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しおりを挟む当時の事を思うと、春翔は何故レイジに声を掛けられたのか、未だ不思議に感じている。たまたま居合わせたにしても、あの場に居たのは春翔だけではない、一体レイジは自分の何を見て社員に勧誘したのか、一度会ったら聞いてみようと思うのだが、あの日、初めて会った日以来、レイジが春翔の前に姿を見せる事はなかった。
「おはようございます」
ビルの一階は事務所と応接室。二階はレッスン室、三階は社長室と重要案件のみ使用する特別な会議室がある。春翔はこの会社に勤めて二年目を迎えるが、三階には一度も足を踏み入れた事がなく、必要でなければ行くことを禁じられているという暗黙のルールがある。
「おはよう、春翔君」
大きなホワイトボードにペンを走らせていた男が振り返る。彼は里中隼人、レイジの元マネージャーで共にこの事務所を立ち上げた、レイジの右腕である。春翔に仕事を教えたのも隼人だ。レイジが普段どんな仕事をしているのか分からない春翔にとっては、彼がこの会社を回しているのではと思う程、仕事も出来て頼れる人物だ。彼は笑顔の似合う爽やかさも持ち合わせ、色素の薄い髪は長すぎず短すぎず清潔感があり、ワイシャツも良く似合っている。そしてノンフレームの眼鏡を掛けていた。
「おはようございまーす」
春翔の次に入って来たのは、望月涼。春翔の先輩社員でリュウジのマネージャーをしている。勝ち気な瞳が印象的な小柄の女性で、いつもパンツスタイル、髪は明るいブラウンのショートだ。
それぞれが挨拶を交わしデスクにつく、事務所には五人分のデスクが置かれているが、社員は春翔を含め三人だけだ。時折、パートやアルバイトとして事務員を定期的に雇っている。
隼人がペンを置くと、そのまま今日の予定や引き継ぎが流された。ホワイトボードには今週の日程が細かく書かれている。
柔らかな微笑みは穏やかで、おっとりとした印象を与えるが、隼人の仕事振りは淀みなく、テキパキと作業をこなし人を動かす。いつか自分もあんな風に余裕を持って仕事の出来る人間になれたらと、春翔は憧れていた。
「じゃあ今日もよろしくね」と締めくくった隼人に、涼と共に返事をしながら、今日も頑張ろうと、すっかり落ち着いた心に気合いを入れ、春翔は仕事に向かった。
春翔の今日の予定は、午前に事務仕事、午後は外回り。夕方には会社に戻り、バッカスのレッスンに顔を出す予定だ。涼は既に会社を出ており、春翔も皆が帰って来たら会社を出れるように準備を整えていた頃、スマホのアプリにメッセージが入った。
「え、赤点…?」
それは和喜からだった。小テストの点数が赤点続きの為、急遽補習を受ける事になったらしい。春翔は思わず頭を抱えた。学業の為、レッスンが遅れる事は仕方ないにしても、赤点続きとは、マネージャーとしてではなく、和喜の兄として心配になる。あまりにもこのような状況が続くようなら、もっと学業を優先させる活動方針も考えなくては。因みに、真尋は成績優秀な為、和喜の補習に付き添ってくれるらしい。兄は、弟がいい友人を持てた事に感謝した。
そこへ、事務所のドアが開いた。
「ただいま」
「お帰りなさい、里中さん」
「もう出るか?」
「はい、そろそろ出ます」
スマホを鞄にしまい、戻ってきた隼人にそう答え、春翔はスマホを鞄に仕舞い荷物を整えた。隼人は暫し春翔の様子を眺めてから声をかけた。
「春翔君さ、最近どう?」
「え?」
「頑張ってくれてるからさ。実は困ってる事とかあったりしないかなと思ってさ」
「いえ!僕は、」
言いかけた春翔の頭を過ったのは、和喜の姿だ。
「もしかして、和喜が何かしでかしたでしょうか…?」
「え?和喜君?」
「リュウさんへの態度は礼儀を欠くものばかりですし、リュウさんは優しいから何も言いませんが、もしかしたら和喜が何か失礼な事をしてしまったのではないかと」
すると、隼人は違う違うと穏やかな顔で笑った。
「純粋に、春翔君が無理してないか気になっただけだよ。でもその様子なら大丈夫かな」
「す、すみません!お心遣い感謝します…!」
大げさだよと笑って、隼人は春翔の肩をぽんと叩いた。
「まぁ無理はしないでね」
「はい!ありがとうございます!」
そうして、「行ってきます」と、元気良く出て行く春翔の背中を、隼人は少し難しい顔で見送っていた。
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