劇場の紫陽花

茶野森かのこ

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劇場の紫陽花 2

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劇団員時代、佳世かよ彩夏あやかと仲が良かった。もう疎遠になってしまったが、一緒に夢を語り合って、共に夢を叶えるんだとばかり思っていた。けれど、それを叶えたのは片側だけ。
繋がっていた筈の右手を天井に翳せば、電球の明かりが目に染みて、じんわりと瞳の奥が熱くなる。

自分は一体、どうして夢を諦めたのか、どうして夢を見ていたんだろうか。

気づけば生活に追われて、いや、楽な日々に逃げ込んでしまった。職場の人は良い人ばかりで、仕事だって失敗はするけど、やりがいがない訳じゃない。働けばお給料が貰えて、休日は好きに過ごして。

昔は、こんな未来がくるなんて考えもしなかった、佳世は明かりから逃れるように手を下ろし、そのままぎゅっと目を閉じた。

今更、惜しいと思っているのだろうか。

すぐ側に感じていた筈の夢の明かりは、今ではすっかり遠のき、最早、欠片も感じない。そんな自分が、なんだか惨めで情けなくて、佳世は布団を頭から被ると、ぎゅっと瞼を閉じた。

もう、何も考えないでこのまま寝てしまおうと思ったけれど、胸の奥がざわざわと落ち着かなくて、その夜は、どうしてか涙が止まらなかった。



***



もしかしたら、一晩経てば気持ちも少しは変わるかもしれないと思ったが、一晩たったからといって、佳世の中に生まれたもやもやとした感情が、晴れる事はなかった。

今日はせっかくの休日だというのに、これでは台無しだ、だが、ぶり返した過去のもやもやを止める手立てもない。

朝から重い溜め息に体を起こして、ひとまず一日を始めようとカーテンを開けると、まるでカーテンが開かれるのを待ちわびていたかのように、あの黒猫がちょこんとベランダに佇んでいた。

「あ、」

まるで、深い海のような瞳にまっすぐと見つめられれると、佳世は束の間、夢でも見ている感覚になった。時間が途端に逆行を始め、遠くに追いやった過去が目の前に現れたような気がしたからだ。

自分は、寝ぼけているのだろうか。

その妙な感覚は、不安と焦燥の隙間、何か兆しのようなものを感じて、佳世は思わずベランダの戸を開けた。すると、黒猫は驚いたように逃げ出してしまったが、それでも傷を追ったその背中から佳世は目が離せなかった。黒猫は、アパートの一階の庭に出て、それからブロック塀の上を器用に上がると、一度だけ佳世を仰ぎ見て、そのまま町へと姿を消してしまった。黒猫を追いかけるようにベランダに出ていた佳世は、まだどこか呆然としていたが、柔らかな風が頬に触れると、はっとしたように空を見上げた。

そこには、見慣れた筈の穏やかな空が広かっている。

「…気持ちいいな…」

朝の空気なんて、いつも感じている筈なのに、今日は少しだけいつもと違うように感じるのはどうしてだろう。
空にぽっかりと浮かぶ雲をぼんやりと目で追いかければ、不思議と空の向こうが過去と繋がるような気がして、佳世は苦しめる胸の中に、僅か空気の通り道を見つけた気がして、そっと肩を下ろして息を吐いた。

巡る過去が、この背中を押しているように思えるのは、どうしてだろう。佳世はなんだか居ても立ってもいられない気持ちになり、慌ただしく部屋の中へと戻っていった。




それから佳世は身支度を済ませると、過去の思いに手を引かれるように、懐かしの劇場に向かった。ずっと敬遠していた舞台を、久しぶりに見てみようと思ったからだ。

輝く彩夏の姿を見て、過去に置いてきた筈の夢や、ただひたすら夢を追いかけていた自分が遠く眩しく思えてならなかった。もう関係ないと思っていたものがこんなにも胸を騒がせるのは、まだ自分は、夢を諦めきれていないからだろうか。才能がない事を、この期に及んで、まだ認めたくないのだろうか。

彩夏に今更並べるわけも、追いつけるわけもないのに。そうやって自分を笑っても、劇場へ向かう足を止める事が、どうしても出来なかった。


佳世が向かった劇場は、自宅の最寄り駅から電車で三駅先、駅から少し歩いた場所にある。駅前の賑わいと、住宅街、そのちょうど境目に、その劇場はあった。

二階建ての建物で、くすんだレンガの赤い壁に重厚感のある扉、看板は今にも傾きそうな危うさがあり、全体的に年季を感じさせる佇まいだ。やっているかどうか疑わしさも感じられるが、不快感はない。この古びただけなのに、どこか趣を感じさせてしまうのが、この劇場の良さでもあるように思えた。

この劇場がいつ頃建てられたのかは分からないが、この町の住人にも親しみを持たれている事は、佳世が劇団に居た頃から感じていた。

ある時、誰かの悪戯で、壁に白いペンキで落書きをされた事があった。それもあちこちに謎のメッセージを描かれ、消すのに途方に暮れていた所、見かねた近所の人達が助っ人に来てくれたのだ。
「この劇場は、この町で共に生きた同士だからね、大切にしてやりたいんだよ」と、近所にある喫茶店“紫陽花”のマスターが言っていたのを覚えている。
それだけじゃない、何かある度に、お肉屋さんや八百屋さん、酒屋さんも差し入れに来てくれて、皆一緒になって騒いで、この劇場が好きなんだと語っていた事。その為にも、劇団員達には頑張って欲しいんだと笑っていた事。

思い出せば胸の奥がじんわりと苦しくなって、佳世はそこから目を逸らすように、壁に貼られた公演中のポスターに目を向けた。今日も公演はあるようだ。

だが、ここへ来て、佳世は迷いの中にいた。


過去を思い出す程、胸に渦巻くもやもやが足に絡みついて、佳世を先へと進ませるのを躊躇わせる。

一度は諦めた夢だ、自分は役者なんて向いてないのだと、自ら引き下がった場所。そこに、自分なんかが再び出向いてはいけないような気がしてしまった。

誰もが大事にしている場所、そこに、こんな中途半端な自分は、必要とされる筈もないと。

劇場の古めかしく重厚な扉に、佳世はそう諭されているように感じてしまい、どうしても一歩を踏み出す事が出来なかった。


「あれ、四宮しのみや?」

やっぱり帰ろう、そう踵を返そうとした所で声を掛けられた。足を止めて振り返り、佳世はその人物に目を止めると、ぱっくりと口を開けて固まってしまった。



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