輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

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第一部 運命

薄氷の安定

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 朝の空気は冷たかった。
 窓の外は冬の青で、吐く息が白い。
 月那るなは指先を見つめていた。
 左手の薬指――そこに、目に見えない“重さ”が残っている。
 指輪ではない。
 学校に持ち込めるような形でもない。
 それでも、昨日からずっと外れない。
 決まった。
 確定した。
 そういう重さ。
(これで落ち着くよ)
 医師も、父も、陽臣はるおみも言った。
 落ち着く。
 安定する。
 守られる。
 信じたいのに、息を吸うたび胸の奥が少しだけ痛む。
 痛む理由が分からないのが、いちばん怖い。
 扉がノックされる。
 返事をする前に、陽臣が入ってきた。
「起きてる?」
 低い声。
 いつも通りの声。
 なのに、その低さだけで胸がほどける。
「うん」
 陽臣は近づき、月那のネクタイの結び目を見る。
 昔と同じ指先で、まっすぐに整える。
 距離が近い。
 それだけで呼吸が深くなる。
(……落ち着く)
 悔しいくらい、簡単に。
 指が離れる。
 離れたのに、温度だけが残った。
「学校、行けそう?」
「……うん。大丈夫」
 “大丈夫”という言葉が、最近やけに重い。
 大丈夫じゃないものを抱えたまま、言っている気がする。
 玄関で靴を履く。
 九条くじょう家の使用人が「お車です」と告げた。
 迎えの車は、いつもより早い。
 雨の予報もないのに。
(余白を作らない)
 そういう配慮が、目に見えるようになった。
 ありがたい、とも思う。
 でも同時に、息が詰まりそうになる。
 車の窓に映る自分の顔は、整って見えた。
 顔色も悪くない。
 呼吸も普通だ。
 ――落ち着いている。
 落ち着かされている。
 学校に着くと、景色は何も変わっていない。
 廊下の匂い。制服の擦れる音。友達の笑い声。
 変わったのは、ぼくだけだ。
 教室に入った瞬間、視線が刺さった。
 黒瀬迅くろせじん
 席に座ったまま、まっすぐこちらを見ている。
 近づいてこない。
 呼び止めもしない。
 それなのに、逃げ道がない。
 胸の奥が、どくん、と鳴った。
 次に、熱が来る。
 首筋の内側がじわっと湿る。
 手のひらに汗がにじむ。
 息が浅くなる。
(やだ)
 声にならない。
 誰にも言えない。
 ただ視線を受けただけで、こんなふうになるなんて。
 月那は目を逸らして席へ向かう。
 歩く途中で足取りがわずかに乱れた。
 机に手をつく。
 指先が熱い。
 視界が、薄く揺れる。
 “あの日”より、強い。
 文字だけでも反応した。
 視線だけでも反応する。
(なんで)
(ぼく、なんで――)
 背後で椅子が引かれる音がした。
 陽臣が立った。
 何も言わずに、月那の横に立つ。
 ただ、それだけ。
 空気が変わる。
 熱が引く。
 呼吸が整う。
 汗が止まる。
 まるでスイッチを切ったみたいに、身体が“正常”に戻る。
 落ち着くことが、怖い。
 その怖さをごまかすために、笑うことすらできなかった。
 黒瀬がその光景を見ているのが分かる。
 見て、理解した顔だ。
 ――陽臣の近くでは落ち着く。
 ――自分の近くでは乱れる。
 その事実が、胸の奥を締めつける。
 授業が始まる。
 黒板の文字は読める。ノートも取れる。
 でも、胸の奥のどこかがずっと硬い。
 昼休み。
 廊下で黒瀬が通り過ぎた。
 距離はある。
 肩が触れるほどじゃない。
 それなのに、身体が先に反応した。
 息が浅い。
 喉が乾く。
 下腹の奥が、じんわりと熱を帯びる。
(……やめて)
(お願いだから、こっちを見ないで)
 黒瀬の歩幅が一瞬だけ止まる。
 何か言いかけて、やめた。
 そして、何も言わずに行ってしまう。
 その背中を見た瞬間、また胸が鳴った。
 反応が止まらない。
 放課後。
 迎えの車は、やっぱり早かった。
 校門の外に止まっている車を見た瞬間、肩から力が抜ける。
 待たなくていい。迷わなくていい。
 誰かに声をかけられる余白もない。
 車内で窓を見ていると、運転手が淡々と言う。
天城あまぎ様からご指示がございましたので」
 天城。
 陽臣。
 その名前だけで、身体の熱が落ちる。
(ぼくの身体は、もう――)
「……ねえ、はるくん」
「なに」
「ぼく、落ち着いてきた気がする」
 自分でも驚くほど素直な声だった。
 陽臣はすぐに頷かなかった。
 少しだけ間を置いて、言う。
「……よかった」
 短い言葉。
 そこに安堵が混じっている。
 その安堵に救われてしまう。
 救われるほど、怖くなる。
「でもさ」
 続けたくないのに、言葉が出る。
「落ち着くって……いいこと、だよね?」
 陽臣は月那の指先に、自分の指を重ねた。
 強くは握らない。
 でも、逃げられない温度。
「いいことだよ」
 “そういうことにしよう”じゃない。
 “そうだ”という言い方。
 月那は小さく頷く。
 頷くしかない。
 家に着く。
 部屋に戻る。
 制服を脱ぐ。
 鏡に映った自分は、きちんとして見えた。
 顔色もいい。目の下の影も薄い。呼吸も整っている。
 落ち着いている。
 安定している。
 それなのに――胸の底で何かが沈んでいる。
(怖い)
(でも、言えない)
(言ったら、壊れる気がする)
 夜。
 ベッドに入ると、陽臣はいつも通り隣にいた。
 月那は袖を掴む。
 掴んでから、自分で気づく。
(掴まないと、眠れない)
 陽臣のまぶたが、わずかに動いた。
 眠っていない。
 でも目は開けない。
 月那の指先の位置を確認するように、
 そこにいることを確かめるように。
 月那は息を吐く。
 そして、落ち着いていく。
 落ち着く。
 安定する。
 “選ばれた”ことで。
 この安定が薄氷だと気づくのは、たぶんまだ先だ。
 でも月那は、もう知ってしまった。
 自分の身体は、
 陽臣の近くでだけ正しく動く。
 その事実が救いで、
 同時に檻だった。
 月那は目を閉じる。
 陽臣の呼吸を数える。
 世界はまだ静かだ。
 何も壊れていない。
 だからこそ――
 壊れる前に、全部が整えられていく。
 それが、いちばん怖い。
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