輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

文字の大きさ
23 / 69
第一部 運命

確定

しおりを挟む
 冬の朝は、音が少ない。
 窓の向こうで枝が揺れても、屋敷の中には届かない。絨毯が足音を吸い、廊下の空気は温度だけ整っている。
 陽臣はるおみは起きていた。
 昨夜から、ほとんど眠っていない。月那るなが腕の中で眠りに落ちてから、呼吸の波を数え、熱の引き際を見届け、最後に——確信だけが残った。
 来た。
 もう“揺らぎ”じゃない。
 机の上に、白い封筒が置いてある。校医から渡されたものだ。紙の質感すら妙に冷たい。
 陽臣はそれを開けなかった。内容を読む必要がない。必要なのは順序だけだった。
 検査を前倒しする。
 結果を確定させる。
 公的に守る。
 そして——余白を残さない。
 ベッドの上で、月那が身じろぎをする。寝汗で髪が額に張りついていた。
 陽臣は指先で、そっとそれを払う。起こさないように。けれど離れないように。
「……はる、くん」
 眠ったまま、名前だけ呼ぶ。昨夜の残り火みたいな声。
 陽臣は微笑む。
「いるよ」
 それだけで、月那の呼吸が落ち着く。
 今の月那に必要なのは説明じゃない。“在る”という情報だ。
 ——選ばれている。
 それで安定に向かう。
 ただし。
 安定は恐怖を消さない。恐怖は、ただ底へ沈む。
 陽臣は知っている。月那は深いところで怯えている。
 自分の身体が、自分のものじゃなくなることに。
 そして——陽臣が“唯一の鍵”であることに。
 だから、表面上は“選べる形”に整えてやる必要がある。
 逃げ道があるように見える安心。
 その安心で、逃げ道を埋める。
 それが、天城あまぎのやり方だった。
 学校はいつも通り始まる。
 教室も、授業も、休み時間も。
 ただ、匂いだけが違う。
 月那の匂いは薄く抑えられている。けれど完全じゃない。昨夜の名残が肌の奥に残っている。
 黒瀬迅くろせじんが、それに気づかないはずがない。
 廊下の向こうで、黒瀬の視線が刺さる。
 獲物を見る目じゃない。もっと厄介な——手に入らないものを理解した目だ。
 黒瀬は近づいてこない。
 それでも離れもしない。
 線の外側に立って、確かめるようにこちらを見る。
 陽臣は、ただ一度だけ視線を返す。
 言葉にしない警告。
 ——分かってるだろ。
 黒瀬はほんの一瞬、口角を上げた。面白がっているわけじゃない。悔しいわけでもない。
 負けたくない、という温度だけが見える。
 陽臣は思う。
 勝負にする相手じゃない。
 月那の世界に“余白”を作る存在。
 だから削る。壊さずに。騒がずに。“自然に”。
 放課後、車が迎えに来るのはいつもより早かった。
 月那が校門を出る前に、雨粒が一滴でも落ちたら困る。帰り道の数百メートルが余白になる。余白が、他人の傘になる。
 車内で月那は、ぼんやり窓を見ていた。指先が膝の上で、無意識に握られている。
 まだ怖い。そういう握り方だ。
「……ねえ、はるくん」
「なに」
「ぼく、変なのかな」
 陽臣は息を乱さない。
「変じゃない」
 月那は視線を揺らす。
「でも、最近……」
 言葉が続かない。続けたくないんだ。口にすると、現実になる。
 陽臣は月那の手に、自分の手を重ねる。強くは握らない。逃げられない温度だけを置く。
「検査、受けよう」
 月那が目を見開く。
「……こわい」
 その一言が、胸の奥に刺さる。
 陽臣は笑う。優しく。
「大丈夫。俺が一緒にいる」
 それは慰めじゃない。確約だ。制度として、日常として、人生として。
 月那は、少しだけ息を吐く。
 安堵の色。
 そしてその奥に沈む——諦めに似たもの。
 陽臣は気づいている。
 “選ばれた”ことで月那は安定する。
 でも同時に、そこに囚われる。
 だからこそ婚約が必要だ。
 檻を、檻に見せないために。
 検査は、天城と九条くじょうの共同手配で進んだ。
 前倒し。最短。非公開。
 病院は都内、九条グループ傘下の私立総合。
 診察室の空気は白い。消毒の匂いが支配しているはずなのに、月那の体温だけが別の層を作っている。
 医師は、淡々と説明を始めた。
 第二性の兆候。未成熟なフェロモン腺の過活動。外部刺激による反応。
 そして、その「外部刺激」の言い方だけ、わずかに慎重になる。
「九条さん。最近、特定の相手の近くで症状が軽くなることはありますか」
 月那が固まる。
 答えは、分かっている。言うのが恥ずかしいだけだ。
 陽臣は視線を逸らさない。代わりに月那の手を、机の下で軽く支える。
 逃げなくていい、という合図。
 月那は小さく頷いた。
「……あります」
 医師は頷く。ペン先が一瞬だけ止まる。
「番——運命の番がいる方は、近くで安定しやすい傾向があります」
 言葉は淡々としている。事実として置かれる。
 月那の指先が、ほんの少し震えた。
 医師は続ける。
「一方で、番ではないアルファに近づいたときに、身体が過剰反応を起こすこともあります。刺激に対して、防衛と欲求が同時に立ち上がる状態です」
 ——防衛と、欲求。
 その並びに、月那の喉が小さく鳴る。
 医師はそれ以上踏み込まない。踏み込む必要がないからだ。
 書類を一枚、静かに差し出す。
「検査結果です。九条さんは——オメガです」
 その言葉で、月那の肩が小さく跳ねた。
 隣に座る陽臣は表情を変えない。変える必要がない。
 分かっていたから。
 医師が続ける。
「天城さんはアルファです。相性もとてもいい」
 “相性”という単語に、月那の顔色が少しだけ落ちる。
 決められてしまう、と感じた目だ。
 医師が次の書類を出す。家族の同意。制度上の手続き。将来的な番契約の推奨。
 推奨。あくまで推奨。
 ——でも、彼らの世界では決定だ。
 医師が口を閉じた瞬間、部屋の中に静かな圧が生まれる。
 九条家の父が言う。
「婚約を進めます」
 天城家の父が頷く。
「当然だ」
 言葉は短い。議論はない。
「二十歳になったら、正式に番契約を」
 それが二つの家の結論。
 月那は唇を噛んだ。泣かない。声も出さない。
 でも陽臣は見逃さない。
 “選ばれた”安堵と、“逃げられない”恐怖が同時に混ざる瞬間。
 陽臣は月那の手を取る。
「月那」
 名前を呼ぶ。視線を合わせる。
 月那は少し遅れて頷いた。
「……うん」
 同意じゃない。拒否でもない。
 今の自分が壊れないための返事。
 陽臣は、それでいいと思う。
 まずは安定させる。恐怖は、後でほどけばいい。
 ——ほどける形に、整えておけばいい。
 帰りの車内、月那は黙っていた。窓の外に流れる景色を見ているのに、焦点が合っていない。
 陽臣は膝の上の月那の手に自分の指を絡める。絡める、というより——位置を固定する。
 月那が小さく息を吐く。
「……これで、落ち着くの?」
 陽臣はすぐに答えない。嘘をつきたくない。
「落ち着く」
 そして付け足す。
「落ち着くように、俺がする」
 月那が、ほんの少しだけ笑った。安心の笑み。
 でも、目は笑っていない。
 その笑みを見た瞬間、陽臣の胸の奥が冷える。
 ——この“安定”は薄氷だ。
 今は穏やかでも、ふとしたきっかけで沈んでいた恐怖が暴走の燃料になる。
 だから、今から準備をしておく。
 月那が恐怖を自覚したとき、それでも自分の隣を“選べる”ように。
 陽臣は、月那の指先に口づける。
 人前じゃない。車内。二人だけ。
 月那が肩を震わせる。
「……はるくん」
「なに」
「こわい、けど……」
 言葉が途切れる。
 陽臣は続きを言わせない。
 言わせたら、恐怖に名前がつく。名前がついた恐怖は、刃になる。
 陽臣はただ言う。
「大丈夫」
 同じ言葉。幼い頃から、ずっと。
 でも今日だけは意味が違う。
 大丈夫。
 ——君を、世界ごと整えるから。
 月那は目を閉じた。
 そのまま、静かに呼吸が落ち着いていく。
 安定に向かう。選ばれたことで。
 そして、見えない恐怖もまた、深く根を張る。
 陽臣は窓の外を見る。
 冬の空は澄んでいる。何も壊れていない。
 だからこそ、壊れる前に——
 手を打つ。
 静かに。
 確実に。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

αに軟禁されました

雪兎
BL
支配的なαに閉じ込められたΩ。だがそれは、愛のはじまりだった――。

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」

星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。 ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。 番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。 あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、 平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。 そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。 ――何でいまさら。オメガだった、なんて。 オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。 2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。 どうして、いまさら。 すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。 ハピエン確定です。(全10話) 2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

転化オメガの優等生はアルファの頂点に組み敷かれる

さち喜
BL
優等生・聖利(ひじり)と校則破りの常習犯・來(らい)は、ともに優秀なアルファ。 ライバルとして競い合ってきたふたりは、高等部寮でルームメイトに。 來を意識してしまう聖利は、あるとき自分の身体に妙な変化を感じる。 すると、來が獣のように押し倒してきて……。 「その顔、煽ってんだろ? 俺を」 アルファからオメガに転化してしまった聖利と、過保護に執着する來の焦れ恋物語。 ※性描写がありますので、苦手な方はご注意ください。 ※2021年に他サイトで連載した作品です。ラストに番外編を加筆予定です。 ☆登場人物☆ 楠見野聖利(くすみのひじり) 高校一年、175センチ、黒髪の美少年アルファ。 中等部から学年トップの秀才。 來に好意があるが、叶わぬ気持ちだと諦めている。 ある日、バース性が転化しアルファからオメガになってしまう。 海瀬來(かいせらい) 高校一年、185センチ、端正な顔立ちのアルファ。 聖利のライバルで、身体能力は聖利より上。 海瀬グループの御曹司。さらに成績優秀なため、多少素行が悪くても教師も生徒も手出しできない。 聖利のオメガ転化を前にして自身を抑えきれず……。

貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない

こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。

ふしだらオメガ王子の嫁入り

金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか? お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

処理中です...