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五月興行①
しおりを挟む旧暦の初夏になった。木々が青々として、さわやかな風の吹く五月である。
江戸三座の一つ、都座の前に、蔦屋と十郎兵衛の姿があった。
演目は『花菖蒲文禄曽我』。伊勢の国・亀山で実際にあった敵討ちを元にした狂言である。元禄曽我の敵討ちとして評判になり、その後、歌舞伎にも数多く脚色されている。
大入り満員の中、平土間の前方に陣取って、二人は舞台を注視していた。予想以上の観客の多さに、蔦屋は内心ほくそえんでいた。
(このむせかえるような熱気は、ここ数年なかったもんだ。この商機を逃す手はねぇ。そのためには、十兵衛さんに気合を入れて描いてもらわねぇと)
だが、それは蔦屋が発破をかけるまでもなかった。舞台が始まるなり、十郎兵衛の目つきは尋常ではなくなっていたのだ。役者たちの台詞や演技を見つめるというより、その裏側に潜んだ本心や真の姿を覗き込むような、そんな鋭い眼光を放っていた。
「どうだい、十兵衛さん、いい絵が描けそうかい?」
「いいねぇ、この役者、一皮むけたんじゃねぇかな」
「この場面は見せ場だ。ぜひ描いておくんなさいよ」
いくら蔦屋が話しかけても、十郎兵衛は反応せず、まったくの無言だった。ただ、一心不乱に画帳に筆を振るっている。
座頭でもある三代目沢村宗十郎演じるところの、大岸蔵人。三代目坂田半五郎演じる、藤川水右衛門。二代目坂東三津五郎演じる、石井源蔵。
十郎兵衛の筆は止まらない。その姿を目の当たりにして、蔦屋は声をかけるのをやめた。余計なことを言って、集中が途切れちゃいけねぇ。そう思って、十郎兵衛の好きなようにさせておいた。
そういえば数日前、十郎兵衛は言っていた。
「すべて大首絵でいきたいと思います」それは彼が初めて見せた、絵師らしい自己主張だった。
大首絵とは、役者の顔を大きく描く構図の絵である。胸から上を描くため、役者の表情を細かく描くことができる。
蔦屋はニヤリと笑って、力強く頷いた。江戸っ子をあっと言わせるには大首絵だろう、と蔦屋自身も踏んでいたのだ。
(どうせ、のりかかった舟だ。じたばたしねぇで、十兵衛さんの好きなようにやらせてみるさ)
そんな蔦屋の想いも知らず、十郎兵衛の中では、一つの葛藤が渦巻いていた。三代目沢村宗十郎、三代目坂田半五郎、二代目坂東三津五郎、主役と準主役を務める彼らの内面をとらえようとしたのだが、どうにもとらえどころがないのだ。
外面と表情を描きうつすことはできる。だが、それだけでは足りない。おそらく、本質的なものが抜け落ちているからだろう。役者の真の姿を浮かび上がらせることは、途方もない難作業だといえる。
手探りでどうにかなるようなものではない。これは相当な難物だぞ、と十郎兵衛は呟いていた。
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