鈴鳴川で恋をして

茶野森かのこ

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「…すまない、桜千おうせん

顔を伏せて頭を垂れるゼンは、先程まで怒りに取り憑かれていた人物とは思えず、叱られた子供のようにしょんぼりと背を丸めている。

「顔を上げろ、この程度どうという事はない」

美しく可憐な姿からは想像つかない男前な台詞に、二人の様子を見守っていた春翔はるとは惚けてしまった。そんな時、不意に桜千が春翔に目を向け微笑むものだから、ドキリと胸が弾み、春翔は意味もなくあたふたとしてしまう。

「まぁ、気持ちは分からなくもないがな」

桜千はゼンの手からその手をするりと抜き、一歩下がるようにふわりと舞った。

「最悪の結果にならず良かった、私達にはお前が必要だ。彼には感謝しなくては」

そうゼンに言うと、桜千はふわりと春翔の前に進み、深々と頭を下げた。

「怖い思いをさせてすまない」
「え、そんな、あの、」
「少しじっとしていてほしい」

桜千はそう言うと春翔の足元に身を寄せ、石のように重たくなっていた右足に向けて小さく息を吹き掛ける。再びふわりと舞って、今度は傷ついた頬にそっと手をあてた。突然目の前に近づいた美女に驚いた春翔だが、体の異変に気づくと更に目を丸くした。

「あれ、足が…」

引きずらないと動かせなかった足に、感覚が戻ってきたのがわかる。頬の傷も、塞がりはしないが、流れた血が止まっていた。

「私に出来るのはここまでだ、心に残った恐怖までは消してあげられない、申し訳ない」
「い、いえ、僕は大丈夫ですから、皆さんに助けて頂いて、あの、ありがとうございます」
「感謝するのはこちらの方だ、ゼンを止めてくれてありがとう」

桜千は再び頭を下げると、すっかり元の大きさへと戻った蛇女を抱えたユキと共に、巨大な門扉へ向かう。
ゴゴゴゴ…と大きな音を上げながら扉が開くと、桜千は蛇女の体に手を翳した。すると、彼女の体は光で包まれ、空中に浮いた。そのまま彼女を連れ、桜千が扉の向こうに消えていくと、再び大きな音と共に扉が閉まり、地響きを上げてそれらは川へと沈んでいった。

全てが元の風景に戻ると、忘れていたように辺りに虫の声が響く。静かな夜の川だ。どこにでもある、恐らくいつもと変わらない河原。こうして普通の風景が目の前に広がっていると、今まで目の前で繰り広げられていた出来事が、全て夢のように思えてくる。いや、夢幻の出来事だったと思った方が納得出来るのだが。そんな風に思考が勝手に現実逃避を始めたところで、ぽん、と肩を叩かれた。振り返ると、困った様に眉を下げて微笑むリュウジが居た。

「その…大丈夫か?」
「…僕は夢を見ていたんでしょうか…」

尋ねれば、ぽんぽんと慰めるように肩を叩かれた。

「残念ながらこれは現実で、その現実についてきちんと話さなくちゃならないようだ。少し待っててくれるか?」

頷く間もなく、リュウジはユキの呼ぶ声に応じ、川の方へ走って行ってしまった。残された春翔は、未だしょんぼり肩を落としているように見えるゼンへと目を向けた。

「あ、あの、助けて頂いてありがとうございました、それから先程はすみません、出過ぎた真似をして」

状況が全く理解出来ないが、だからこそ、蛇女を苦しめようとしたゼンの行動に口を出した事を詫びた。命を奪おうとした行為は肯定出来ないが、元を辿れば、自分がきっかけであのような事態になった、リュウジを探しに来なければ、こんな事にはならなかったのでは。そう思えば、申し訳なさが込み上げてくる。
しかし、ゼンは緩く首を振り、すまなかったと頭を下げた。

「怒りで頭に血が上った。お前にも怖い思いをさせたな、お前が止めてくれて助かった、感謝している」
「そんな、僕は…」

春翔はふと言葉を止めた。ゼンが春翔に一歩近づき、その顔を見上げると、春翔はどきり胸を震わせた。ゼンは、怖い顔でも泣きそうな顔でもなく、とても穏やかな、けれどもどこか寂しそうな表情を浮かべていた。何故自分に対してそんな表情を浮かべているのか、春翔には分からない。けれどその表情が、春翔の胸を締め付ける。彼はそのまま春翔を見つめ、傷のある頬を包むように手で覆った。思わず肩を跳ねさせたが、あの青い炎を放った手は、ただほんのりと温かく、春翔は戸惑いつつもその温もりを受け入れた。

「痛みはないか?他に痛むところは?」
「だ、大丈夫です」

そうか、と安堵した表情に、春翔は引っ掛かりを覚えた。
なんとなく、本当になんとなくだが、覚えがある気がした。だが、彼とは初対面で、そもそもこんな綺麗な人と出会っていたら忘れる筈がない。それとも誰かに似ているのだろうか、いや、この顔は二人といないだろう。

近寄り難いと感じたのは、初対面が怒りに満ちていたからだろうか、寡黙な雰囲気は感じるが、今伝わってくるのは思いの外穏やかな空気と、品の良さだ。それと同時に、彼がまるで映画から飛び出してきたかのような、同じ空間にいるのに、彼がどこか別次元にいるような感覚もした。ここにいるのにこの世界と不釣り合いのような。その違和感が不思議で、だからこそ余計に、どこかで会った事があると感じる自分が不思議で仕方なかった。

今夜の不思議は、今に始まった事ではないが。

「戻ってきたな」

ゼンの呟きと同時にその手が離れていく。ゼンはリュウジとユキを振り返り、春翔に背を向ける。その瞬間、春翔の脳裏に何かが過り、春翔は思わずゼンの手を掴んだ。不思議そうに再び振り返ったゼン、覚えのない背中に、誰かの影が春翔の中に過る。

「あの、あなたは、」

言い掛けた直後、脳裏に浮かんだ影が突然身を翻し、掴み掛けた記憶の糸から手を払われる。え、と言葉を失くした春翔の眼前は暗闇に染まり、くらりと体が傾いた。

「春翔!」

掴んだ手は力を失くし、代わりにゼンの大きな手がその手を掴み引き寄せる。ゼンの腕の中に体が飛び込み、「しっかりしろ!」と体を揺すられるが、何故だか体が言うことを利かない。まるで意識と体を引き離されたよう、誰かに操られているみたいだと、意志に反して重くなる瞼。

春翔はそのまま意識を手放した。







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