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第二部 安定と余白
研究の仮面
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朝の光は、薄い。
カーテンの隙間から差し込む白が、部屋の輪郭だけを整えていく。
月那は、目を開けたまま天井を見ていた。
眠れたのかどうか分からない。夢を見たのかどうかも曖昧だ。
ただ、胸の中心が乾いたままで、呼吸の仕方だけがぎこちない。
(研究)
(治療)
(記録)
口の中で言葉を転がす。
“正しい形”の言葉を並べれば、少しだけ落ち着く気がする。
落ち着く気がするだけで、渇きは消えない。むしろ輪郭がはっきりする。
ベッド脇の椅子に、鞄が置いてある。
いつもと同じ。いつもと違う重さ。
その底に、名刺サイズのカードがあるのを、指先が覚えている。
スマホが震えた。
【夕方に戻る】
【講義後すぐ電話】
【外に出るなら言って】
陽臣の言葉は、いつも整っている。
命令じゃない。けれど、選択肢を削るための整い方だ。
月那は、一拍置いて返す。
【わかった】
【今日は研究棟にいる】
嘘じゃない。
研究棟には行く。
ただ、“どこへ”行くかだけが違う。
送信すると、胸の奥が少しだけ冷える。
冷えたぶん、渇きが動く。
(月那、今さら)
(今さら、何を)
自分を叱る言葉は、役に立たない。
役に立つのは、形だけだ。
月那は洗面所で顔を洗い、シャツのボタンを留め、白衣を羽織った。
襟の内側が、皮膚に触れる。
歯型が、そこにあることを、布越しに思い出してしまう。
痛みは、薄い。
でも、薄いからこそ残る。
“ここへ戻れ”という合図みたいに、身体の奥で鳴る。
(戻る、戻る)
(鍵へ)
鍵へ戻れば、息ができる。
それを知っているのに、もう一つの呼吸の仕方も知ってしまった。
蓋のない言葉。
距離を取ろうとしても揺れてしまう目。
線の内側に戻そうとする手つき。
あの研究室の匂い。
――欲しい。
そう思った瞬間、喉がひやりとする。
欲しい、は研究じゃない。
欲しい、は治療じゃない。
欲しい、はただの渇きだ。
月那は、その言葉に形を被せた。
(確認するだけ)
(相談するだけ)
(記録の続きだけ)
そして、いつものように“正しい順番”で家を出る。
鍵がいない日でも、順番だけは崩さない。
崩したら、本当に壊れるから。
研究棟の白は、今日も逃げ場がない。
消毒の匂いが乾いていて、窓の外の青を遠ざける。
月那はエレベーターを降り、廊下の端にある提出箱へ一枚のレポートを落とした。
“用事を済ませた証拠”。
誰も見ていないのに、それを残さないと息が詰まる。
(これで、研究棟にいる理由ができる)
理由ができた瞬間、足が軽くなる。
軽くなることが怖い。
研究室の並ぶ区画へ向かう廊下は、人が少ない。
人が少ないほど、心臓がうるさい。
足音が、やけに響く。
扉のプレートが見えた。
——教授 神谷 光理
月那は、立ち止まった。
ノックは、まだしない。
昨日、拒まれた。
「今日は避けたい」と言われた。
研究者の自制で、距離を取られた。
それが正しいと分かっている。
分かっているのに、胸の中心が乾く。
(拒まれたから、来た)
(……最低だ)
自分を責めても、足は引き返さない。
責めるほど、渇きが尖る。
月那は、鞄の中のノートを一冊取り出した。
表紙に「RBS」とだけ書いてある。
研究の仮面。
これがあるだけで、呼吸が少し整う。
(質問がある)
(だから来た)
言い訳を作って、ようやく指が動く。
ノック。
一度。
間を置いて、もう一度。
返事がない。
胸が跳ねる。
不安じゃない。不安もある。
でもそれより、焦りが先だ。
(いない?)
(避けられてる?)
避けられるのは、正しい。
正しいのに、耐えられない。
月那は、ノブに触れない。
触れたら越える線がある。
だから、もう一度だけノックする。
「……どうぞ」
返事が遅れて返ってきた。
声は低くて、落ち着いている。
けれど、いつもより少しだけ硬い。
月那は息を吸って、扉を開けた。
研究室の中は、紙とインクの匂いが濃い。
消毒の匂いの上に、別の層がある。
光理は机の前に立っていた。
白衣の袖がきちんと留められている。
視線が、まず月那の顔に落ちる。
次に、一瞬だけ首元へ――そしてすぐ戻る。
見られた。
うなじ。
隠したつもりのない場所。
それでも、見られた瞬間に身体が小さく反応する。
「九条くん」
“月那”じゃない。
距離を作る呼び方。
「今日は、面談の予定は入っていないよね」
昨日と同じ言葉。
線の内側の言葉。
月那は、喉が詰まるのを感じながら、ノートを持ち上げた。
「……記録、まとめてきました」
「あと、質問も……」
声は震えていない。
震えないように、言葉を整えている。
光理は一拍置いて、椅子を引いた。
「座って」
許可。
でも、歓迎ではない。
それでも月那の胸の中心が、少しだけ息をした。
椅子に座ると、背筋が勝手に伸びる。
研究の姿勢。
学生の姿勢。
これが仮面だと、光理に悟られたくない。
光理が端末を開く。
記録を見る仕草。
線を守るための手順。
「……昨日、言った通り」
「僕は、距離を守りたい」
はっきり言われる。
曖昧にされない。
曖昧にされないから、余計に痛い。
月那は頷く。
「分かってます」
「だから、研究の形で……」
言いながら、自分の胸の中心が乾くのを止められない。
研究の形に寄せるほど、渇きが透ける。
光理の視線が、机の上のノートに落ちる。
次に、月那の指先に落ちる。
指が、ノートの角を押さえる力が少し強い。
見抜かれる、と思った。
けれど光理は、見抜いても言葉にしない。
言葉にしたら壊れることを知っている顔で、あえて“研究”に戻す。
「夢の頻度は?」
「誘因は?」
「非番アルファへの過剰反応は、昨日から増えてる?」
質問。
正しい質問。
月那が用意してきた質問。
なのに、答えるたびに胸が苦しくなる。
質問が欲しかったわけじゃないからだ。
(今、欲しいのは——)
そう思いかけて、月那は息を止めた。
言語化したら終わる。
終わったら、戻れない。
光理が言う。
「九条くん」
「今日は、短くする。君の顔色が良くない」
心配の形をしている。
でも、距離を作るための言葉。
月那の胸の中心が、きゅっと縮んだ。
縮んだ反動で、渇きが跳ねる。
(短く、じゃ足りない)
足りない、が出てしまう。
出てしまって、月那は自分で自分が怖い。
月那は、ノートを閉じた。
研究の仮面を、いったん下ろすような動作。
そして、言ってしまう。
「……先生」
「僕、今日、うまく息ができなくて」
研究の言い方をしている。
でも、内容は研究じゃない。
光理の目が、ほんの僅かに揺れた。
揺れたのに、すぐ戻る。
戻すのは自制だ。研究者の自制だ。
「……それは」
「“鍵”が不在だから?」
月那は、頷けなかった。
頷いたら、答えになってしまうから。
でも光理は、追い詰めない。
追い詰めない代わりに、距離を一段強くする。
「今日は、ここまで」
「次の面談枠を取って。正式に」
正式に。
枠に入れて。
形に戻して。
それは正しい。
でも月那の胸の中心は、乾いたままだ。
(月那、ここで引き返せる?)
引き返せるなら、もう来ていない。
そう気づいた瞬間、月那の喉が震える。
光理が立ち上がり、扉へ向かう仕草を見せる。
帰す準備。
線を守る動き。
月那は立ち上がってしまった。
止まれない。
「……先生」
「僕、今日は——」
言葉の先が、研究じゃない。
渇きの言葉になる。
光理の声が低くなる。
「九条くん」
「今のまま進むと、君は苦しくなる」
苦しくなる。
それは脅しじゃない。
予告だ。
月那は、笑ってしまいそうになった。
苦しいのはもう、今だ。
月那は、ただ一つだけを選ぶ。
研究でも、鍵でもない言葉を、口の手前で削って、ぎりぎり“安全な形”にする。
「……少しだけ」
「ここに、いたいです」
それは欲望じゃない顔をしている。
でも、欲望の核だ。
光理の呼吸が、ほんの僅かに乱れる。
乱れたのに、すぐ整える。
整えるのが彼の自制。
そして、その自制が月那の渇きを煽る。
光理は、目を逸らさずに言った。
「……分かった」
「五分だけ」
五分。
枠。
線の内側。
それでも、月那の胸の中心は少しだけ息をした。
椅子に座り直す。
光理も、机の向かいに座る。
距離を詰めない。
視線だけが、まっすぐだ。
その視線のまっすぐさが、月那を壊しそうになる。
(研究じゃない)
(でも、ここにいられる)
渇きが、喉の奥まで上がってくる。
名前をつけたくないのに、もう名前がある。
会いたい。
触れてほしい。
息をしたい。
月那は、その全部を飲み込んだ。
飲み込んだまま、五分の間に“戻れる形”を必死で探す。
光理が言う。
「……今日は、帰ったら水を飲んで」
「眠れないなら、呼吸だけ整えて」
「“息ができない”を、責めないで」
蓋のない言葉。
でも、距離はある。
距離があるから、救いが痛い。
月那は小さく頷いた。
「……はい」
返事をした瞬間、五分が終わってしまう気がして、月那は視線を落とした。
机の端に、自分の手がある。
その手が、震えていないことに気づいてしまう。
(先生の前では、震えない)
鍵じゃないのに。
非番なのに。
過剰反応を起こす相手なのに。
矛盾が、息を難しくする。
光理が立ち上がる。
「終わり」の動き。
月那も立つ。
渇きが、まだ足元に絡む。
扉の前で、光理は一度だけ言った。
「……九条くん」
「君が“研究の顔”をしてるときほど、僕は怖い」
月那は息を止めた。
見抜かれている。
仮面を。
渇きを。
光理は続ける。
「君のために、線を守る」
「だから、君も——線の外側に落ちないで」
“落ちないで”。
その言葉は、救いじゃない。
制止だ。
同時に、祈りだ。
月那は頷いた。
頷くしかなかった。
「……はい」
研究室の扉が閉まる。
廊下の白が戻る。
消毒の匂いが戻る。
戻るのに、胸の中心は乾いたままだ。
五分の余白は、喉を潤さない。
むしろ、渇きの存在を証明しただけだった。
(月那、もう)
(会う理由は、研究じゃない)
そう確定した瞬間、月那は自分の息の浅さに気づく。
鍵へ戻れば深くなる。
余白へ行けば軽くなる。
どちらも本物で、どちらも苦しい。
月那は鞄を持ち直し、スマホを握った。
陽臣のメッセージが来ていないか確かめる指が、無意識に動く。
“配置”を確認してしまう自分が、もう怖い。
(……帰らなきゃ)
帰れば整う。
整えば生きられる。
生きられるから帰る。
研究棟の出口へ向かう足取りは、正しい順番をなぞっているのに、胸の中心だけが置いていかれる。
外に出ると、湿った夏の風が肌を撫でた。
現実の匂い。
その匂いの中で、月那は小さく呟いてしまう。声にはならないくらいの息で。
(息がしたい)
その“息”が、もう研究でも鍵でもないことを、月那は自分で分かっていた。
そして分かったまま、止まれなかった。
カーテンの隙間から差し込む白が、部屋の輪郭だけを整えていく。
月那は、目を開けたまま天井を見ていた。
眠れたのかどうか分からない。夢を見たのかどうかも曖昧だ。
ただ、胸の中心が乾いたままで、呼吸の仕方だけがぎこちない。
(研究)
(治療)
(記録)
口の中で言葉を転がす。
“正しい形”の言葉を並べれば、少しだけ落ち着く気がする。
落ち着く気がするだけで、渇きは消えない。むしろ輪郭がはっきりする。
ベッド脇の椅子に、鞄が置いてある。
いつもと同じ。いつもと違う重さ。
その底に、名刺サイズのカードがあるのを、指先が覚えている。
スマホが震えた。
【夕方に戻る】
【講義後すぐ電話】
【外に出るなら言って】
陽臣の言葉は、いつも整っている。
命令じゃない。けれど、選択肢を削るための整い方だ。
月那は、一拍置いて返す。
【わかった】
【今日は研究棟にいる】
嘘じゃない。
研究棟には行く。
ただ、“どこへ”行くかだけが違う。
送信すると、胸の奥が少しだけ冷える。
冷えたぶん、渇きが動く。
(月那、今さら)
(今さら、何を)
自分を叱る言葉は、役に立たない。
役に立つのは、形だけだ。
月那は洗面所で顔を洗い、シャツのボタンを留め、白衣を羽織った。
襟の内側が、皮膚に触れる。
歯型が、そこにあることを、布越しに思い出してしまう。
痛みは、薄い。
でも、薄いからこそ残る。
“ここへ戻れ”という合図みたいに、身体の奥で鳴る。
(戻る、戻る)
(鍵へ)
鍵へ戻れば、息ができる。
それを知っているのに、もう一つの呼吸の仕方も知ってしまった。
蓋のない言葉。
距離を取ろうとしても揺れてしまう目。
線の内側に戻そうとする手つき。
あの研究室の匂い。
――欲しい。
そう思った瞬間、喉がひやりとする。
欲しい、は研究じゃない。
欲しい、は治療じゃない。
欲しい、はただの渇きだ。
月那は、その言葉に形を被せた。
(確認するだけ)
(相談するだけ)
(記録の続きだけ)
そして、いつものように“正しい順番”で家を出る。
鍵がいない日でも、順番だけは崩さない。
崩したら、本当に壊れるから。
研究棟の白は、今日も逃げ場がない。
消毒の匂いが乾いていて、窓の外の青を遠ざける。
月那はエレベーターを降り、廊下の端にある提出箱へ一枚のレポートを落とした。
“用事を済ませた証拠”。
誰も見ていないのに、それを残さないと息が詰まる。
(これで、研究棟にいる理由ができる)
理由ができた瞬間、足が軽くなる。
軽くなることが怖い。
研究室の並ぶ区画へ向かう廊下は、人が少ない。
人が少ないほど、心臓がうるさい。
足音が、やけに響く。
扉のプレートが見えた。
——教授 神谷 光理
月那は、立ち止まった。
ノックは、まだしない。
昨日、拒まれた。
「今日は避けたい」と言われた。
研究者の自制で、距離を取られた。
それが正しいと分かっている。
分かっているのに、胸の中心が乾く。
(拒まれたから、来た)
(……最低だ)
自分を責めても、足は引き返さない。
責めるほど、渇きが尖る。
月那は、鞄の中のノートを一冊取り出した。
表紙に「RBS」とだけ書いてある。
研究の仮面。
これがあるだけで、呼吸が少し整う。
(質問がある)
(だから来た)
言い訳を作って、ようやく指が動く。
ノック。
一度。
間を置いて、もう一度。
返事がない。
胸が跳ねる。
不安じゃない。不安もある。
でもそれより、焦りが先だ。
(いない?)
(避けられてる?)
避けられるのは、正しい。
正しいのに、耐えられない。
月那は、ノブに触れない。
触れたら越える線がある。
だから、もう一度だけノックする。
「……どうぞ」
返事が遅れて返ってきた。
声は低くて、落ち着いている。
けれど、いつもより少しだけ硬い。
月那は息を吸って、扉を開けた。
研究室の中は、紙とインクの匂いが濃い。
消毒の匂いの上に、別の層がある。
光理は机の前に立っていた。
白衣の袖がきちんと留められている。
視線が、まず月那の顔に落ちる。
次に、一瞬だけ首元へ――そしてすぐ戻る。
見られた。
うなじ。
隠したつもりのない場所。
それでも、見られた瞬間に身体が小さく反応する。
「九条くん」
“月那”じゃない。
距離を作る呼び方。
「今日は、面談の予定は入っていないよね」
昨日と同じ言葉。
線の内側の言葉。
月那は、喉が詰まるのを感じながら、ノートを持ち上げた。
「……記録、まとめてきました」
「あと、質問も……」
声は震えていない。
震えないように、言葉を整えている。
光理は一拍置いて、椅子を引いた。
「座って」
許可。
でも、歓迎ではない。
それでも月那の胸の中心が、少しだけ息をした。
椅子に座ると、背筋が勝手に伸びる。
研究の姿勢。
学生の姿勢。
これが仮面だと、光理に悟られたくない。
光理が端末を開く。
記録を見る仕草。
線を守るための手順。
「……昨日、言った通り」
「僕は、距離を守りたい」
はっきり言われる。
曖昧にされない。
曖昧にされないから、余計に痛い。
月那は頷く。
「分かってます」
「だから、研究の形で……」
言いながら、自分の胸の中心が乾くのを止められない。
研究の形に寄せるほど、渇きが透ける。
光理の視線が、机の上のノートに落ちる。
次に、月那の指先に落ちる。
指が、ノートの角を押さえる力が少し強い。
見抜かれる、と思った。
けれど光理は、見抜いても言葉にしない。
言葉にしたら壊れることを知っている顔で、あえて“研究”に戻す。
「夢の頻度は?」
「誘因は?」
「非番アルファへの過剰反応は、昨日から増えてる?」
質問。
正しい質問。
月那が用意してきた質問。
なのに、答えるたびに胸が苦しくなる。
質問が欲しかったわけじゃないからだ。
(今、欲しいのは——)
そう思いかけて、月那は息を止めた。
言語化したら終わる。
終わったら、戻れない。
光理が言う。
「九条くん」
「今日は、短くする。君の顔色が良くない」
心配の形をしている。
でも、距離を作るための言葉。
月那の胸の中心が、きゅっと縮んだ。
縮んだ反動で、渇きが跳ねる。
(短く、じゃ足りない)
足りない、が出てしまう。
出てしまって、月那は自分で自分が怖い。
月那は、ノートを閉じた。
研究の仮面を、いったん下ろすような動作。
そして、言ってしまう。
「……先生」
「僕、今日、うまく息ができなくて」
研究の言い方をしている。
でも、内容は研究じゃない。
光理の目が、ほんの僅かに揺れた。
揺れたのに、すぐ戻る。
戻すのは自制だ。研究者の自制だ。
「……それは」
「“鍵”が不在だから?」
月那は、頷けなかった。
頷いたら、答えになってしまうから。
でも光理は、追い詰めない。
追い詰めない代わりに、距離を一段強くする。
「今日は、ここまで」
「次の面談枠を取って。正式に」
正式に。
枠に入れて。
形に戻して。
それは正しい。
でも月那の胸の中心は、乾いたままだ。
(月那、ここで引き返せる?)
引き返せるなら、もう来ていない。
そう気づいた瞬間、月那の喉が震える。
光理が立ち上がり、扉へ向かう仕草を見せる。
帰す準備。
線を守る動き。
月那は立ち上がってしまった。
止まれない。
「……先生」
「僕、今日は——」
言葉の先が、研究じゃない。
渇きの言葉になる。
光理の声が低くなる。
「九条くん」
「今のまま進むと、君は苦しくなる」
苦しくなる。
それは脅しじゃない。
予告だ。
月那は、笑ってしまいそうになった。
苦しいのはもう、今だ。
月那は、ただ一つだけを選ぶ。
研究でも、鍵でもない言葉を、口の手前で削って、ぎりぎり“安全な形”にする。
「……少しだけ」
「ここに、いたいです」
それは欲望じゃない顔をしている。
でも、欲望の核だ。
光理の呼吸が、ほんの僅かに乱れる。
乱れたのに、すぐ整える。
整えるのが彼の自制。
そして、その自制が月那の渇きを煽る。
光理は、目を逸らさずに言った。
「……分かった」
「五分だけ」
五分。
枠。
線の内側。
それでも、月那の胸の中心は少しだけ息をした。
椅子に座り直す。
光理も、机の向かいに座る。
距離を詰めない。
視線だけが、まっすぐだ。
その視線のまっすぐさが、月那を壊しそうになる。
(研究じゃない)
(でも、ここにいられる)
渇きが、喉の奥まで上がってくる。
名前をつけたくないのに、もう名前がある。
会いたい。
触れてほしい。
息をしたい。
月那は、その全部を飲み込んだ。
飲み込んだまま、五分の間に“戻れる形”を必死で探す。
光理が言う。
「……今日は、帰ったら水を飲んで」
「眠れないなら、呼吸だけ整えて」
「“息ができない”を、責めないで」
蓋のない言葉。
でも、距離はある。
距離があるから、救いが痛い。
月那は小さく頷いた。
「……はい」
返事をした瞬間、五分が終わってしまう気がして、月那は視線を落とした。
机の端に、自分の手がある。
その手が、震えていないことに気づいてしまう。
(先生の前では、震えない)
鍵じゃないのに。
非番なのに。
過剰反応を起こす相手なのに。
矛盾が、息を難しくする。
光理が立ち上がる。
「終わり」の動き。
月那も立つ。
渇きが、まだ足元に絡む。
扉の前で、光理は一度だけ言った。
「……九条くん」
「君が“研究の顔”をしてるときほど、僕は怖い」
月那は息を止めた。
見抜かれている。
仮面を。
渇きを。
光理は続ける。
「君のために、線を守る」
「だから、君も——線の外側に落ちないで」
“落ちないで”。
その言葉は、救いじゃない。
制止だ。
同時に、祈りだ。
月那は頷いた。
頷くしかなかった。
「……はい」
研究室の扉が閉まる。
廊下の白が戻る。
消毒の匂いが戻る。
戻るのに、胸の中心は乾いたままだ。
五分の余白は、喉を潤さない。
むしろ、渇きの存在を証明しただけだった。
(月那、もう)
(会う理由は、研究じゃない)
そう確定した瞬間、月那は自分の息の浅さに気づく。
鍵へ戻れば深くなる。
余白へ行けば軽くなる。
どちらも本物で、どちらも苦しい。
月那は鞄を持ち直し、スマホを握った。
陽臣のメッセージが来ていないか確かめる指が、無意識に動く。
“配置”を確認してしまう自分が、もう怖い。
(……帰らなきゃ)
帰れば整う。
整えば生きられる。
生きられるから帰る。
研究棟の出口へ向かう足取りは、正しい順番をなぞっているのに、胸の中心だけが置いていかれる。
外に出ると、湿った夏の風が肌を撫でた。
現実の匂い。
その匂いの中で、月那は小さく呟いてしまう。声にはならないくらいの息で。
(息がしたい)
その“息”が、もう研究でも鍵でもないことを、月那は自分で分かっていた。
そして分かったまま、止まれなかった。
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