18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」

結局は俗物( ◠‿◠ )

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蒸れた夏のコト 全36話+α(没話)。年下男子/暴力・流血描写/横恋慕/高校生→大人 

蒸れた夏のコト 5

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 祭夜さやの家は代々、夏祭りに向けて祭囃子の指南役をやっている。いずれは祭夜も試験を受けて指南役になるらしかった。彼に誘われて夏霞かすみも近くの公民館に顔を出す。近所の子供たちや小中学生もいれば、高校生も来ていた。防音設備の整った体育館のような造りのホールで練習の時間になると夏霞は邪魔にならぬよう外へと出た。エントランス横の休憩所で腰を下ろす。祭夜は時間のある時に来てくれるだけでいいと言っていたが、夏霞としては受付や楽器の準備や飲物の用意、片付けなどの手伝いに来たため、練習中に出る幕はない。中学までは彼女も弟と参加していた。しかし指南役の補助として参加するのは気が引けた。この後に2人でどこか行こうと祭夜が言ったため夏霞も帰らず待っている。何よりここへは彼とドライブしながら来たのだ。
 ふと静かになった夜の公民館は不気味だ。ホールのドアが開く音で驚いてしまう。出てきた者は通り過ぎるかと思うと夏霞のいるところで止まった。
「夏霞さん」
 まだ若々しい声をしていた。夏霞はその主を捉える。白い肌に色素の薄いさらさらの髪と、ガラス玉のような瞳の美少年が立っている。少年といえども高校生くらいで、華奢ではあるが背は高い。見覚えはある。が、すぐに名前の出てこない者に呼ばれて戸惑った。
「ごめんなさい。誰だっけ?」
 麗しい少年は瑞々しい笑い声を出す。
「いやだな、瑠夏るかです。覚えていませんか?」
 夏霞は思わず苦笑いを浮かべた。誰だか、やはりすぐに出てこない。弟よりも年下の人間ならば接触する機会は限定的なはずだ。弟の後輩だろうか。もしくは受付で名簿に丸を付けた子か。
「瑠夏……?瑠夏くん?えっと、苗字も教えてくれるかな」
「苗字言っても分からないと思います。だって苗字は教えていませんから」
 少年は気分を害した様子もなく、にこやかにそう返した。
「そ、そうなの。ごめんね。あはは、歳とっちゃうと忘れっぽくてダメだ」
 まだ世間的には若い。自分が年老いたとも思っていない。しかし相手を傷付けないよう自虐で切り抜けようとした。
「ちょっと手伝ってほしいことがあって。いいですか?1人じゃ運べそうにないんです」
「うん。いいよ」
 たとえば彼が筋骨隆々な男ならば警戒したかも知れない。他の人に手伝えるか訊いてくると申し出ただろう。しかし彼は線が細い。少し背の高い女性と見紛うほどだ。体格の良い男子がひとりで満足に出来ることに間誤つくこともあるのだろう。
 瑠夏という少年に案内されて暗い倉庫に入る。後ろに彼の気配があれども、電気は点けられない。頼むのも億劫で、夏霞は自らスイッチの元に向かった。伸ばした手が掴まれる。
「捕まえた」
 耳元で声がした。暗闇が彼の気配を消す。
「瑠夏くん……?」
「夏霞さん、僕のこと忘れちゃってるんだもんな。それはそれで好都合だったけど……」
 スイッチに届かず、強く掴まれた手首が軋む。
「瑠夏くん…………放して………?」
 何かの悪戯だろう。しかしただならない気配にされ、努めて優しい声音を作る。
「僕の苗字ですか。南波さざなみです。南波瑠夏です。教えたって、どうせ思い出せないでしょう?」
「ご、ごめんね。思い出すから。思い出す……さっき名簿取った子かな?」
「違います」
「じゃ、じゃあ、暑詩しょうちゃんの後輩?」
 腕がぐいと引かれる。砂糖とは異質の甘い匂いがした。上品な花のような香りだ。
「違います」
「わ、分かんないな」
 冗談めかして愛想笑いをした途端に夏霞は背中を壁に押し付けられた。そして笑って済まそうとしていた唇が包まれる。唇だ。キスをされている。一瞬の感触で把握した。夏霞は少年を押し退けようとする。しかし華奢な印象からは想像もつかない力強さで彼女は壁と薄い胸板の間に幽閉された。血流を止められかねない加減で手首を掴まれ、耳の横で縫い留められている。
「ん………っ、んン、」
 濡れたものが唇を割って入ってきた。抵抗するだけ、身体を押し潰される。
「んン、………く、んん、」
 脚の間に膝が割り込んだ。
「ぁ、ふ…………っん、」
 舌が乱暴に口腔を掻き回し、そして徐々に夏霞の舌を誘う。唾液が流入した。口角から溢れ出る。夏霞は目を閉じていた。泉で戯れる音が聞こえる。ぴちゃぴちゃ、ぱちゃぱちゃと、一聞すると無邪気だが舌が縺れ合い絡み合い、吸われる音だ。力が抜ける。脚の間の他人の膝に座ってしまう。ぼんやりした思考のまま意識を手放しそうだった。現状を把握しきれていない。口が離れた。同時に明かりが点く。眩しさに眉を顰めた。直射を遮る人影が彼女の頬を撫でた。
「やめろ」
 少年が言ったのではない。壁の上を転がるように夏霞は首を曲げた。舞夜まやだ。祭夜と親戚なのだから、指南役補佐として来ていてもおかしくはない。
「雨堂を放せ」
「夏霞さん。ああは言ってるけど、あの人もグルですから、信用したらいけませんよ」
 ぼんやりとした夏霞の視線を受け、舞夜は目を逸らした。ふわりと少年の腕に抱かれる。
「妬きもちで計画狂わせないでください。あくまで共有です。抜け駆けはいけません」
 夏霞は自分を抱く腕に爪を立てて引き剥がそうとする。しかし強い。
「僕は練習に戻らなくちゃ。舞夜さんに可愛がってもらってください。僕は後で楽しみます。舞夜さん、思い上がらないでくださいね。僕と貴方は同じ穴の狢ですよ」
 瑠夏少年は夏霞を舞夜のほうに突き飛ばした。あの優しい柔軟剤の香りに受け止められる。
「雨堂……」
「放して!最低…………」
 突っ撥ねた舞夜の狼狽した顔にほんの僅かな罪悪感を抱いてしまう。次に出るはずの罵倒が吐けない。夏霞は顔を背けた。
「雨堂、話したい」
「話すことなんて何もないです!」
 ばつが悪くなって躊躇いながらも背を向けた途端、やはり捕食者は獲物を逃したりはしなかった。背後から抱き竦められ、身動きがとれなくなった。
「好き。好きなんだ。雨堂、好き……」
「放して」
「放したくない。雨堂、俺を見てくれ」
 声こそ大きくなかったが叫びに近かった。同情を乞うような悲痛の色が濃い。
「わたし、カレシいるから。ごめんなさい。あなたのこと、見られない」
「諦められない。どうしてもほしい。どうしても………」
「変だよ」
 反射的に呟いた一言は舞夜にとって予想外のものだったらしい。彼は間の抜けた声を出した。
「わたしあなたのこと知らないし、あなたが一方的にわたしのこと知ってるから、ただわたしのこと気に入らないだけなんじゃないの。多分勘違い。モテそうだもんね。振り向かない人いたら、意識に残るよ」
 いくらか失礼なことを言っている自覚はあるが、失礼以上のことをされている。気が咎めることもない。何よりそれが彼女の正直な見解だった。
「俺の感情まで否定する気かよ…………」
「だって、おかしいもん。わたしあなたに好きになられるようなことしてない……」
「祭夜にはしたのか?」
「だって……祭夜ちゃんとは一緒にいたし……………」 
 絞め殺されるのかと思うほど力強い抱擁は、ただただ暴力的だった。
「好き。好き、好き、好き。どうしていいか分からないくらい好き」
「それがおかしいの!あなたに必要なのはわたしじゃない……あなた、おかしい。変だよ」
 寒気がする。いくら見目が良くても好きでない男から執拗に好意を伝えられるのがここまで気味の悪いものとは思わなかった。告白を決意するありがちなラブソングの歌詞すらもおぞましく感じられそうだ。
「可愛くて素敵な人、いるでしょ?なんでわたしなの……」
「理由が要るのか?いくつ挙げればいい?ずっと見てた。いくつでも挙げられる」
「だってそれって、高校時代のわたしでしょ?もうわたしは高校生じゃない。あなたが遠目から見てるわたしだって、本当のわたしじゃないかも知れないのに。理想を押し付けるのはやめて。わたしは……わたしはカレシ居るの知ってるクセに言い寄ってくる人なんか、嫌いだよ。不埒だよ。諦めて。お願い。わたしのこと、冷めてよ」
 解放されるどころか背後から締め上げる力は強くなっていく。
「冷められるなら、あんた傷付ける前にそうしてたさ……あんたがそんな理不尽なこと言ってくる女でも、まだ俺はあんたのこと、」
「やめて!聞きたくない」
 肌に減り込む腕を剥がそうとするが舞夜は動じない。
「あんたを手に入れる」
「やめて……!いや!」
 引っ掻いた。暴れる。藻掻いて堅固な拘束から抜け出た。転びそうになる勢いを使ってそのまま部屋を出る。外に飛び出した。温い夜風を涼しい。薄暗い外灯の周りに蛾が飛んでいる。駐車場に数えられるほどの人気ひとけがあった。先程の落差に感情が負荷を肉体に訴えはじめた。視界が滲む。唇を噛んだ。祭囃子の練習が聞こえる。公民館に隣接した公園まで歩く。来るんじゃなかった。ふと浮かんだ考えを振り払う。この土地に?見学に?夏霞は顔面を両手で覆った。また祭夜を"捨て"ようとしている。そのときは二度と彼には会わないようにする。裏切るくらいなら自ら失恋を選ぶほうがいい。祭夜もそれだけ早く、次の相手を見つける余地を持てる。高校生の時分から結婚前提で交際を求められていた。それが冗談だったとしても日頃から結婚願望が強い様子だったのだから、迷いが生じた時に別れを切り出すのなら早ければ早いほどいい。
―別れたくない。
 不合理だ。公園の鉄錆臭い水道で口の中を洗う。手を洗う。まだあの男の匂いが染み付いているような気がした。ブランコに揺られる。まだ終わりの時間まであった。だが砂利を踏む音が近付いて、彼女はびくりと振り返った。
「夏霞ちゃん」
 祭夜が立っている。
「あれ、練習は……」
 鼻声になっているのが自分でもよく分かった。
「夏霞ちゃん、具合悪いって聞いた。舞夜が引き受けてくれたよ。ごめんね、待たせて。帰ろうか」
「だ、大丈夫!わたしが勝手についてきただけだし。祭夜ちゃん、練習に戻って。公園で遊んでるから。わたし全然元気だよ。祭夜ちゃんのいとこさんの見間違いじゃない?」
 暗闇が目元を隠している。祭夜の表情も読めない。
「ホント?無理矢理付き添わせちゃってゴメンね」
「そんなことない。すごく久しぶりだだったし。かっこよかったよ祭夜ちゃん。ほら、戻らないと悪いよ」
 部外者のあの女のせいで練習がはかどらないなどと思われるのは屈辱だ。
「夏霞ちゃん……もう暗いし危ないよ」
「もう少ししたら中で待つから。ね?わたしは大丈夫」
「……うん」
 祭夜は踵を返した。公民館に向かい、一度外灯に照らし出される後姿を見て夏霞はまた涙を溢れさせる。別れたくない。しかしあのおかしな男がセットになって付いてくる。また"捨て"ようか。短いながらも言葉を交わすと祭夜に対する恋慕と罪悪感に押し潰されそうだ。あの男に何か悪いことをしただろうか。恨まれているに等しい。復讐心と恋愛感情を勘違いにしているのだ。暫く歔欷きょきしていたがやがて涙を拭く。公民館の中に戻り、また休憩所の端に座った。かなり古い雑誌を捲る。園芸に関するものだ。目元がひりつく。文章は見出しさえ読んではいなかった。祭夜に何と言おうか、そればかりだ。舞夜にされたことについてではない。誤魔化せない目元と声だ。泣いたとなれば相応の理由がある。膝に乗せた端末が光った。映画を観に行ったという弟からのメッセージだ。これだ。配信されていた映画を観て泣いたのだと。
 隣に人が座る。対面も空いているというのに真横に座った。膝が当たるほど近い。すでに端に座っていたが夏霞はさらに詰めようとした。隣に来たものは夏霞の肩に凭れ掛かった。
「帰らなかったんですね」
 まるきり存在を忘れていた。瑠夏とかいう子供が甘えたように頭を擦り寄せる。
「瑠夏くんだっけ」
「泣いたんですか。舞夜さんに泣かされた?」
 顔を見合わせると、色素の薄い目が驚いたように見開かれる。触れようとしたシラスみたいな手を避ける。祭夜以外にはもう触って欲しくない。
「違う」
「酷い人ですね、好きな人を泣かせるなんて」
「そういうんじゃないよ。もう練習終わったの?」
「はい」
 この男子高校生の危うさを夏霞は失念していた。彼女にとって弟よりも年下の彼は子供のすることで、些細なものだった。取るに足らないものだ。猫と遊ぶのとそう変わらない。否、舞夜という男の存在が祭夜との関係も相俟ってあまりにも厄介極まりなく、瑠夏のことなど忘れさせてしまった。この色白の男子高校生にされたことなどは今の夏霞にとって人懐こい小型犬の戯れとそう代わりがない。
「それなら早く帰ったほうがいいよ」
 手を握られた。夏場だというのにホールはよほど冷房が効いていたのか汗ばみもせず冷たい指だった。
「何?」
「僕のこと、思い出せませんか」
 少年の意外にも男性的な凹凸を持つ手の間から自分の手を抜こうとした。だが叶わない。砂の中に潜んでいた捕食者みたいに勢いよく彼女の手を鷲掴む。
「放して。ほらもう帰りなさい。親御さんが心配するよ」
「僕のこと思い出すまで帰りません。帰って欲しいなら早く思い出してください。ヒントは、僕の名前の一文字、夏霞さんと同じです」
 付き合いきれない。面倒臭い男子高校生に絡まれてしまった。清純な優等生という身形をしておきながらやっていることは繁華街のキャッチセールやナンパよりも粘着質だ。
「思い出しましたか」
「新手の、なんかそういう運命論みたいなの出してくるナンパみたい。ほら放して。子供は帰る時間だよ」
「僕はまだ夏霞さんにとって子供ですか」
 桜色の唇が可憐に動く。大きく澄んだ瞳に真っ直ぐ射抜かれた。さらさらとした髪が傾げられた首に従ってすべっていく。
「高校生でしょう?わたしから見たら子供だよ。だから大人を揶揄わないの」
 その流れで手を振り解こうとするが、瑠夏という不気味な美少年はまだ手を放さない。
「瑠夏くん。放して」
「カレシさんに、夏霞さんと別れてくださいって言おうかな」
「ちょっと……いい加減怒るよ」
 半分気にした。しかし相手はやはり弟よりも幼い子供である。冗談のつもりで言い返したつもりが、声音はそうではなかった。残りの半分、踏み抜かれたほうの響きを帯びている。
「夏霞さん、あの人たちと別れて僕と付き合いませんか」
「いけません。高校生と付き合うとか犯罪だよ」
 先程の失態を隠そうと彼女はなるべくふざけた調子を繕った。瑠夏は清楚な顔をしてにこにこしている。
「じゃあ僕が大人だったら付き合ってくれるんですか」
「それはないね。わたしカレシがいるから」
「カレシさんと別れていたら?」
 微笑を浮かべながら少年は距離感の分かっていない質問をする。笑って済ませられたものを、夏霞は露骨に顔を顰めてしまった。今の彼女にとっては決して仮定ではないのだ。
「付き合いません。だってお互い好きじゃなかったら付き合えないでしょ」
「僕は好きですよ、夏霞さんのこと。あとは夏霞さんですね。どうですか。脈はありますか」
「ない。ほら、早く帰りなさいったら」
「どうしてないんですか。努力します。多分これからもっと背も伸びますし、筋肉もつけます。大学も結構いいところ目指してます。なんでですか」
 しつこい子供に夏霞はこの場を去りたかったが狭い休憩所はソファーの端に追いやられるとテーブルと隣の人の足に遮られて出ることができない。
「弟より年下は対象外なの」
 瑠夏は黙って俯いてしまった。
「君が大人になる頃にはわたしもう結構歳だしさ」
 彼女自身、特にそうは思っていないが、明らかに傷付いている少年を前に取り繕わずにいられない。
「君は今はまだ若いから年上の女の人がよく見えるんだろうけど、同年代にも素敵な人がきっと見つかるよ」
 瑠夏はまだ項垂れていた。
「泣いちゃいます、そんなの。生まれはどうにもできないじゃないですか……」
「そう。だからお姉さんのことは諦めて、もう揶揄わないの。早く、帰った帰った」
 ふざけているのかと思った。そう思いたかった。瑠夏は肩を震わせ、突然咽ぶ。夏霞はぎょっとした。彼は両手で顔を覆って泣きはじめる。
「瑠夏くん……」
「酷いです。こんなに好きなのに。酷い……そんなふうに、もうどうしようもできないこと言うなんて…………」
「ごめんなさい。そこまで本気だったなんて……思わなくて」
 休憩所脇の階段から降りてくる利用者たちの視線を集める。2階も使われていたらしい。そして―
「夏霞ちゃん!お待たせっ!ちょっと早く上がらせても…………何?どうしたの?」
 泣きじゃくる瑠夏とそれを宥めようとする夏霞の姿に祭夜は固まった。
「夏霞ちゃん?」
「えっと……わたしが酷いこと言っちゃって…………その、」
 男子高校生から言い寄られたのを本気に受け取って辛辣な言葉を吐いて泣かせてしまった、ということを祭夜には言えなかった。恋人のある身で見ず知らずの男児に言い寄られ、それを間に受けるなど夏霞にとってはあってはならない。ふしだらな行いのように思えた。勘違いさせるようなことをした覚えはなかったが、舞夜の例がある。
「酷いこと、言っちゃったの?なんでまた」
 祭夜は泣いている瑠夏の肩を抱いて慰めに入った。
「あの、わたし……」
「ごめんね、夏霞ちゃん。この子送ってくから。夏霞ちゃんのことは一旦舞夜に頼む」
 ずくりと胸が跳ねた。祭夜は一度も彼女のほうを見ずに、涙を拭う瑠夏を駐車場に誘導していく。息が乱れた。呼吸ができない。胸を押さえる。目が空気に炙られる。エントランスも弱く冷房が点いていたが夏霞の身体は一気に汗ばんだ。瑠夏に対する罪悪感と、祭夜に対する不安、そして舞夜に対する恐怖が彼女から正常な呼吸を奪った。弟や叔父に頼ろうか?しかし祭夜とのことで頼るのは憚られる。
 ホールのドアが開いた。話し声が聞こえる。足音が近付いてくる。
「ああ、いる。分かった。乗せて帰ればいいんだろう。いや、いい。大した手間じゃない」
 舞夜だ。彼は電話をしながら夏霞の異変に気付いた様子で、昏い目に驚きが走った。
「また連絡する」
 舞夜は電話を耳から離し、縮こまる夏霞に触れた。激しい息切れで肩を上下する彼女の背を規則正しいリズムで撫で摩る。
「雨堂。落ち着け。無理に吸おうとするな」
 過呼吸になった原因ともいえる張本人によって夏霞は介抱された。腕は彼を拒むが、相手の力のほうが強かった。首に滲む汗を素手で拭われる。呼吸が落ち着いていく。脱力感に襲われ背凭れに寄り掛かった。まだ胸のあたりに違和感がある。舞夜と目が合ってしまい、咄嗟に逸らした。
「あの………その、ありがと」
 癪でも通す筋はある。しかし相手の顔は見られなかった。ぐっと胃の辺りが固まるような違和感に襲われながら礼を言う。
「祭夜から頼まれた。俺があんたを送っていく」
「い、いいです。自分で帰れます……」
「歩いてか?」
「途中でタクシー拾うから……」
 この男の世話になるのならどれほど遠くても歩いて帰ったほうがいい。幸い、多少無理をすれば帰れない距離ではなかった。今の時代は連絡すればタクシーも呼べる。
「祭夜に頼まれているから、乗っていけ」
「祭夜ちゃんにはわたしから上手いこと言っておくから、気にしないでください」
 よろよろと立ち上がる。舞夜の横の狭い場所を通り過ぎようとして腕を掴まれる。
「送っていくだけだ」
「あなたに住所知られるの、嫌です」
「近くのコンビニに停める」
「……家族に迎えに来てもらいます。それなら祭夜ちゃんもあなたも納得してくれるでしょ」
 嘘である。この時間、叔父は酒を飲むのが日課だ。弟もそれに付き合っているか、そうでなくても彼等の時間がある。
「分かった……」
 舞夜は潔く腕を放した。
「迎えが来るまで待つ」
「いいです。一緒に居たくないので……早く帰ったほうがいいですよ」
 彼は何か言いかけたが、結局先に外へと出て行った。夏霞は休憩所に残ったまま、突然押し寄せた言いようのない悲しみに再度泣きじゃくった。泣きたいのは予定を潰された祭夜だろう。不甲斐なさにまた涙が止まらなかった。暫く声を殺し、警備員の巡回が来る前に外に出た。温く粘こい空気をの中を歩く。少し行けばコンビニエンスストアがある。そこでタクシーを呼んで酒を買う算段だった。飲んで忘れれば良い。目元も浮腫みで誤魔化せるだろう。治安はそう悪い場所ではないのだ。
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