鈴鳴川で恋をして

茶野森かのこ

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「こいつがそんなに大事?」

ほっとしたのも束の間、女が口を開き、春翔はるとはびくりと肩を震わせた。それと同時に、右足が重くなった気がした。強く掴まれたのかと思ったが、不思議と痛みは感じず、ただただ重い。そこで女の手に目を留めた。冷たく固い石のような手。

石になってる…?

胸に芽生えた不安に、恐怖が再び押し寄せる。どうしようと顔を上げれば、ユキもそれに気づいているのか、春翔の足に目を向け眉間に皺を寄せた。ユキに伝えようと口を開いたが、それは声になる事はなかった。ユキが一瞬だけ春翔を見て微笑んだからだ。分かってる、大丈夫というように。

「当然の事聞かないでくれ。こちらの世の者を巻き込むわけにはいかないからね」
「本当にそれだけかい?」
「どういう意味だい?」

女はふっと笑むと、掴んでいた春翔の足をそのまま引き寄せ、今度は春翔の頭を片手でわし掴み、その顔に引き寄せた。ユキもリュウジも思わず顔色を変え身構える。

「ただの人の子ではないんだろう?」

髪を引き掴まれ、春翔の顔が痛みに歪む。解放された足は依然重たいままで泣きたくなる。そんな中聞こえた女の的外れな言葉に、何を言ってるんだと春翔はやはり意味が分からず困惑した。自分はただの人間、取り柄も特にない普通の人間だ。しかし、春翔の思いに反し、ユキは何故か表情を厳しくしている。

「…何でそう思うんだい?」
「図星かい?それなら余計に手放すわけにはいかないね」

自分が優勢に立ったとみたのか、女はいやらしく笑み、長い舌で唇を舐めた。その姿に春翔は思わず身震いする、女は人では無いのだと改めて感じ、まさか自分を食べるつもりではと怖くなる。
ユキは広げた扇子を口元にあて、溜め息を吐いた。気持ちを落ち着けようとしてるのかもしれない。

「どうするつもりだい?その子を手にいれてさ」
「どうしようかね、初めは人質を盾に逃げるつもりだったが、それではつまらない。だってお前たち、この人の子、傷つけるわけにはいかないんだろう?」

ふふと笑いながら、ユキとリュウジの囲みを抜け出そうと、蛇の足がずるずると音を立てながら動き始める。追おうとするユキに、女はすかさず春翔の髪から手を放し、今度は逆の手で春翔の首を後ろから掴むと、盾にするよう自身の前に春翔を掲げた。

「動くんじゃないよ!傷つけたくないんだろ?」

もう一方の手が春翔の頬に爪を立てる。ピリッと小さな痛み走った後、何かが頬に伝い落ちてくる感触がした。初めは頬を爪で撫でられているのかと思ったが、春翔の頬に触れていた女の手は、宙に浮いている。
血だ。あの爪で切られ、頬の傷から血が伝い落ちているのだろう。軽く触れただけなのでさほど痛みは無いが、あの爪は触れただけで簡単に人の皮膚を破ってしまう事が分かり、春翔は恐怖に息を呑んだ。女の手は今、春翔の首にある。女が手に力を入れれば、簡単にこの首は切られてしまうだろう。

「分かった、これ以上動かないよ。話をしよう、それで望みは何?」
「一族の復活だ」
「は?」
「お前達の事は良く知ってるよ、半妖の王子殿は有名だからね」
「おい、」

思わずといった様子で口を挟もうとするリュウジを、ユキは静かに手で制する。女は気づいていないが、リュウジにはユキのその背中が、怒りで滾っていることはすぐ分かった。

「それで?」
「腐っても妖の世のトップに座す国の権力者だ、お前達の力があれば、我々一族の地位を取り戻す事も容易いだろう」

女の言葉に、ユキは再び溜め息を吐き、リュウジは苛立たしげに頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

「無理だ」
「無理ではない!これは命令だ!」
「キミさ、自分達が何をしたか忘れた訳じゃないよね。私利私欲の為に灰の国の民がどれだけ苦しめられたか、その後、君達が何をしたか」
「うるさい!」

怒鳴り声と共に突然視線が高くなる。地についていた足が浮き、春翔は慌てて自分の首を掴む女の手にしがみつく。地上に居た時よりも、ぐ、と首が締まり苦しくなるが、それは束の間の事で、地上が遠くなればなるほど息苦しさは和らいでいった。首を掴んでいた女の手はみるみる内に大きくなり、春翔の口元から上半身を覆ってしまった。そのお陰で首が締まる事はなくなったが、一体何がどうなったのか、春翔は戸惑いながら下を見下ろす。ユキとリュウジの姿が自分の足元に見え、視界の端に女のものと思える蛇のとぐろが見える。振り返ると、人の形をしていた女の顔は蛇の物へと変わり、その大きさに唖然とした。
女は巨大な蛇へと変わり果てていた。
黄色く光る瞳、切り裂かれたような大きな口には尖った歯がびっしりと生え、長く黒い舌がはみ出しうねうねと動く。春翔なんて簡単に丸呑みにされてしまいそうだ。胴体も太く、とかげのように生え出した手も爪も大きい。小さな爪が触れただけで簡単に血が流れたのだ、大きさが変われば威力も増すだろう、それが春翔の喉元に、体に巻き付いている事は変わらない。

「私は交渉しているのではない、命令しているのだ!出来ぬのなら今すぐにでもこいつの喉元を掻き切るぞ!」

ぐ、と前に体を突き出され、爪が喉元に向かう。

「春!」

ユキの顔が歪み、リュウジがたまらず声を上げた。
その時だ、何の前触れもなく、ぽつ、と目の前に火の玉が現れた。ガスの火のように青く、だがそれよりもどこか儚く揺らめいている。
なんだこれは、春翔が思った途端、ぎゃああという叫び声が聞こえ、驚いて女を振り返ると、巨大な蛇の顔が、体が、青い炎に包まれ燃えていた。

「なに、」

そして、驚く間もなく体が再び宙に浮く。青い炎の熱に悶え苦しむ蛇が、火を払おうと懸命に手を振っている。その際に、春翔の体を手放したのだ。

「春!」

燃える巨大な蛇を見上げながら、成す術なく春翔の体が地面に向かって落ちていく。地面に打ち付けられるのを覚悟して春翔は固く目を閉じたが、落下の衝撃は予想より軽く、え、と驚いて目を開けば、自分の下にリュウジが体を滑り込ませている事に気づいた。

「リュウさん!?」

リュウジが自分の下敷きとなり、自分を庇ってくれていたのだ。タレントを守らなければいけない立場の自分が、タレントに守られているという状況、もし傷でも負わせ仕事に穴を開けてしまったらと、不意に過る現実に、春翔は顔面蒼白になり、慌ててリュウジの上から飛び退いた。

「た、大変な事を僕は…!すみませんリュウさん、怪我は!?」
「俺はどうだっていい!早くこっちに来い!」

しかし、すぐさま体を起こしたリュウジに手を引かれ、春翔は促されるまま立ち上がり駆け出そうとした。

「え、」

だが、右足が動かない。それどころか感覚もない。本当に石になってしまったみたいだ。

「リュ、リュウさん、足が…!」
「大丈夫だ、掴まってろよ」

リュウジは春翔を安心させるように目線を合わせて軽く笑むと、春翔の足を掬い上げるように抱き抱えた。横抱きにされ、思わず春翔はリュウジの胸元にしがみつく。戸惑いつつもそのまま運ばれ、ユキの元にやって来ると、そこに見知らぬ人影があった。

「ゼン!これ以上はダメだよ!術を解いて!」

ユキがその人に向かって抗議している。地面に下ろして貰った春翔は、リュウジに支えられながら立ち上がる。ゼンと呼ばれたその人は、ユキの言葉などまるで届いていない様子で、ただ前を見据えて歩いていく。

「おいおい、まずいぞ」

リュウジの声にも焦りが滲んでいる。

「え、な、何が起きてるんですか」

戸惑う春翔にリュウジは小さく息を吐き、「焼き殺す気だ」と、静かに告げた。

「ゼン!春ちゃんは無事だよ!リュウが助けてくれた!これ以上手を汚す事はない、今なら捕まえられる!」

ユキの言葉に、ゼンと呼ばれた彼はぴたりと足を止めた。そしてゆっくりと春翔の方へ向き直る。彼と目が合うと、春翔はびくりと肩を震わせた。

ゼンはとても端正な顔立ちをしていた。切れ長の瞳は涼やかで、すっと通った鼻筋に薄い唇。艶やかな長めの黒髪は襟元で一つに結び、着ているのは紺色の着流しで、羽織を肩に掛けている。気品を感じさせる佇まいに、背丈はユキより僅かに高い位だが、放たれるオーラは威圧感となり、その存在感に圧倒させられる。
無駄や欠点が無いと思わせる美しい男性、だから余計だろうか、春翔は彼が怖いと思った。
美しいその瞳は憎悪で鈍く光り、その目に射抜かれれば心臓も恐怖で呼吸を忘れてしまいそうだ。
彼はゆっくりと近づいてくる。春翔は怯え固まっていた。リュウジに支えられていなければ、確実に腰を抜かしていただろう。


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