18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」

結局は俗物( ◠‿◠ )

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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟

雨と無知と蜜と罰と 6

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 霙恋えれんの出てきた淫夢とは比べものにならないほどの苦行だった。男性器を口に入れる拒否感だけでなく、長いこと開口していなければならない顎の疲れ、嘔吐反射の気配は夢にはなかった。雫恋かれんの要求に従うつもりでいても苦しさと疲れに上手いこといかない。歯を立てないようにするので精一杯だった。それでも当たる。
「へたくそ、姉貴。でも姉貴っぽい」
 頭を両側から固定され、耳を塞がれている。口内で唾液を掻き乱される音が曇って聞こえた。膨張を舌と内膜で感じる。
「ぁ………姉貴……」
 苦みが混じる。あくまでも姉の頭を動かしていた肘が止まり、雫恋自ら腰を振る。口蓋垂のさらに奥まで貫かれ、生理的な涙が溢れた。吐き気を堪える。膨れ上がる弟の先端部を舌と上顎できつく締め上げ、圧迫された敏感なプラムは喉へ逃げた。しかし喉でも嚥下のために締め付ける。雫恋は自分の腿に縋る姉の手を強く握った。汗ばんでいる。
「ぁ……ね、きっ、姉貴っ、ぁっ!」
 加霞かすみは硬く目を瞑り、激しい浮遊感に耐えた。口や喉から空気が漏れ、卑しい音がする。意図せず声帯が震える。
「ぐ……っ、ふ………ぅんんッ」
「出る……!飲んで、飲んで……姉貴……っ!イく、ぁ―……」
 後頭部を押さえられると加霞は逃げられず、喉奥で爆ぜた粘液を受けざるを得なかった。息ができなくなる。苦しさのあまり放精の余韻に浸る弟の砲身を噛んでしまう。
「痛ッ!」
 勢いよく腰を引かれ、加霞は床を向いて喉を押さえた。舌を伝い、粘度のある白濁が落ちる。雫恋を慮る余裕はない。何度も嚥下する。弟の味を避けられない。やがて精神的な部分も作用して彼女は嘔吐えづいた。生のジャガイモを齧ったときの質感が消えない。えぐみが気持ち悪く、無理矢理に咳をした。白濁を流しきり、床には彼女の涎が広がる。肩が大きく上下した。喘鳴がリビングを支配する。
「俺が子供作れなかったら姉貴の所為だよ。一生、俺に股開いて償ってね」
 げほ、げほと咳を作る姉の顎を掬い上げ、彼は意地悪く笑った。
「ちゃんと綺麗にして?血が出てるなら舐めてよ」
 まだ硬さを保ったものが彼女の口唇に乗る。教えられた苦しさが従順にする。



 舞夏まなつ宝生ほうしょうがやって来る前に加霞は着替えた。何度もうがいをしたが喉の違和感は流し切れず、声も嗄れている。髪にブラシを入れ、軽く化粧を直した。
 インターホンが鳴り、彼女は心臓が止まる心地がした。直後に玄関扉の奥で会話が聞こえる。舞夏と宝生だ。安堵でさえも疲労に変わる。
「いらっしゃい」
 2人を中に迎えた。
「お邪魔します。どうぞ、これ」
 宝生はうやうやしい態度で紙箱を加霞に渡した。
「ありがとう。すぐ出すね」
「嵐恋くんはショートケーキにしました。期間限定でイチゴが2コ乗ってるんですって」
 それから舞夏がやってくる。小麦粉の焼けた芳ばしい香りとバニラの甘い匂いを漂わせた紙袋を渡される。
「加霞サンに、クッキー……ごめんな、いきなり押し掛けちゃって」
 舞夏の訪問は日常的である。彼もその自覚はあるのだろう。ただ今日は人数を増やした。彼の中でも断れず、加霞もまた良心から断れなかったことを読み、その負担を詫びているのだろう。
「ううん。ありがとう。いただくね」
 済まなそうにも、気拙そうにも、不機嫌にも見える舞夏に気を回し、加霞も努めて明るく振る舞う。
「加霞サン、風邪?」
「ううん。ちょっと、さっき噎せちゃって……」
 真っ直ぐな大きい吊り目から彼女はふい顔を背けた。彼の純真無垢な目は鏡のようである。
「何から手伝ったらいいですか」
 先にリビングに入った宝生が訊ねた。
「わたしがやるから大丈夫。座っていて。テレビも点けていいから。リモコンは、そこの台」
 舞夏は定位置を宝生に譲っていた。テレビが点く。しずくれんこと雫恋の所属するアイドルグループLove la Dollの新曲発売のCMが流れた。主に10代20代あるいは30代40代の女性をメインターゲットに据えたキャラクター設定にプライベートで姉を陵辱し、女を道具と見做しているような様子はない。それでいてSNS慣れした一部の捻くれたアマチュア批評家たちは「女を殴っていそう」と揶揄、冗談のつもりで発信しているのだから皮肉なものである。実際加霞は殴られたりはしなかったけれど、不本意な性行為を強いられ、十分に暴力といえた。さらに脅迫も添えられている。
「すごいですね、雫恋さん」
「みんなに好くしてもらってるみたいだからね」
 あまり草臥れた様子のない白い小皿に金色のフォークを出して2人に配る。
「今、紅茶淹れるからね。舞夏まなちゃんからこの前もらったやつ。何がいい?」
 小箱を持っていって数種類あるティーバッグを宝生に選ばせる。タロットカードを思わせるデザインが洒落ている。
「ボク、ルイボスティーって冷たいのしか飲んだことないです。だから熱いの、飲んでみたいです」
「うん。じゃあこれにしようか。いいかな、舞夏ちゃん」
 猫目に精悍な顔が首肯する。キッチンで電子ポットが沸騰を告げる。紅茶の贈物に入っていた紙には沸騰させないだの、推奨温度だの、蒸らす時間だのが記してあったが、久城くじょう家はあまり紅茶というものにこだわりがなかった。加霞もそうである。市販のペットボトルの紅茶と自ら淹れる紅茶に差を求めようという気概が無いのである。
 飲み物が揃い、小皿にケーキを取り分ける。まだ嵐恋は帰ってこないが軽食を摂った。宝生はよく喋る。撮影で髪を短くしなければならないことや、学業とスケジュールが合わない後輩の相談や、少し拒食の傾向にあるメンバーの話など、レパートリーは多い。加霞が現役アイドルの姉として、そして舞夏が過去には同じくアイドルだった身として、この2人の口の固さを信じて疑わない様子である。
 熱いルイボスティーを飲む。身体の欲求として喉は渇いていなかったけれど咽喉自体は干涸びているようで水分を入れた。だが余計に掠れる。
「あ、そうだ。これ、栃木くんの没になったオフショットです」
 宝生はハイブランドのロゴが入った鞄から封筒を出した。彼の身に付けている物はほとんど提供品らしい。宝生はアイドルとしての美意識は高いほうで身嗜みに気を遣いすぎなほどに気を遣ってはいるが持ち物という点では小さな頃からそれほどブランド志向ではなかった。祖父の作った革の小銭入れがあるからと、加霞もハイブランドの小銭入れを貰ったことがある。
「ボクが撮ったんですけど」
 彼はモンブランを割く手を止め、封筒の中から写真を出した。足利あしかが尊由起たかゆきこと栃木宗光が不意にフラッシュを浴びたらしく腕を掲げている写真だ。
「もう栃木くんのファンではないそうですし、要りませんか?」
「もらっておくよ……ありがとう」
 舞夏は器用にチーズケーキを食いながら唇を尖らせる。
「また足利ピのファンになっちまうかもな」
 加霞は口には出さなかったけれど、それは無いと断言できた。足利のいるcrown Berrysの所属事務所内も派閥がある。まるで都市伝説で、胡散臭い筋の噂だが、ファンのみならずアイドルにそう関心のない者たちにも知れ渡っていることだ。事務所の幹部役員が退職し、雫恋のいるLove la Dollとclown Berrysは同じ派閥になってしまった。同じ派閥であれば薄寒いほどラジオやテレビ番組で仲の良さをアピールされるのだ。ファンとの仮想恋愛の相手としてだけでなく、所属タレントの深い友情や親密な関係を一種の擬似同性愛として売るのも事務所の戦略らしい。足利を追えば、雫恋に衝突する。自ら不快を求めるつもりはない。末弟と二人暮らしになった今、ライブに行くこともない。
「栃木くんのファンになるんですか?」
 宝生の片手は加霞の手を握った。
「暫くは、そういうの……いいかな」
「やめとけよ、宝生ちゃん。今の加霞サンの推しは嵐恋くんなんだから」
 舞夏はじとりと2人を一瞥する。加霞は加霞で否定もしなかった。揶揄に近かったが多少の気恥ずかしさはあれど、確かに彼の前で弟に対し過保護かつ過干渉な自覚がある。ただこの揶揄の対象に嵐恋が含まれているようなところは彼女の中でわずかばかり引っ掛かった。姉離れのできない幼児だとでも言いたいのか、と。しかしそれは言外のものを勝手に読み取っているだけのもの、後ろめたさが聞かせた幻聴であるという判断も彼女にはついていた。
「いいですね、そういうの。ボクの母さんも父さんもボクのこと推してくれますよ」
 宝生は加霞が思うよりもおかしな意味で受け取ったわけではないらしかった。朗らかに微笑む。カメラの前では"宇宙人アイドル"などと称号を与えられるほど世間知らずの不思議な少年を演じているが、実際の彼はなかなかに聡く朗らかである。
「嵐恋くん可愛いし、推したくなるの分かりますよ。モテるんじゃないですか?」
「どうだろう、そういう話聞いたことないかも。義理チョコとかなら貰ってくるけれど……」
「もしかしてお返しって、お姉ちゃんの手作りですか」
 彼はにかりと笑った。引き攣っているようにも見える。
「うん」
 乾いた笑いが帰ってくる。
「変かな?手作りってやっぱり食べにくいか」
「他の人のは分かんないけど、加霞サンのは見た目綺麗だし美味しいからだいじょぶ」
 彼女の微苦笑にすかさず舞夏は口を挟んだ。宝生は少し驚いた顔をしてから加霞を見た。
「―だそうですね。ボクもお姉ちゃんの手作りお菓子、また食べたいな。昔いただいたカスタードケーキ、すごく美味しかったですよ」
「じゃあまた今度作るね」
「はい。その時は買い出し、ボクも行きます」
 モンブランの頂点にある栗を放り、彼は美味そうに咀嚼する。弟が帰ってきて、そこに参加した。嵐恋はあまり宝生を覚えていなかった。舞夏にべったりで、珍しく人見知りをしている。この末弟は宝生を年下だと思っている節が見受けられる。言葉の端々から年上であることは分かるはずだが、嵐恋は年下に対して内気である。実兄たちには虐げられたが他の年長者にはよく可愛がられていた。そのため実際は年下であろうともいざ年長者の立場になると自己の見え方が分からないようだ。宝生は加霞に目配せをして苦笑する。
「あーくん、覚えてない?昔よく公園行ったんだけどな」
 兄代わりにぴったりとくっついて借りてきたどころか誘拐してきた猫みたいに萎縮している嵐恋はこくりと頷いた。哀れっぽい猫を兄代わりが撫でる。それでいてしっかりとイチゴの2つ乗ったショートケーキは食っている。
「クラスの女の子のカバンに付いてた……」
 顔写真を雑誌やプロマイドから切り抜きキーホルダーにする文化が加霞の少し上の世代にあった。オンライン通販が主流の時代になるとアイドルショップに行かずとも事務所公認のキーホルダーやアクリルスタンド、クリアファイルなどが気軽に手に入るようになった。アイドルショップは地方などだと時折アイドルショップ自体が事務所非公認だったり、商品に用いられたアイドル写真が事務所から禁止された手法を取っているものも混在していた。
「あっ、ボクのファンがクラスにいるんですね。嬉しいな。でもナイショですよ。ボクが嵐恋くんのお姉さんとお友達だってこと」
 弟は素直に頷いた。芸能人が家族にいる身として弁え方は小さな頃から刷り込まれている。
「ごめんね、北条くん。あーくん、いつもは人見知りしないんだけどな。北条くんこうやってるとしっかりしてるけど、自分より若い子だと思ってるみたい。若い子苦手だからあーくん」
 後輩ならば家に連れて来るほどに仲良くできるところからして宝生のことを中学生くらいに思っているらしい。
「そうなんですか。喜んでいいんですかね。美容には気を遣っているので」
 リビングのソファー前ローテーブルは2組に別れてしまった。舞夏は人見知りの子犬を摩りながら宝生と話す加霞を見ている。
 宝生は温くなったルイボスティーで素っ頓狂な返しをしたり甘い歌声を出す喉を潤した。
「お姉ちゃんと素敵なおやつの時間でした。そろそろ帰りますね」
 彼は共に来た人を気にする素振りもなく立ち上がる。嵐恋は行儀悪くフォークを咥えたまま固まって、年下だと思い込んでいるらしきアイドルを見上げている。
「差し入れありがとう」
 加霞も玄関まで付き添い、靴を履き終えた宝生と向き合う。
「いいえ。突然お邪魔しちゃいましたし、当然です。ボクもモンブラン、美味しかったですから。お姉ちゃん、のど飴あげます。これ効きますよ、プロポリス配合です」
 彼女は咄嗟に喉に触れた。掠れた自分の声にも喉奥に残るえぐみにも慣れていた。
「……ありがとう。気、遣わせちゃったね。アイドルの子が言うなら間違いない。いただきます」
 差し出された飴の包装を破って口に放る。甘さは控えめだった。のど飴によくあるハーブの風味と舌の横の辺りがきゅっと締まるような独特の苦味がある。
「お姉ちゃん」
 別れ際に目の前でいきなり飴玉を食らったことに呆れているのかと思われた。しかし彼は何か物言いたげに三和土から彼女を見上げている。
「何?」
 飴が歯に当たる。その音が嫌いではなかった。
「変なタイミングで電話しちゃってごめんなさい。いつもボク、聞いてもらってるし……よかったら、聞きます」
「な、何を……?」
 宝生はこだわりのある色白の顔をぼっと薄紅色に染めた。
「お姉ちゃんの……声」
「え?」
「お姉ちゃんの……してる声…………あの、夜、またお電話してもいいですか?」
 ぼそぼそとした喋りは加霞の耳に届かない。
「これから栃木くんとご飯行くんです……体重増やさなきゃって2人で話し合ってて……だからその後…………」
「う、うん。時間空けておくね」
 今度は聞き取れた。"ヘルスケア"の相談のことらしい。足利尊由起と会った後というのが加霞の中で断りづらくさせた。同性愛者でないと言っていて、また足利尊由起に恋愛感情を抱いてはいないと話しているが、足利が宝生にとって何かしらのトリガーになっていると彼女は踏んでいる。
「それじゃあ、また夜に」
「うん」
 彼女もサンダルを履いて、玄関前まで見送った。それから宝生が階段を降り、エントランスを抜け、建物の外へ出て敷地外、塀の影に消えていくまで互いに手を振った。
 リビングに戻ると嵐恋は自分のだけでなく客人たちの皿も片付けていた。
「姉ちゃん、風邪ひいてるん?」
 弟の可憐な目がころんと姉を見つめる。
「ひいてないよ。ちょっと喉に詰まらせちゃって、咳き込んじゃったの」
 まだまだ彼女にしてみれば未就学くらいに見えてしまう弟が抱き付いた。
「気を付けてね、姉ちゃん。喉、詰まらせるん……」
 身長は弟が中学3年生になったあたりから抜かされているはずだが、加霞にはとても小さく幼く感じられる。
「うん。気を付けるよ。あーくんもね」
 嵐恋はこくこく頷く。加霞は彼の頭を撫でながらもう1人の客人を気にした。目が合う。だが舞夏はぷいと目を逸らす。
「舞夏ちゃん、今日はご飯食べていく?」
「いい。いつも悪いし、今日は帰る」
 先に反応したのは彼の弟分である。
「そうなん、マナツ兄ちゃん」
「……おう」
 明らかに嵐恋は落ち込んでしまった。また明日会えることも彼の中では日常化されていない。
「じゃあ今日はそういうことで。でも遠慮しないでね。いつもわたしもあーくんもお世話になってるんだから」
 舞夏は小さく返事をする。彼も客人であるのに宝生にばかり構って、放ってしまったために拗ねたのだ。悪いことをしてしまった。加霞は取り繕うこともできず、舞夏に気を取られ、普段よりも家事にまごまごと時間を喰った。複数の客人捌きも、家事もろくにできない自分を責め、集中力はそちらに注がれる。次弟から手酷く扱われたことや、そのために喉の調子が良くないことも加わった。目を見ようとしない舞夏の姿が彼女の胸を、彼女が引く包丁よりも手際良くずたずたに斬り裂いた。キャベツの悲鳴が丁度良い効果音になる。そして大柄に切り野菜炒めにするつもりだったそれを千切りにしていたことに気付いて加霞はとうとう包丁を手放した。シンク下の収納に背を預けうずくまる。今日は飯を作れないかも知れない。炊飯器の炊飯のボタンが光っているのを見上げ、彼女は膝に顔を埋める。不本意ではあるけれど米さえ炊ければツナ缶や生卵があり、冷凍食品も買い貯めてある。
「姉ちゃん?」
 キッチンに姉の姿がないことないに嵐恋はすぐに気付いた。足音が近付いてくる。加霞はすぐに物を探しているていでインスタント食品の放り込まれたカゴを引き寄せた。
「ここにいるよ」
「びっくりした。倒れちゃったかと思った」
「大丈夫、大丈夫。今ごはん作るから待っていてね。そんなお腹、減ってないかな?」
 ケーキを食べたばかりだ。腹が満たされるほどの量ではなかったが血糖値は十分に上がったはずだろう。
「減ったよ~」
「そう。じゃあすぐ作るから待っててね。野菜炒めでいいかな?」
 千切りにした分は明日の味噌汁に使うことにした。
「うん。手伝えることあったら言ってな」
「わたしのほうは大丈夫だから、あーくんは舞夏ちゃんと遊んできなさい」
 加霞は立ち上がってざっくりとキャベツを切った。ニンジンとピーマンは細かく。豚肉は多めで味付けはほんのりと中華出汁。それに玉子焼きを作れば食べ盛りの少年の腹も満たされるだろう。
「オレもそろそろ帰るよ。また遊ぼうな、嵐恋くん」
 舞夏はやはり加霞のほうを見なかった。無礼な扱い方をされ腹を立てているに違いない。宝生との接し方に確かに大きく差が出たことを彼女は自覚している。とはいえ彼のその立腹を目の当たりにしなければ気が付かなかったかも知れない。謝るにもどう切り出していいか分からなかった。野菜を切る手を止め、鍋を沸かしていた火を止めようとした。
「おでが見送る!」
 姉と兄代わりの間に流れる空気を察してか察していないのか、嵐恋が割って入る。無邪気に引っ付く様子は後者だろうけれど、舞夏はそんな弟分に対しては普段どおりの好青年に変わりない。それで良い。加霞にとって、蜂須賀舞夏という人物が嵐恋の良き兄貴分であれば彼女が自分に対して望むところはない。弟にさえ好い面をしていてくれたなら、気の利かない女だと蔑まれていても。


 夜に宝生から電話があった。まだ声のしわがれていつもと異なる質感を帯びた加霞の声を彼は気にした。落ち込んだときの優しさは口内炎に塩分が沁み渡るときの痛みに似ていた。年下男を相手に密やかに涙をこぼす。通話の本題に入った時、乾くだろう。
『お姉ちゃん』
 足利と飯を食ってどういう話をした、運転や道中がどうのこうの、寄り道云々、まだ非公表だからどうたらこうたらとマウントじみたことを例の如く喋りだすものと思われた。
「なぁに」
 鼻を啜ってしまう。間延びして甘えた声になる。
『お姉ちゃん、泣いてるんですか?』
「泣いて、ないよ」
『そうですか?じゃあボクの気にしすぎですね。今日、楽しかったです。舞夏さんとケーキ屋デートしたことも、お姉ちゃんに行ったことも、もちろん栃木くんとご飯行ったこともですけど。楽しい時間て、終わってしまうと夢みたいですね。ふわふわして。だからこうして電話すると、夢じゃなかったんだなって不思議な気持ちになります。なんだか、電話した目的忘れちゃいました。安心しちゃって。明日も早いでしょう?時間いただいてすみません。ボク、夢みたいな楽しい時間と本当の夢の間にまたこうしてお姉ちゃんと話せて幸せです』
 相槌をうつ。睫毛に涙が絡む。
「おやすみ。ごめんね、上手く話せなくて。でも電話してくれてありがとう」
『お姉ちゃんがお礼言うのは変です。喉の調子悪いの知っていて電話かけたんですから。喉、お大事にしてくださいね。プロポリス、ちょっと不味かったでしょう?でもそれが結構クセになったりして―なんて。それではおやすみなさい。良い夢を、朗らかな明日を―』
 小さな笑い声が聞こえた。最後の言葉はcrown Berrysの曲「隣でgood night」の一節である。"―キミの横で迎えたい"と続く。年下の、それも人々に甘やかな夢を見せる生業の者に慰められているような心地がどうにも靄を作り、拭い去れなかったが、感情という面では相手が誰であろうとも拘泥することなく凪いでいた。いくらか目元が張ったが軽く揉んで横になる。明かりを消してから、あのフレーズが宝生のパート直前の足利パートであることを思い出し、暗に彼なりのマウントだったのか他意はないのか考えているうちに眠った。
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