太陽王と終焉の月

帰り花

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第三章 月の檻

崩れゆく世界で

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 崩壊は、音を立てて始まったのではなかった。
 最初はただ、世界の呼吸が乱れた。
 風が止まり、雲が流れず、水面が揺れない。
 まるで、大地そのものが息を止めているみたいに、すべてが静まり返る。
 それは破滅の兆しではない。
 すでに破滅が始まっている証だった。

 魂は本来、流れるものだ。
 生まれ、燃え尽き、土に還り、また巡る。
 その循環があるから、世界は保たれる。
 魂は命の灯ではない。
 世界そのものを回す歯車だ。
 一つひとつが小さくても、止まれば全体が軋む。
 軋みが増えれば、やがて崩れる。
 だがソルは、その歯車を一つ――止めた。

 魂の固定。
 それは単なる拘束ではない。
 神の与える不老不死とも、異なっていた。
 魂は、何かに縛られるものではない。
 無理やり繋がれたルナの魂は、流れから外れてしまった。
 巡らない魂は、世界の循環を止める。
 循環を止める魂は、世界に“詰まり”を生む。
 小さな詰まり。
 だが、世界は巨大な器だ。
 巨大な器ほど、詰まりに弱い。
 血管が一本塞がるだけで命が死ぬように、魂の流れが一つ塞がるだけで、世界は死ぬ。

 その“停止”が起きた瞬間。
 世界のどこかで、何かがずれた。
 音もなく。
 光もなく。
 ただ確実に。
 窓の外で、空が歪んだ。

 寝台の上で、ソルはルナを抱いていた。
 腕は強い。
 逃がさない強さ。
 だが、乱暴ではない。
 むしろ丁寧だった。
 壊れ物を扱うような触れ方が戻っている。
 失わないと確信した者だけが持てる、歪んだ優しさ。

 ルナの銀の髪が、枕に広がる。
 白い肌に、崩れゆく空の光が淡く映る。
 その光の中で、ソルの瞳だけが燃えている。
 赤い炎色。
 世界が消えても、消えない色。

「……静かだ」
 ソルが呟く。
 窓の外では、遠くの塔が崩れていた。
 音は遅れて届く。
 低く、重い、終わりの音。
 だが、彼の声は穏やかだった。
 恐怖がないからではない。
 満たされているからだ。

 ルナは外を見つめる。
 空に走る裂け目。
 沈む海。
 崩れる地平。
 すべてが終わっていく。
 ゆっくり。
 確実に。

「……代償です」
 ルナが言う。
 責める声ではない。
 ただ、真実を置く声。
「魂を縫い止めた代償」

 ソルは否定しない。
 理解しているからだ。
 魂を固定した瞬間、世界の理が悲鳴を上げたことを。
 巡るはずのものが止まり、理が裂けたことを。
 だが、それでも。

「それでいい」
 短く言う。
 迷いなく。
「お前がいる」
 それだけ。
 世界とルナを秤にかけるまでもない。
 初めから、答えは決まっている。

 城壁が崩れる。
 海が泡立つ。
 森が沈む。
 世界が順番に死んでいく。
 だが王の寝所だけは、静かだった。
 静かで、温かい。

 ルナは目を閉じる。
 胸の奥が、静かに痛む。
 恐怖ではない。
 後悔だ。

(止められなかった)
(あなたが壊れるのを)
(止められなかった)

 救いたかった。
 孤独を。
 渇きを。
 拾われなかった少年を。
 怪物になってほしくなかった。
 そのために、残った。
 そのために、触れた。
 そのために、耐えた。
 だが結果は――
 世界が壊れた。

 これは、ソルだけの罪ではない。
 ルナは知っている。
 自分も原因だ。
 自分が残ったから。
 自分が見捨てられなかったから。
 自分が彼を“選び続けた”から。

 ソルの指が、頬を撫でる。
「寒くないか」
 ルナは首を振る。
「いいえ」
 そして静かに言う。
「温かいです」
 それは、真実だった。
 外の世界は死んでいくのに、
 この腕の中だけは生きている。
 それが救いであり、罰だった。

 唇が触れる。
 柔らかく。
 ゆっくり。
 逃げないと知っているのに、確かめるように。
 触れ合うたび、ソルの炎は静まる。
 王ではなくなる。
 ただ一人の、男になる。

 ルナは思う。
(この人は)
(こんな顔ができたのに)
 どうしてもっと早く救えなかったのだろう。
 どうしてもっと早く抱きしめなかったのだろう。
 どうしてもっと早く――
 愛を教えられなかったのだろう。

 後悔が満ちる。
 だが、涙は出ない。
 もう過去が、存在しないからだ。
 外の世界と一緒に、崩れた。

 空が裂ける。
 光が崩れる。
 世界が終わる。
 だがソルは見ない。
 見ているのは、ルナだけだ。

「ルナ」
 名を呼ぶ。
 低く。
 祈るように。

「はい」
 返事。
 変わらない返事。
 逃げない返事。

 ソルは囁く。
「もう離れない」

 ルナは答える。
 穏やかに。
 確定した真実として。

「ええ」
「永遠に」

 隣にいると誓ってくれた、緑の瞳。
 世界が崩壊する中、隣にいるのは彼ではない。
(これはきっと、世界を崩壊させた、わたしへの罰)

 窓の外で、月が砕けた。
 白い円が静かに割れ、闇へ沈む。
 世界の終わり。

 だが寝台の上では、何も終わらない。
 魂が固定されているから。
 世界が消えても、巡りが止まっても、時間が壊れても――
 この結びつきだけは壊れない。

 世界は崩れた。
 空も、海も、大地も、命も、祈りも。
 そうして最後に残ったのは、

 世界を代償にして縫い止められた、二つの魂だった。
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