輪廻の誓いは、愛になる

帰り花

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第三部 番の檻

切断

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 朝の病院は、明るすぎた。
 カーテンの隙間から入る光が、白い壁に反射して、影を薄くする。
 影が薄いほど、逃げ場も薄くなる気がした。
 月那るなは、点滴の管が揺れる音を数えていた。
 一滴、また一滴。
 規則正しいはずの音が、今日は“時間”そのものに聞こえる。
(もうすぐ、切れる)
 共鳴。
 鍵。
 呼吸の深さ。
 うなじの痛み。
 それらが全部、一本の糸で結ばれていたのだと、今さらみたいに理解する。
 腹の内側が、ふっと動いた。
 返事。
 小さな衝撃が、月那の手のひらに伝わる。
「……大丈夫」
 誰に言ったのか分からないまま、月那は囁く。
 自分に、子どもに、それから――この後“忘れる”人に。
 ノックがして、看護師が入ってきた。
「おはようございます。これから準備に入りますね」
「麻酔科の先生も来ます。書類、最終確認します」
 “最終確認”。
 その言葉は、優しい顔をしているのに、取り返しのつかない重さを持っている。
 看護師が、手首のリストバンドを見て、月那の名前を呼んだ。
 確認の声。
 生きている人間を、きちんと世界に固定するための声。
 次に、麻酔科医が入る。
 手順の説明。副作用。リスク。
 言葉は淡々としていて、ここでは感情が不要だと教えるような口調だ。
 それでも、最後に一言だけ、少し声が柔らかくなる。
「怖かったら、怖いと言ってください」
「我慢しないでいいです。ここでは、我慢しない方が安全です」
 その“安全”が、これまで月那を閉じてきた言葉と同じ形をしていて、胸が痛む。
 そのとき。
 扉が静かに開いて、陽臣はるおみが入ってきた。
 夜と同じ顔をしているのに、夜より疲れている。
 目の下の影が、薄い怒りみたいに残っている。
 でも、声は荒れていない。
「……月那」
 名前を呼ぶだけで、身体が反射で整いかける。
 けれど今日は、整いきらない。
 “切る”と決めた朝だから。
 陽臣はベッド脇に立って、腹を見た。
 見てから、月那の目を見る。
 逃がさない目。
 でも昨夜みたいに、“固定するため”だけの目ではなかった。
 崩れそうなものを、壊さないように抱える目だった。
「……行くのか」
 月那は頷く。
 頷くと、喉が震えた。
「うん」
 たった一音なのに、それが“さよなら”の音に聞こえてしまう。
 陽臣は月那の手に触れようとして、止まった。
 触れたら整う。
 整ったら、今日言うべき言葉が消える。
 陽臣もそれを分かっている顔で止めた。
 代わりに、陽臣は小さく息を吐いて言った。
「……忘れてもいい」
「でも——」
 続きが出ない。
 出したら、縛る言葉になるから。
 縛りたくないのに、縛りたい。
 その矛盾が、陽臣の沈黙に滲んでいる。
 月那は、腹に手を当てた。
 子どもがまた、返事をする。
 月那は、その動きに勇気を借りて言った。
「はるくん」
「昨日の、お願い」
 陽臣が目を細める。
 拒む準備ではない。
 受け止めるための、痛みの準備だ。
「……“救えた”って思う気持ちだけ、残してって言ったやつ」
 陽臣は小さく頷いた。
 頷いて、喉の奥で何かを飲み込んだ。
「……残す」
「残るように、する」
 約束というより、祈り。
 祈りを言える人間になったこと自体が、月那には救いだった。
 看護師が、タイミングを見計らって言う。
天城あまぎ様、これ以上は——」
「移動します。ご家族はここまでです」
 “ここまで”。
 線が引かれる。
 月那はその線が、今日だけはありがたくもあると気づいてしまう。
 これ以上一緒にいたら、月那は“切る”勇気を失う。
 陽臣は動かない。
 一秒だけ、世界が止まる。
 それから、陽臣は月那の額に口づけた。
 昨夜と同じ場所。
 でも意味が違う。
 儀式じゃない。
 固定じゃない。
 “戻れない朝”を、ただ確かめる触れ方。
「……生きろ」
 陽臣が腹に向かって言った。
 次に、月那へ。
「……生きろ」
 月那は笑えなかった。
 笑ったら崩れる。
 だから、小さく頷いた。
「うん」
 ストレッチャーへの移動。
 シーツが擦れる音。ベルトの感触。
 廊下の灯りが流れていく。
 天井の白が、静かに後退する。
 手術室前の待機スペースで、光理ひかりが立っていた。
 白衣。
 表情は整っている。
 整っているのに、目の奥だけが眠れていない色をしている。
 月那と視線が合う。
 合った瞬間、胸の中心がほんの少しだけ明るくなる。
 ——けれど、今日はその光すら怖い。
 光理は、必要以上に近づかない。
 声も必要以上に柔らかくしない。
 でも、言葉は嘘にしない。
「準備はできている」
「怖いなら、怖いと言っていい」
「……君の意思で、止めることもできる」
 止められる。
 その一言が、救いで、刃だ。
 月那は首を振った。
 今日は止めない。止められない。
 止めたら、誰かが死ぬ。
「……進めて」
 月那の声は小さかった。
 でも、はっきりしていた。
 “選ぶ”という言葉の形だった。
 光理が短く頷く。
 研究者の頷き。医師の頷き。
 そして、ほんのわずかに、人間の頷き。
「分かった」
 手術室の扉が開く。
 冷たい空気。金属の匂い。
 白が、ここでは“清潔”という意味だけに戻る。
 麻酔科医が顔を覗き込む。
「眠くなる薬を入れます」
「起きたら、終わっています」
 終わっている。
 何が。
 共鳴が。
 そして、月那の“今”が。
 月那は、最後に一度だけ考えた。
 陽臣の名前。
 呼び方。声。温度。
(忘れる)
 喉が震える。
 涙が出そうになる。
 でも、その涙すら“整い”の一部になりそうで、月那は必死に息を吐いた。
(残して)
 名前じゃなくていい。
 思い出じゃなくていい。
 ——救えた、という気持ちだけ。
 麻酔の薬が腕の中に入る。
 熱が広がる。視界がぼやける。
 月那は、腹に手を当てたまま、最後に囁いた。
「……ごめんじゃない」
「……ありがとう」
 誰に向けた言葉か、もう自分でも分からない。
 でも、それでいい。
 視界が白くなる。
 光が消える前に、ひとつだけ分かった。
(夢は、もう見なくなる)
 前世の森も、星も、誓いも。
 全部が遠ざかる予感がした。
 その代わりに、胸の底に小さな石みたいな感情だけが残る。
 ——救えた。
 その感情が、名前の代わりになる。
 月那は、静かに眠りへ落ちた。
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