66 / 69
第三部 番の檻
名前のない朝
しおりを挟む
目を開けた瞬間、世界は静かすぎた。
病院の天井。白い光。点滴の滴る音。
その全部が“いつも通り”に見えるのに、月那の中だけが決定的に違う。
——息が、軽い。
軽いのに、怖くない。
怖くないことが、まず怖かった。
月那はゆっくり瞬きをして、自分の腹に手を当てた。
丸い重さ。温かい皮膚。内側の生きもの。
その感触だけは、ちゃんと“ここにある”。
(……よかった)
なにが?
なぜ?
理由は続かない。言葉の順番が、途中で切れる。
看護師が近づいてきて、柔らかい声で言った。
「目、開きましたね。おかえりなさい」
「気分、悪くないですか。吐き気は?」
月那は首を振ろうとして、少しだけ遅れた。
身体は動くのに、心が追いつかない。
それでも口は先に答える。
「……大丈夫、です」
“大丈夫”。
その言葉が、いつもと同じ形で出るのに、胸の奥がざわつかなかった。
ざわつかないことが、また怖い。
「赤ちゃんの心拍、安定してます」
看護師がモニターを指して言う。
「今から分娩の準備に入る可能性があります。先生が来ますね」
“分娩”。
その単語の重さは分かる。
でも、その手前にあったはずの恐怖。
それを思い出そうとすると、頭の中に薄い霧がかかる。
霧の向こうに誰かがいる気がするのに、輪郭がない。
(……誰だろう)
看護師がカルテを見ながら、当たり前みたいに言った。
「ご家族の方、外で待ってます」
「立ち会いの確認、あとでしますね」
“ご家族”。
その単語に、月那の胸が一瞬だけ痛んだ。
痛みの理由が分からない。
分からないのに、涙が出そうになる。
月那は唇を噛んで、息を吸った。
吸った瞬間、胸の底に小さな石みたいな感情が転がっているのに気づく。
——救えた。
誰を?
なにから?
分からない。
でも確かに、“救えた”という安堵だけが残っている。
名前も顔もなく、理由も説明もなく、感情だけが残っている。
医師が入ってきた。
淡々と状況を説明する声。
「処置は予定通り完了」「母体の反応が改善」「このまま出産できる可能性が上がった」
言葉は正確で、現実の速度だけが上がっていく。
月那は頷いた。
頷きながら、ふと気づく。
——夢が、来ていない。
いつもなら、眠りの底に落ちる瞬間、森の匂いか、星の冷たさか、緑の目か。
何かが浮かんで、胸の中心が明るくなったり痛くなったりしたはずなのに。
今日は、何もない。
真っ白で、静かで、ただ眠っただけだった。
(……消えたんだ)
消えた。
その事実が、なぜか少しだけ寂しい。
でも、寂しさの理由を掘ろうとすると、頭が逃げる。
逃げることに慣れたような、軽い感覚がある。
廊下が少し騒がしくなる。
外で誰かが短く話す声。
聞き取れない。
でも、その声の“温度”だけが、なぜか胸の奥をちくりと刺した。
看護師が言う。
「立ち会いの方、入りますね」
扉が開いた。
月那は、反射で身体をこわばらせた。
——誰かが来る。
けれど、入ってきた男を見ても、名前が出ない。
背が高い。
整った顔。
静かな目。
疲れているのに、崩れていない。
その人は、月那の腹を見て、それから月那の目を見る。
目が合った瞬間、月那の呼吸がほんの少しだけ浅くなった。
(……この人、怖い)
怖い、というより——強い。
自分の世界の中心にいた気配がある。
それなのに、名前が分からない。
月那は混乱して、でも混乱を隠す癖だけは残っていて、口が先に動いてしまう。
「……すみません」
「……あなた、は……」
男の喉が、小さく鳴った。
泣き声みたいな音を、必死に飲み込むみたいに。
「……月那」
呼ばれた。
自分の名前だ。
呼ばれて、胸の底の石——“救えた”が、静かに熱を持った。
男は一歩だけ近づいて、それ以上は近づかなかった。
触れたら壊れるものがある、と知っている距離だった。
「……俺だ」
“俺”。
それだけで分かれと言われても、分からない。
分からないのに、なぜか目が痛い。
月那は息を吸って、震える声で言った。
「……ごめんなさい」
「……名前、が……」
言い終える前に、男の表情がほんの一瞬だけ崩れた。
崩れたのに、すぐに戻した。
戻して、静かに頷く。
「いい」
短い。
「……それでいい」
“それでいい”が、慰めじゃなくて、決意に聞こえた。
月那は腹を抱えた。
お腹の中が、ふっと動く。
返事。
生きている。
次の瞬間、腹の奥がきゅっと締まった。
鈍い痛みが走る。
呼吸が浅くなる。
医師がすぐに動く。
「陣痛、来てます」
「ここから早いかもしれません。呼吸、整えましょう」
“整える”。
その言葉を聞いたとき、月那は不思議と怖くなかった。
怖くないのは、“鍵”があるからじゃない。
多分、もう鍵じゃない。
でも、目の前の男が、逃げないからだ。
月那は必死に息を吐きながら、腹を撫でた。
(生きて)
その祈りだけは、名前がなくても言える。
夜の病院は静かだ。
静かすぎるほどに。
でも、その静けさの中で、月那は初めて“運命”ではなく、“命”のために息をする。
そして、扉の外側で。
名前を失ったことを受け入れた男が、言葉のないまま、拳を握って、ほどけないまま立っていた。
病院の天井。白い光。点滴の滴る音。
その全部が“いつも通り”に見えるのに、月那の中だけが決定的に違う。
——息が、軽い。
軽いのに、怖くない。
怖くないことが、まず怖かった。
月那はゆっくり瞬きをして、自分の腹に手を当てた。
丸い重さ。温かい皮膚。内側の生きもの。
その感触だけは、ちゃんと“ここにある”。
(……よかった)
なにが?
なぜ?
理由は続かない。言葉の順番が、途中で切れる。
看護師が近づいてきて、柔らかい声で言った。
「目、開きましたね。おかえりなさい」
「気分、悪くないですか。吐き気は?」
月那は首を振ろうとして、少しだけ遅れた。
身体は動くのに、心が追いつかない。
それでも口は先に答える。
「……大丈夫、です」
“大丈夫”。
その言葉が、いつもと同じ形で出るのに、胸の奥がざわつかなかった。
ざわつかないことが、また怖い。
「赤ちゃんの心拍、安定してます」
看護師がモニターを指して言う。
「今から分娩の準備に入る可能性があります。先生が来ますね」
“分娩”。
その単語の重さは分かる。
でも、その手前にあったはずの恐怖。
それを思い出そうとすると、頭の中に薄い霧がかかる。
霧の向こうに誰かがいる気がするのに、輪郭がない。
(……誰だろう)
看護師がカルテを見ながら、当たり前みたいに言った。
「ご家族の方、外で待ってます」
「立ち会いの確認、あとでしますね」
“ご家族”。
その単語に、月那の胸が一瞬だけ痛んだ。
痛みの理由が分からない。
分からないのに、涙が出そうになる。
月那は唇を噛んで、息を吸った。
吸った瞬間、胸の底に小さな石みたいな感情が転がっているのに気づく。
——救えた。
誰を?
なにから?
分からない。
でも確かに、“救えた”という安堵だけが残っている。
名前も顔もなく、理由も説明もなく、感情だけが残っている。
医師が入ってきた。
淡々と状況を説明する声。
「処置は予定通り完了」「母体の反応が改善」「このまま出産できる可能性が上がった」
言葉は正確で、現実の速度だけが上がっていく。
月那は頷いた。
頷きながら、ふと気づく。
——夢が、来ていない。
いつもなら、眠りの底に落ちる瞬間、森の匂いか、星の冷たさか、緑の目か。
何かが浮かんで、胸の中心が明るくなったり痛くなったりしたはずなのに。
今日は、何もない。
真っ白で、静かで、ただ眠っただけだった。
(……消えたんだ)
消えた。
その事実が、なぜか少しだけ寂しい。
でも、寂しさの理由を掘ろうとすると、頭が逃げる。
逃げることに慣れたような、軽い感覚がある。
廊下が少し騒がしくなる。
外で誰かが短く話す声。
聞き取れない。
でも、その声の“温度”だけが、なぜか胸の奥をちくりと刺した。
看護師が言う。
「立ち会いの方、入りますね」
扉が開いた。
月那は、反射で身体をこわばらせた。
——誰かが来る。
けれど、入ってきた男を見ても、名前が出ない。
背が高い。
整った顔。
静かな目。
疲れているのに、崩れていない。
その人は、月那の腹を見て、それから月那の目を見る。
目が合った瞬間、月那の呼吸がほんの少しだけ浅くなった。
(……この人、怖い)
怖い、というより——強い。
自分の世界の中心にいた気配がある。
それなのに、名前が分からない。
月那は混乱して、でも混乱を隠す癖だけは残っていて、口が先に動いてしまう。
「……すみません」
「……あなた、は……」
男の喉が、小さく鳴った。
泣き声みたいな音を、必死に飲み込むみたいに。
「……月那」
呼ばれた。
自分の名前だ。
呼ばれて、胸の底の石——“救えた”が、静かに熱を持った。
男は一歩だけ近づいて、それ以上は近づかなかった。
触れたら壊れるものがある、と知っている距離だった。
「……俺だ」
“俺”。
それだけで分かれと言われても、分からない。
分からないのに、なぜか目が痛い。
月那は息を吸って、震える声で言った。
「……ごめんなさい」
「……名前、が……」
言い終える前に、男の表情がほんの一瞬だけ崩れた。
崩れたのに、すぐに戻した。
戻して、静かに頷く。
「いい」
短い。
「……それでいい」
“それでいい”が、慰めじゃなくて、決意に聞こえた。
月那は腹を抱えた。
お腹の中が、ふっと動く。
返事。
生きている。
次の瞬間、腹の奥がきゅっと締まった。
鈍い痛みが走る。
呼吸が浅くなる。
医師がすぐに動く。
「陣痛、来てます」
「ここから早いかもしれません。呼吸、整えましょう」
“整える”。
その言葉を聞いたとき、月那は不思議と怖くなかった。
怖くないのは、“鍵”があるからじゃない。
多分、もう鍵じゃない。
でも、目の前の男が、逃げないからだ。
月那は必死に息を吐きながら、腹を撫でた。
(生きて)
その祈りだけは、名前がなくても言える。
夜の病院は静かだ。
静かすぎるほどに。
でも、その静けさの中で、月那は初めて“運命”ではなく、“命”のために息をする。
そして、扉の外側で。
名前を失ったことを受け入れた男が、言葉のないまま、拳を握って、ほどけないまま立っていた。
0
あなたにおすすめの小説
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」
星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。
ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。
番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。
あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、
平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。
そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。
――何でいまさら。オメガだった、なんて。
オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。
2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。
どうして、いまさら。
すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。
ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
転化オメガの優等生はアルファの頂点に組み敷かれる
さち喜
BL
優等生・聖利(ひじり)と校則破りの常習犯・來(らい)は、ともに優秀なアルファ。
ライバルとして競い合ってきたふたりは、高等部寮でルームメイトに。
來を意識してしまう聖利は、あるとき自分の身体に妙な変化を感じる。
すると、來が獣のように押し倒してきて……。
「その顔、煽ってんだろ? 俺を」
アルファからオメガに転化してしまった聖利と、過保護に執着する來の焦れ恋物語。
※性描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
※2021年に他サイトで連載した作品です。ラストに番外編を加筆予定です。
☆登場人物☆
楠見野聖利(くすみのひじり)
高校一年、175センチ、黒髪の美少年アルファ。
中等部から学年トップの秀才。
來に好意があるが、叶わぬ気持ちだと諦めている。
ある日、バース性が転化しアルファからオメガになってしまう。
海瀬來(かいせらい)
高校一年、185センチ、端正な顔立ちのアルファ。
聖利のライバルで、身体能力は聖利より上。
海瀬グループの御曹司。さらに成績優秀なため、多少素行が悪くても教師も生徒も手出しできない。
聖利のオメガ転化を前にして自身を抑えきれず……。
貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない
こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる