輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

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第三部 番の檻

檻の内側

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 車内は、静かすぎた。

 エアコンの風の音だけが、均一に流れている。
 窓の外の街灯が、ガラスに細い線を描いては消える。
 それなのに月那るなの身体の中だけが、さっきからずっと“整って”いる。

 息が深い。
 汗が引いている。
 心拍が規則に戻っている。

 ——それが、いちばん怖い。

 うなじが熱い。痛い。
 痛みは鋭いのに、同時に“落ち着き”が貼りついている。
 まるでそこに、見えない錠前が打ち込まれたみたいに。

 月那は両手を膝の上で握りしめた。
 爪が掌に食い込んでも、痛みで意識を保てない。
 意識は勝手に、「噛まれた」という事実の方へ吸い寄せられる。

(番契約)

 言葉にした瞬間、喉が詰まる。
 発情中に噛まれた。
 制度上は認められない年齢なのに、身体はそれを“成立”として処理してしまう。

 それを理解できるほど、月那はRBSと共鳴の知識を持っていた。
 知っているからこそ、絶望が先に来る。

 運転席の向こうで、運転手が一度だけミラーを見た。
 何も言わない。
 言わないことが、この家の正しさだ。

 隣に座る陽臣はるおみは、ずっと黙っている。
 怒っている気配はない。
 声を荒げる気配もない。
 ただ、熱のない静けさがある。

 その静けさが、決定そのものだった。

 月那が小さく息を吐いたとき、陽臣の指が月那の手に触れた。
 強く握らない。
 けれど、指先の位置を“固定”する。

 触れられた瞬間、月那の胸の奥が反射でほどけた。
 怖い。
 こんなふうに、すぐ整ってしまう自分が怖い。

「……はるくん」

 声がかすれる。
 呼べば答えてくれる、と身体が知っているから呼んでしまう。
 それがもう、癖だ。

 陽臣は返事をしない。
 返事の代わりに、月那の手の甲に親指を滑らせた。
 落ち着かせる動き。
 同時に、逃げ道を消す動き。

 月那の喉の奥に、「ごめん」と「やめて」が同時に詰まる。
 どちらを言っても、戻らないから言えない。

 車は天城あまぎ家の敷地に入った。
 門が開く音。
 警備員の低い挨拶。
 砂利を踏むタイヤの音。

 ここまで来れば、外の世界は届かない。

 車が止まる。
 陽臣が先に降り、月那の側のドアを開ける。
 いつもの仕草。
 いつもの“優しさ”の形。
 でも、今は違う。

 月那は降りられなかった。
 足に力が入らないからじゃない。
 降りたら、ここが檻になると分かっているから。

 陽臣は、ため息をつかなかった。
 眉も動かさない。
 ただ、月那の視線の高さまで身を屈める。

「……暑い?」

 問いかけの形。
 けれど月那は、そこに“帰宅後の手順”を聞き取ってしまう。
 暑いから部屋へ行き、冷やし、整える。
 順番の提示。

 月那は首を振った。
「暑くない」と答えた瞬間、陽臣の目が少しだけ柔らぐ。

「そう」

 それだけで終わり。
 終わりにできるのが、天城の恐ろしさだ。

 陽臣が月那を抱き上げる。
 乱暴じゃない。
 大切に運ぶみたいに。
 だから、余計に拒めない。

 廊下は絨毯が音を吸う。
 家の中が静かなほど、月那のうなじの痛みが鮮明になる。
 そこから“安定”が流れ込んでくる感覚がある。

(鍵になった)
(鍵にされた)

 いつもの部屋へ向かう角を、陽臣は曲がらなかった。
 部屋の扉が開く。
 陽臣と月那の部屋——ではなかった。

 中は必要なものだけが揃っている。
 ベッド。机。ソファ。洗面。
 窓は大きいが、外側にもう一枚、薄い格子の影がある。
 見た目は上品で、目立たない。
 “檻に見えない檻”。

 陽臣は月那をベッドに下ろし、枕を整える。
 整えることが、当たり前みたいに。

「ここ、どこ……」

 やっと声が出る。
 出た声が、自分でも驚くほど幼い。

 陽臣は月那を見下ろし、穏やかに言った。

「安全な部屋」

 安全。
 その単語が、月那の胸の奥を冷やす。
 安全は、自由の反対側に置かれることが多い。

「……大学」

 月那が言いかけたとき、陽臣が遮らずに先に言った。

「休む」

 短い。
 迷いがない。
 “当然”の決定。

 月那の指先が震える。
 震えるのに、呼吸は整ってしまう。
 整うほど、涙が出そうになる。

「……先生、に……」

 光理ひかりの名前は言えなかった。
 言った瞬間、何かが壊れると分かったから。

 陽臣の視線が、一瞬だけ冷える。
 でもすぐに戻る。
 戻してしまえるのが怖い。

「連絡は、俺がする」
「どうせもうすぐ夏休みだ」

 月那は目を見開いた。
 それは“配慮”の顔をした管理だ。

「やだ」

 月那は言ってしまう。
 小さく。
 でも確かに。

 陽臣の表情が変わらないまま、部屋の温度だけが下がる。

「……やだ?」

 繰り返す声が低い。
 責めていない。
 でも、確認している。

 月那は唇を噛む。
 うなじが痛む。
 痛むのに、身体がまた整ってしまう。
 自分が自分を裏切る。

「……僕、」

 言葉が続かない。
 続けたら、「光理先生が」と言ってしまうから。

 陽臣はベッド脇に座った。
 距離を詰める。
 逃げ道を消す距離。
 それなのに、声は静かだ。

「月那」

 名前を呼ばれるだけで、胸が反射でほどける。
 それが、今は罰みたいだ。

「さっきの場所で、俺を拒んだ」

 事実を置く声。
 責めない声。
 でも、その事実は刃だ。

 月那は目を閉じた。
 拒んだ。
 拒んでしまった。
 それが陽臣を崩す、と知っていたのに。

「……ごめん」

 口から落ちた言葉は、祈りみたいに弱い。

 陽臣は首を振らない。
 肯定もしない。
 ただ、月那のうなじに触れないように、頬に指先を滑らせた。

 その指が冷たい。
 冷たいのに落ち着く。
 落ち着くのが怖い。

「月那、俺は」

 陽臣が言いかけて、止めた。
 喉の奥にある言葉を、噛み砕いて飲み込むみたいに。

「……もう、戻った」

 同じ言葉。
 さっき研究室で囁いた言葉。
 “戻された”側の月那には、呪いに聞こえる。

 月那の視線が、陽臣の首元に落ちた。
 そこにあるはずのないものを探してしまう。
 噛んだ痕。
 噛むほどの衝動。
 壊れかけた理性。

(この人は、どこまで……)

 考えた瞬間、月那ははっとする。
 考えるべきではない。
 考えれば、恐怖に名前がつく。
 名前がついた恐怖は、刃になる。

 陽臣は立ち上がり、部屋の入口へ向かった。
 扉を閉めるのではなく、外側の誰かに何か短く指示している気配がする。
 それから戻ってきて、ベッドの端に手を置く。

「水、持ってくる」

 月那はその一言に、泣きそうになった。
 水をくれる。
 優しい。
 その優しさが、檻の中で成立している。

 陽臣が部屋を出る瞬間、月那は思わず声を出した。

「……行かないで」

 言ってから、自分がいちばん怖い。
 檻を拒んでいるのに、鍵を求めてしまう。

 陽臣の足が止まった。
 振り返らずに言う。

「行かない」

 “行かない”は、慰めじゃない。
 宣言だ。
 この家から出さない宣言にも聞こえる。

 扉が閉まる。
 鍵のかかる音はしない。
 でも月那は分かる。
 音がしない方が、逃げられない。

 ひとりになった部屋で、月那は枕に顔を埋めた。
 うなじが痛む。
 痛みがあるのに、呼吸は深い。
 深い呼吸が、陽臣の“所有”を肯定しているみたいで吐き気がする。

(僕は、壊した)
(光理先生の線も)
(はるくんの線も)
(僕の線も)

 そして、いちばん残酷なことを知っている。

 ——ここで息ができてしまう。

 鍵に戻された身体が、整ってしまう。
 整うから、生き延びてしまう。
 生き延びるほど、檻は現実になる。

 扉が開く。
 陽臣が水のグラスを持って入ってくる。
 月那に差し出す手は丁寧だ。

 月那は受け取って、一口飲んだ。
 喉を通る冷たさで、やっと涙が落ちた。

 陽臣は何も言わない。
 ただ、ベッドの端に座り、月那の髪を指先で梳いた。
 首筋には触れない。
 触れない代わりに、逃げない。

 月那は震える息で言った。

「……僕、どうすればいいの」

 陽臣の手が止まる。
 止まってから、ゆっくりまた動く。

「考えなくていい」

「……でも」

「今は、安定する」

 安定。
 それは月那にとって救いで、鎖だ。

 陽臣が月那の額に短く口づける。
 儀式の始まりではない。
 でも、“逃がさない”温度がある。

 月那は目を閉じた。

(もう、選べない)

 そう理解しているのに、身体は整っていく。
 整っていく自分が、いちばん怖い。

 夕方は、まだ来ない。
 陽臣の学会随行が終わって戻るはずだった夕方は、もう意味を失っている。

 ここから先は、予定ではなく“管理”だ。

 そして月那は、痛むうなじの奥で、もう一つの痛みを確かめてしまう。

 光理の“線の外側”の温度。
 蓋のない言葉。
 あの優しい口づけ。

 それは鍵にはならない。
 だからこそ、渇きになる。

 渇きは、檻の中で静かに育つ。
 声を出せない形で。
 誰にも見えない形で。

 月那は、グラスを置いて、陽臣の袖を掴んだ。
 掴んだ瞬間、呼吸が深くなる。

 鍵が、そこにあるから。

 その事実が、もう救いではなく、ただの現実だった。
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