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しおりを挟む「春、逃げろ!!」
「え、」
思いもよらない怒号に身が竦む。
「春ちゃん!」
戸惑っていれば別の方からも声が飛んでくる。川岸から駆けてくるその声はユキだ、だが、いつもと様子が違う。焦りと緊迫した様子が伝わってくるが、春翔にはそれが何なのかが分からない。目の前で災害が起きてるわけでも事件が起きてるわけでもない。ただ静かな土手の風景があるだけだ。
「え、どうしたんですか?」
訳が分からず、けれどつられるように怯えながらとりあえず彼らの側へと一歩踏み出した時、突然視界が揺らいだ。
「え、」
リュウジの姿が遠退いたように感じたのは、視界が空を向き、正面にぽっかりと浮かぶ月が見えたからだ。何かに思いきり右足を引っ張られたせいでバランスを崩し、体が仰向けに倒れ込んでしまった。突然の事で成す術なく倒れたが、思いきり引っ張られたお陰で立っていた場所から位置がずれ、背中と頭をコンクリートに打ち付けるのは免れた。土手の斜面に体を打ちつけ、草と土の濃厚な匂いに包まれる。草のお陰で、体の痛みはそれほど強くなかった。
「わ、」
だが、安堵する間はない。体はそのまま土手の斜面を滑っていく。何かに足を掴まれ引っ張られているのだ。慌てて顔を起こし、その存在を確かめるが、掴まれている筈の右足には誰もいなかった。
「春!」
リュウジが春翔に駆け寄り手を伸ばす。春翔もリュウジに助けを求め手を伸ばすが、二人の手は触れ合う事なく、春翔の体は何者かに引きずられるまま斜面を勢いよく滑っていく。体を捻って草や土に手をかけるが止まらない。腹這いになって焦って顔を上げる、リュウジの姿が徐々に遠くなり、得体の知れない敵わない力が怖くて泣きそうになる。
しかし、急流に飲み込まれた木葉のような体験は、突然終わりを告げた。
「まったく油断も隙もない!」
声が聞こえ腹這いのまま振り返ると、すぐ側にユキが居た。ほっとしたのも束の間、ユキは月明かりを背負い、春翔を見下ろしていた。その瞳は鋭く、これがあのユキなのかと疑ってしまう程、恐怖が再び体を駆け抜けていった。氷のような眼差しは何を意味するのか、思わずユキから離れようとするが、右足が引っ掛かって動けない。まだ何かがこの足を掴んでる。焦ってユキを見上げれば、彼は春翔の足元を見つめている事に気づいた。
そこに何があるのだと、春翔が困惑のままユキを見上げていると、ユキは小さく息を吐いて、春翔の足元に扇子をかざし、それをそのまま横に凪払った。とても緩やかで優雅な動きだったが、一拍後巻き起こったのは突風だった。予想外の出来事に、春翔の体は前に倒れ、薄ら目を開ければ、辺り一体の草木が風により薙ぎ倒されているのが見てとれた。
すぐに風は緩み、春翔は呆然としたままゆっくり体を起こした。今の風はあのユキが持つ扇子が起こしたものなのだろうか。俄には信じられない事だが、春翔にはそう見えた。だとしたら、ユキは何者なのだろう、妙な事続きで、頭がついていかない。
「ユキさ、」
一体何が起きているのか、とにかく今のこの状況を尋ねようと顔を上げた春翔だったが、ある変化に気づき言葉を止めた。
何かがいる。目の前のある部分だけ景色が揺らいで見える。目の錯覚かと思ったが、霞みのような存在は次第に色を持ち始め、現れたものの姿に、春翔はぎょっと目を見開いた。
「ひ、」
そこには女が居た。恐らく女だと、春翔は思った。腰の下まである長い黒髪、灰色の肌、ギロリとユキを睨む瞳はつり上がり、赤く燃えているみたいだ。腰から下は足の代わりに蛇のような尾をうねらせており、長い牙のような爪を生やした手は春翔の足首をしっかりと掴んでいた。それを見て、春翔は慌てて女の手を振り払おうとするが、その手はびくともしない。いくら春翔が細身だからといえど男だ、普通の女性の手なら払いのける事は出来たかもしれない、だけど相手は普通ではない。とぐろを巻く女の足にゾッと悪寒が走る。
彼女は、人間じゃない。では何か、お化けか怪物か、春翔の足を掴む女の手は石のように冷たく固く、目に映る全てが夢で無い事を知る。
現実に、確かに今ここに存在している、そう理解してしまえば、安全とは言い難い正体不明の目の前の存在が、ただただ恐ろしかった。
「さぁ、隠れんぼは終わりだよ。この子放してくれないかな。あいつ怒らせたら止めるの大変なんだよね」
ユキは“あいつ”と言いながら視線は女から逸らさず、顔の向きを僅かに背後に向ける。その示した方向を春翔が目で追うと、川岸の方から誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
「春」
そちらに気をとられていると、背後から小さな声が聞こえた。慌てて振り返れば、リュウジが側に来てくれていた。きっと女を刺激しないようにだろう、「大丈夫だから」と、口の動きだけで伝えてくれる。
その姿に春翔は涙ぐみながら頷いた。訳の分からないこの状況で、いつもと変わらないリュウジの存在は、春翔を安心させてくれた。
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