鈴鳴川で恋をして

茶野森かのこ

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あの夜、鈴鳴川すずなりがわから家に帰る途中、ゼンは気を失うように倒れてしまった。本来、体の奥底に眠らせている力を無理に解放し、その上影の拘束を無理矢理剥がした体は傷だらけで、血も流しすぎていた。いくら妖の体が丈夫でも、無理を重ねれば傷口は広がるだけだ。
それから、近くにいたミオの部下であるカラスの妖に大急ぎで真斗まことを呼んで貰い、リュウジがゼンを背負って真斗の家に運び込んだ。
真斗の治療を受けている間もゼンは意識を失ったままで、そのまま一週間眠り続け、ゼンが意識を取り戻したのは今朝の事だった。

ゼンが目を覚ますと、まるで魔法のように銀色の長い髪が短い黒髪に戻り、緑色の宝石のような色合いの瞳も、黒く凛々しい眼差しに変わった。
そして、見慣れたゼンの姿にほっとしたのも束の間、動けるようになったゼンは、先ず春翔はるとの姿を確認し、問題がないと分かったのか、今度は皆の制止も虚しく外に出掛けてしまった。鈴鳴川の事が気がかりだったのかもしれないが、それはまるで嵐のような出来事で、春翔はぽかんとするばかりで止める間もなかった。
ゼンは、止めようとする真斗とリュウジの腕をいとも簡単にくぐり抜け、昨日まで眠っていたとは思えない身のこなしだった。だが、動けるといっても能力を使うには今の状態では体に負担がかかりすぎるという、ゼンは見た目にも包帯をあちこちに巻いた、傷だらけの怪我人だ。

「…ゼンさん大丈夫かな」

無理だけは、してほしくない。
そんな事をぼんやり考えていたからか、洗濯かごに取り込んだ物を入れ過ぎたせいか、春翔は洗濯かごを抱えた瞬間、思いの他かごが重く、バランスを崩してしまった。転ぶ、と咄嗟に思ったが、前につんのめった体は地面に倒れる事ない。

「え…」

春翔が驚いて顔を上げると、目の前にはゼンがいた。綺麗で無口な瞳がじっと春翔を見下ろしていて、その近さに春翔は心臓を跳ね上げると、衝動のまま、今度は後ろに飛び退いてしまった。

「うわ!」
「え、おい、」

ゼンは、正面から洗濯かごを受け止める事で春翔の体を支えていたので、まさか春翔が支えとなっていたかごから手を放し飛び退くとは思いもしなかった。それでもゼンは咄嗟に腕を伸ばしたが、その手は宙を掻き、結局春翔は自ら尻餅をついていた。

「いてて…」
「なにやってるんだ」

ゼンは溜め息を吐き、守られた洗濯かごを縁側に置くと、春翔に手を差しのべた。その顔は、言葉とは裏腹に穏やかで優しさに満ち、春翔の胸を再び高鳴らせるには十分の効果があった。

「す、すみません!びっくりしてしまって…!」
「胆が座っていると思っていたが、間が抜けてるな」

遠慮がちに握った手を強く握り返され、あっという間もなく引き起こされる。宙に浮きかけた体は、腰に添えられた手によってふわりと地面に足がついた。温かな手、その温もりに胸はドキドキと打ち付けるばかりだったが、その手首に何重にも巻かれた包帯を見て、春翔は浮かれた思考が一気に冷めていくのを感じた。

「す、すみません!ゼンさんまだ怪我治ってないのに…!」
「このくらい大した事ない、傷も大分塞がってる筈だ」
「そんな、大した事あります!一週間も寝込んでいたの忘れたんですか!?」
「あれは、真斗の、」
「真兄だって大人しくしてろって言ってたじゃないですか!今日はもう外に出ちゃいけませんからね!」

そう言って春翔は、ゼンを家の中へ押しやろうとするが、ゼンは「それは出来ない」と、くるりと振り返った。

「まだ見回りが出来てない」
「それは、朝からユキさんがやってくれてます。リュウさんも今日は早く仕事が終わるから、様子を見に行くって言ってましたし」
「春翔」

ふと、ゼンは春翔の頬に手を添えた。しっかりと視線が合うと、またもや春翔の胸はドキリと跳ねる。綺麗な黒い瞳に、自分の戸惑う姿が映り、春翔は恥ずかしくなった。

「もう、お前を傷つけたくない。お前が傷つかないよう、念入りに結界や境界を見ておかなくてはならない」
「で、でも、体が」
「問題ない、俺は妖だ、人より丈夫に出来ている」
「で、では、僕も連れて行って下さい!」

春翔の申し出に、ゼンは目を丸くし、それから小さく息を吐いた。

「お前はまだ本調子じゃないだろ、大人しくしてろ」

確かに、春翔の体はまだ回復しているとは言えなかった。
ゼンのように寝込む事はなかったが、十年もの間妖に取り憑かれていた体は、時に重石がなくなった風船のようにふわりふわりと覚束なく、頭もぼうっとしてしまう事が多い。かと思えば高熱を出したり、身体中に痛みが走ったり。まだ体が、カゲが取り憑いていない頃の感覚に戻らないからだろうと、真斗は言う。それに、春翔はカゲの力も共有していたので、それが特に影響しているのだろうと。
なので、こんな風に家事が出来るのは、随分調子がいいという事なのだ。

真斗達には、とにかく体を休めていろと怒られてしまうが、居候の身で何もせずにいるのは落ち着かず、仕事も隼人や涼に任せきりで、その上、寮では和喜の事をリュウジを中心に皆に任せてしまっている。何も出来ない自分が申し訳なく、なので、こうして人目のない時間帯にせっせと出来る家事をこなしていた。

だから、ゼンの言い分も尤もであるのだが、春翔にも譲れない思いがある。何たってゼンは、今朝目を覚ましたばかりだ。

「それを言うなら、ゼンさんだって同じじゃないですか!」
「俺とお前は違う」
「違う事ありません!」
「分からないのか!」

突然の怒鳴り声に春翔の肩がびくりと震えた。そんな春翔の様子に、ゼンははっとして目を逸らした。

「…怖がらせてすまない。だが、二度も失いかけたんだ、もうお前を失いたくないんだ」

再び重なる瞳が、切実な思いを伝えてくる。泣きそうに揺らぐ瞳が悲しくて、恋しくて、春翔は胸が熱くなり、引き寄せられるようにゼンの頬へと手を伸ばしていく。

「何、兄貴たぶらかしてんだよ!!」

しかし、その手は体を後ろから引っ張られた事で遠く離れていく。ぎゅうと春翔の体を背後から抱きしめたのは、和喜かずきだ。

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