蔦屋と写楽

坂本 光陽

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素人絵師①

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 酒は好きであるが、酔いが回ると舌が馬鹿になるのか、微妙な味がわからなくなる。普段なら深酒はしないのだが、今夜は飲まずにはいられなかった。

 お江戸の夜は元より暗いのだが、八丁堀のそれは一際暗く感じられる。まるで星ひとつ見当たらない真っ暗闇のようだ。いくら情熱を傾けてみても、工夫を凝らして検討を重ねてみても、かんばしい手ごたえがない。目の前に巨大な壁が立ちふさがっているからだ。

「まるっきり納得がいかねぇな」蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうは馴染みの店で酒をあおりながら、「ちょいとはみ出したことをやろうとすれば、目の色を変えやがって。お上の決め事ってやつは、もっともらしく言っちゃいるが、肝心な部分を抜けていやがる。倹約だの締め付けだの、そんなケチくせぇ決め事が、江戸っ子に馴染むもんかね」

 蔦屋重三郎とは言うまでもなく、草双紙くさぞうし錦絵にしきえ版元はんもとであり、喜多川歌麿の浮世絵や歌川広重の錦絵で一世を風靡ふうびしたことで知られる。

 だが、「寛政の改革」は蔦屋の人生を一変させた。風俗取り締まりの出版規制によって、蔦屋の手掛けた山東京伝さんとうきょうでん洒落本しゃれぼん黄表紙きびょうしが摘発されてしまったのだ。

 幕府のやり口は容赦ようしゃがなかった。山東京伝は手鎖てじょう五〇日の刑を受けたし、蔦屋は財産の半分を没収されてしまった。彼ら二人が見せしめにされたことは、誰の目にも明らかだった。

「しゃらくせい、今に見てやがれ。世間をあっと言わせてみせるぜ」
「あっと言わせるのはいいが、真っ当なやり方で頼むよ」一緒に飲んでいた年配の男が口を開いた。「お上と喧嘩しても、一銭の得にもならない。人間、真っ当なのが一番だ」
「おっ、又さん、何だい、そいつは説教かい」
「説教じゃない。世のことわりを説いているだけさ」

 又さんとは又座衛門こと、国学者・歌人の加藤千蔭ちかげだった。かくゆう加藤も町奉行与力の身だったが、「寛政の改革」で減俸と閉門一〇〇日の刑を受けている。そんな加藤が妙に気が合い懇意にしていたのが、蔦屋重三郎なのだった。

「気に入らねぇな。大いに気に入らねぇ」
 蔦屋が杯を壁に向かって投げつけようとしたので、又座衛門は慌てて制止する。
「そろそろ、お開きにしようか。ほら、親父さんが迷惑そうな顔つきだ」

 ところが、蔦屋はゴロリと座敷に横たわり、そのまま寝込んでしまった。見かけ以上に酔いが回っていたようだ。いくら身体をゆすっても起きやしない。おぶって帰ろうにも、高齢で腰痛もちの又座衛門には無理な相談だ。

 又座衛門が途方に暮れていると、折よく暖簾のれんをくぐって若い男が入ってきた。
「申し訳ない、加藤殿。どうにも外せない用事があったもので……」
「斎藤さん、何をしていたんだい。蔦屋さんは、ほら、この通りだ」

 斎藤と呼ばれた男は、又座衛門から見たら息子のような年頃だが、毅然とした佇まいから、一見して士分の身であることがわかる。

 斎藤十郎兵衛。この時、三二歳。阿波藩主蜂須賀はちすか家お抱えの能役者であり、後に、世間をあっと言わせる張本人となるのだが、そのことは誰も知る由がない。

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