
あの距離。
あの、触れ方。
思い出すたびに、息が浅くなる。
月那が、陽臣を見上げる。
「はるくん?」
「なに?」
「なんか、きょう、こわいかおしてたよ」
一瞬。
陽臣の足が止まる。
すぐに、笑う。
完璧な笑顔。
「まもってただけ」
「なにを?」
本気で分からない顔。
陽臣は、少し考えて。
「るなが、さびしくならないように」
月那は、納得したように頷く。
「そっか」
疑わない。
問い詰めない。
その無防備さが、陽臣を安堵させる。
同時に。
決めさせる。
怒らない。
怒鳴らない。
奪わない。
ただ。
環境を整えればいい。
自然に。
誰も傷つけずに。
そうすれば、月那は自分の隣にいる。
守る、では足りない。
“囲う”。
それがいちばん静かな方法だと、知った。
夜。
ベッドの中。
月那はすぐに眠った。
陽臣は、天井を見つめる。
初めて知った感覚。
奪われるかもしれない、という想像。
その想像は、不快で。
そして、恐ろしい。
「るなは、ぼくの」
小さく、繰り返す。
今度は確認ではない。
誓いだった。
その言葉の奥に、ほんの一瞬。
崩れ落ちる城の影。
炎の匂い。
割れて堕ちる月。
遠い残滓。
けれど次の瞬間には、消える。
まだ、思い出さなくていい。
まだ、世界は壊れていない。
けれど。
この日。
陽臣の中で、何かが静かに固定された。
愛ではなく。
恐怖から生まれた、選択として。
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