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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟
雨と無知と蜜と罰と 14
しおりを挟む嵐恋に背を撫でられ、加霞は乾いた唇を震わせる。
「ごめんね、お風呂上がりにこんなことさせちゃって……」
心配そうな8つも下の弟に申し訳なくて仕方がない。
「おで大丈夫。姉ちゃんお風呂、入れる?今日はシャワーだけのほうがいいって、絶対……」
「うん。そうする……ありがとね、あーくん」
粉から作ったスポーツドリンクはあまり美味くなかったが、彼が善意で作ったものだ。それだけで飲み切る価値がある。
「おで、やっぱ明日、行かないよ。姉ちゃんを1人残して行けないもん」
加霞は青白い顔をして苦々しく笑った。胃を捩じ切られるような思いをした甲斐がある。
「ごめんね、あーくん」
「だいじょぶ。雫恋くんにもそう言っておくからさ」
当の雫恋は嘔吐物を片付け、もう一度シャワーを浴びている。
「今度また……遊んでもらおう?」
本音を言えば遊ばせたくはない。加霞は舞夏を都合良く扱き使い、雫恋の約束を潰すよう根回しするつもりでいた。それはもう使えない。使わない。使おうとしたことを恥じるべきだと彼女は自分に言い聞かせた。
「うん。おではへーきだからさ。姉ちゃんは自分の体調のことだけ考えてて」
クエン酸の強い水味のスポーツドリンクを一口飲む。
「ありがと、あーくん。もう大丈夫だから。心配しないで。ちょっと食べ過ぎちゃっただけだから。今度から気を付けるよ。太っちゃうから良くないもんね」
平然と嘘がつらつら並ぶ。嵐恋は何か言いたげな顔を隠せるほど器用ではなかったが、何も言わなかった。リビングを出ていく。落胆したようなとぼとぼと歩く後姿に彼女は眼球を灼かれるようだった。哀れな子供である。誰にも愛されず誰にも救われない。惨めな子だ。ひとりでいながら涙を見せられず、彼女は痛痒い目元を拭った。そして気付く。嵐恋にもこの痕跡を見られていたのだ。
雫恋は二度目のシャワーを終えてリビングにやって来た。
「着替えないの」
「あるわけないでしょ」
「ふぅん」
髪を拭きながら、彼は加霞の前に立つ。
「もしかしてゲロ吐いたのわざと?やるじゃん。誘ったの断られたんだけど」
「……片付けてくれてありがとう」
ソファーから弾かれるように彼女は立った。
「どこ行くの」
「自分の部屋。明日はどこも行かないから、早く帰りなさい」
雫恋は首を捻る。
「まだセックスしてない」
「しない」
「またゲロ吐いちゃうもんな。今度は受け止めてあげるから。生温かいの」
直接嘔吐反射を起こさなくとも、彼の発言でもう一度胃の内容物をぶち撒けそうだった。
「アイドルにゲロ引っ掛けられるのは姉貴だけだよ。俺も姉貴のゲロしか触りたくない」
「気持ち悪い」
「ん?吐く?ほら、いいよ」
彼は両手を揃え掬う仕草をする。
「もう帰って。好き放題したでしょ……」
「キスして。キスしたら帰る。キスしてよ」
ずいと目の前に迫る。加霞は困惑した。腕を出して接近を阻んだ。
「わたし、さっき吐いたばっかだし……」
「姉貴なら気にしないけど、え?キスしてくれるの?」
「それで帰ってくれるなら……明日も来ないで。放っておいて……」
顔を伏せたまま彼女は言った。
「手、恋人みたいにしてキスしてくれたらいいよ」
「……………分かった」
上半身裸の男と掌を合わせ、指を絡めた。そこだけ切り取れば仲睦まじげに見えないこともない。
「好きって言ってね。唇にして。そしたら帰ってあげる。明日も来ないよ」
「約束、して。本当に…………」
「うん」
彼は姉の背丈に合わせるよう、姿勢を低くした。長い睫毛を伏せ、眠そうな眼差しはわずかに上目遣いになる。
「…………す、―」
言いかけて彼女の眉間にはみるみる皺が寄っていった。言い終わらないうちに唇を噛む。
「明日も来ようかな」
「………っ、」
「好きだよ、姉貴。愛してる」
下を向いていた顔を覗き込まれ、彼はそのまま唇を交わした。加霞は振り払うように首を曲げた。
「約束守れなかったね、姉貴。でも帰るよ」
姉の目も気にせず、雫恋は着てきたものを身に纏う。
「じゃあ、また明日。姉貴から好きも言ってくれなかったし、キスもしてくれなかったもんね」
爽やかな口調で嫌味を言って次弟は帰っていった。加霞は突然脱力したが、玄関扉の閉まる音を聞くと玄関ホールに駆け込んで鍵を下ろし、チェーンロックに飛び付いた。
「姉ちゃん」
真後ろから聞こえた末弟の声にぎくりと肩を跳ねさせた。愚鈍ぶりはどうにもできずとも、清廉潔白な身を装うのは容易ではなかった。
「どうしたの?」
「マナツ兄ちゃんから電話来てるんだケド…………今、だいじょぶ?」
「う、うん」
差し出された端末を借りる。スピーカー機能になっていた。嵐恋はちらと姉を一瞥して自室に戻っていく。
「代わった……」
『ちょ、ちょっと、加霞サン?電話繋がらなかったんだけど……』
「あ……う、うん。ごめんね、電話しちゃって………」
宝生の嫌味のない図々しさが羨ましくなった。
『いいって。暇だったし。気にするなよ』
「本当に何でもなくて。ごめんね、本当に。本当…………ごめん」
『具合悪いんだって?嵐恋くんから聞いた』
「ちょっとだけ……食べ過ぎちゃって。大したことないから」
乾き切った眼球が潤んでいく。
『切ろうとしてる?あ~、カレシに悪いことしちまったな。ごめんな、しつこくして』
「カレシ……?」
『何か用あったのかと思ってよ』
普段どおりの爽やかな喋り方が今は痛い。
「明日……」
『明日?オレは暇だけど、何かあんの?』
へらへらと軽妙に彼は言った。明日は予定がないらしい。加霞は固唾を呑む。
「明日、あーくんと、遊んでくれる……かな」
『ああ。もちろん勿論。やっぱ加霞サン、具合悪い?嵐恋くん1日預かろうか?』
思ってもみない提案だった。舞夏にその意識はないだろうけれど、これは避難である。
「いい?」
『いーよー。じゃあ明日迎えに行くわ。加霞サンは寝てて。お大事にな』
「うん。ありがとう。ごめんね、こんなこと、頼んじゃって」
『謝ってばっかだな。気にすんな。オレも嵐恋くんのこと大好きだし、それに……………ははは、加霞サン、あんま気にすんなよ。トモダチじゃん?』
友人だ。そのとおりである。加霞は薄皮が鱗状に照る唇を震わせる。
「うん。舞夏ちゃんみたいな素敵なトモダチがいてよかった」
友人を利用したりはしない。友人に利用価値を見出したりはせず、友人の恋人を比較対象にしたりしない。彼女の価値観ではそうだった。だが"トモダチ"と舞夏が関係に名を付けるのなら、"トモダチ"という立ち位置で許すのならば、それは加霞にとって"トモダチ"である。
『……じゃあ、明日な』
「うん。話せてよかった。ありがとう。あーくんをどうぞよろしくお願いします」
託児所同然に扱っている"トモダチ"との通話を切った。嵐恋の部屋のドアをノックする。
「あーくん、ありがとう」
「うん」
「急で悪いんだけれど明日、舞夏ちゃんと遊んできて」
ベッドに座っていた嵐恋はきょとんと子供みたいな顔をした。
「マナツ兄ちゃん、来てくれるん?」
「うん」
きらきらと純真な瞳が輝いて見える。本当に懐いている相手は舞夏であることが苦しいほどに分かってしまう。だが、ふっ……とそれは線香花火の首が落ちるみたいに昏くなる。
「姉ちゃんは、へーきなん」
気遣わしげな声と表情は加霞の胸を両側から潰すようだ。
「うん。もう何ともないから」
「じゃ、マナツ兄ちゃんと遊んできていい?」
「うん。そうして」
「ありがと、姉ちゃん。ありがと!でも、あのさ……」
彼はすまなそうに礼を言う。何故すまなそうなのか分からない。嘔吐した姉を置いて遊びに行くことが後ろめたいのか。
「姉ちゃん、マナツ兄ちゃんと、別れたの?」
「え?」
手を揉みくちゃにしているのは不安と緊張を表しているようだ。
「ごめん。おでがマナツ兄ちゃんに会いたがったから………」
「え、あーくん?どういう意味?」
「そのまんま……姉ちゃんとマナツ兄ちゃん別れたのに、おでが会いたいって言ったから、また約束取り付けてくれたんかなって」
この弟の言う"別れた"は恋愛関係を指すのだろう。明日、よく懐いていた兄貴分と遊ぶというのに浮かない顔を加霞は凝らしてしまった。
「付き合ってないよ。だって舞夏ちゃん、カノジョいるみたいだし。あーくんと仲良くても、わたしもいるから、おうち来るの……カノジョさんに悪かったんじゃないかな。だから、もう前みたいには来ないよ。呼んだら来てくれるみたいだけれど……やっぱりカノジョさんに悪いから」
嵐恋はこくんと断首されたみたいに頷く。
「でも、カノジョいるなんて聞いたことなかったからさ。おで、ずっと……姉ちゃんと付き合ってると思ってたケド、姉ちゃんも、カレシいるんでしょ。だから……」
彼女はまた驚いてしまった。ぐいと前のめりになる。
「カレシなんていないよ?なんで?」
「……マナツ兄ちゃんが言ってた。カレシとデート中なのかもなって」
「いつ?」
「姉ちゃんの帰りが遅かった日……」
全裸にひん剥かれ、刺身の器にされた時のことだろう。思えばあの日から舞夏の来訪が途絶えた。加霞は狼狽をひた隠す。
「……そう。でもわたしはカレシとか興味ないから 」
周りに影響され恋人を欲したことがないわけではないが、その時期が落ち着いてしまうと巡り合わせ次第だと思うようになった。必要ではないが、かといって望まないものでもない。自ら好きになるのではなく、自ずと好いてしまう出会いがあればそれを追うなり身を引くなりするであろうというのが彼女の当分の見通しだ。
「おで……姉ちゃん、ごめん」
嵐恋の思い詰めた表情に、腹立たしい顔が2つ脳裏を過った。
「何?ごめんて」
「…………早く一人前になって、自立する」
「お兄ちゃんたちから何か言われたの?」
彼は旋毛を見せて頭を横に振った。
「姉ちゃんにいっぱい迷惑かけてるから。姉ちゃんにはカレシ作って結婚して、シアワセになってほしいん」
「あーくん」
いつもと少し調子を変え、注意を促すように呼びかける。叱られた子供のような空気感を纏って彼は面を上げる。
「わたしの幸せは、カレシ作ることでも結婚することでも赤ちゃん産むことでもないよ。あーくんがそんなこと気にしないで、お兄ちゃんたちのことも気にしないで、美味しいもの食べていっぱい食べて伸び伸び学校生活送ってくれるのが一番いい」
「……で、でもそれは、おでが居ないと叶わないコトじゃんか。姉ちゃん主体のシアワセは…………?」
本心を告げても嵐恋は余計に悲痛な面持ちをする。ガラス玉みたいに綺麗な目に怯む。
「少なくとも、カレシとか結婚とか、そういうのだけがわたしの幸せじゃないから。そんなの、そういう人に出会ってからじゃなきゃ分からないよ。まだそういう人には縁がないから……考えられない」
まだ納得を弟から読み取れない。
「姉ちゃん。おでは、別にシアワセだからね。姉ちゃんのごはん食べて、友達と遊んで、エレンクンタチトアソベテ……」
聞いてはいたけれど反応ができなかった。どう返していいのか分からない。彼の思い描いた姉の幸せな姿を見せない限り、この弟は悄然とし続けるのか。困惑する。ここまで接し方に迷う子供ではなかったように思う。霙恋や雫恋の忠告が嫌でも耳に戻ってくる。
「あーくん……」
「変なコト言って。ははは、もう寝るし、明日マナツ兄ちゃんと遊べるん楽しみ!」
へら、と笑う彼は繕うのが上手い。素直で嘘も隠し事も下手なくせ、明るく繕うのだけは上達した。それが処世術だった。実家で立ち回るための。兄たちの虐めをいかに最小限におさえるか、いかに家族や大人たちに悟られないようにするか―……
まだ彼の偽装は続いている。地元を離れてもその技量を保ったまま。加霞は強烈に渦巻いた悲哀の念を堪えた。
「そう。おやすみなさい」
軋む睫毛がまた滲みを帯びている。眉根が寄った。
朝飯を食らう弟にファンシーな封筒を持たせ、そして舞夏と出掛けていくのを見送った。舞夏とは一言、二言を話すだけで互いに顔も見なかった。もしあの瀟洒で美しい彼の恋人と争った時に勝てないことを悟った。何によって勝敗を決するかも漠然としたまま、ただ直感として加霞は敗北を確信している。未だにタンクトップワンピースから伸びる形の良い肩としなやかな腕、緩やかにカーブを描く背筋から腰から臀部から、足首のラインまで、あの時の印象が色濃く残っている。舞夏の顔を見ないのが正解であった。彼の声を聞かないのが誠意である。この男の前に立つと惨めになった。自己憐憫と自己嫌悪に情緒は平衡感覚を失いかける。
弟を乗せた車が小さくなっていく。見えなくなるまで道路にいた。異様な息苦しさは病質的なものではない。
マンションのエントランスでポストを確認する。相変わらず謝罪の紙片が入っていた。破り捨ててゴミ箱に捨てる。部屋に戻り、掃除機をかけながらどこかに出掛けようかと考えているうちにそうするだけの気力を失ってしまった。リビングでテレビを点け、観るでもなく聴くでもなく、そして寝るでもなくソファーに横たわる。テロップに雫 漣 が出演と出てリモコンを取った。液晶画面が黒く染まる。暫く虚無に浸っているとわずかながら外に出る気になった。少し雑貨屋を歩いて帰りに買い出しに行けばよい。生鮮市場で魚が安ければ煮物にする予定で数パターンの献立を組む。舞夏は食べていくだろうか。しかし手料理を人の恋人に食べさせるのは何かと不誠実である。だが弟の友人で清い関係のはずだ。慎重な行動こそ却って意味深長な関係を匂わせはしないか。ぐるぐると考えながら部屋着を脱ぐ。地味な下着の上に控えめな私服で身を包む。化粧もそう張り切りっていない。外は晴れているが加霞の気分はほんのりと曇り気味だ。
じゃり、と音がしたかと思うと人影が目に入った。前方を塞がれ、溜息を吐かずにはいられなかった。だが想定と違ったのは、どう見ても黒染め或いは脱色の後に青ベースの黒を入れておきながらバージンヘアだ何だと謳われる黒髪でも、飴色の金髪でもなく、暗い茶髪の人物が立っていることだった。フレームの無い眼鏡が野暮ったくも見えるが妙に斬新な感じを与えた。度が入っているのか怪しいアクリル板を刳り貫いたみたいなレンズの奥に穏和そうな顔がある。それでいてその正体は穏和ではなく、商売のためならば人権侵害も加害に直結する犯罪行為もやるような卑劣な下屑だ。
言葉を交わすのも面倒だった。だが横を通り抜けるのも何をされるか分からない。
「加霞ちゃん、ごめんなさい」
許されない。だがそれを口にすれば逆恨みをされるのだろうか。
「本当にごめんなさい」
この男に対してならば雫恋曰く"警察芸"にはならないはずだ。同時にあの双子には、血の繋がりはなくとも家族としての甘さを持っていたことを知る。かといって怒りは消えない。むしろ厄介だった。
「加霞ちゃんに対して、本当に最低なことをしました」
逆上が怖い。許すと一言放てば終わる話かも知れないが、しかしその短く簡単な言葉が出せない。
「わたしだけじゃ、ないよ」
被害があったのは自分だけではない。加霞はこのことだけは抑えられなかった。許すか、許さないか、求められているのは前者で、加霞の答えは後者である。許すつもりがないのなら、この場に於いて他の言葉を投げることに意味はない。意味はないが、言わずにはいられなかった。
「加霞ちゃん……」
「もういいから関わらないで」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいし、手紙も要らない。ただ関わらないで欲しい。そっとしておいて」
この男は謝りながらも双子たちに情報提供をするに違いなかった。距離を保ったままでいると、マンション住人がエントランスから出てきて邪魔そうに彼の脇を通っていく。
「そうは言っても、」
「弟に迷惑がかかるから。一番下の弟に」
まだ男は引かなかった。先程のこのマンションの住人みたいにその脇を通り抜けてしまいたい。しかし相手は犯罪行為で商売するような輩である。何をされるか分からない。息の根を止められ、死体が上がれば事件になるだけまだいいほうである。だが嵐恋にそのような恐怖の真横で生きていて欲しくはない。彼は残りの長い人生、社会の美しいところだけを見ていればいいのだ。姉はそれを望んでいる。
膠着状態になり加霞はどうするか迷っていた。家に食材がないわけではない。買い出しに行く必要はなかった。雑貨屋巡りもまた気分転換であり、しなかったからといって何かあるわけでも何か失くなるわけでもない。踵の裏で小石を躙る。弘明寺愛恵とか言っていた男の肩越しにまた別の人影を見た。迷子が保護者を見つけたときみたいに駆け寄ってくる。
「姉さん」
強いホワイトの上下のジャージで、ファスナーは襟まで締めている姿から庇護を求めているようなあざとさを感じる。生え際が薄らと黒くなった金髪にピアスが付き、雫漣と同じ面構えをしている。ホストクラブでもそれが売りらしかった。繁華街に看板が出ているらしいが加霞の知った話ではない。
「絡まれているのか」
「別に」
触ろうとする腕を払い除け、エントランスに戻ろうとした。
「姉さん」
歯が浮いて飛んでいってしまうほど甘い声を出して霙恋は加霞に縋りつく。
「何かされたのか?」
彼の顎や頬で髪を撫でられている。ぬいぐるみにされ、加霞はスマートな雪だるまみたいな男を拒む。
「姉には二度と関わるなと言ったはずだ。金輪際手を引くと誓わせただろう」
霙恋は吠えた。駄犬から一気に番犬に変わる。
「気が変わった」
雰囲気からいうと弘明寺愛恵は霙恋を前に弱く出るものと思われた。だが肩を竦める様子は挑発的でさえある。
「もらうものはもらい、払うものは払った。それでお前の仕事は終わった。姉とはもう無関係だ」
「でも僕は精密機械でもロボットでもなくて人間だから、気紛れは起こすよ。良心に従って……」
「半端者め」
加霞の視界一面は黒の金のスポーツブランドロゴが染め出されたスーパーホワイトの化学繊維が占めた。ほわと無難な香水が薫る。薔薇の香りにシュガーな甘さが混ざっている。
「割り切れないならとっとと辞めろ。当分過ごせるだけの金は払っただろう。姉に近付くな」
「言われなくても辞めるよ。でもまだひとつ、調査結果で報告してないことがある」
雫恋の言っていた、舞夏の恋人の件ではなかろうか。加霞は思い当たる節がある。大した関心を抱きはしなかった。だが霙恋は違う。言葉を発しはしなかったが半歩踏み出した足が彼の興味を示している。
「姉さん、俺に何か隠し事があるのか……?」
「知らないよ、そんなの」
この男が何をどこまで知っているのか、加霞が知る由はない。口座番号や暗証番号まで把握されている気になる。
「言え!俺にすべてを打ち明けろ!」
怒声を浴び、彼女は肩を竦めた。冷笑的であらゆるものを嘲り見透かし、幼少時から大人びていたこの長弟も八つ当たりめいたことをする未熟なところがある。
「吠えて無駄だよ。君のお姉さんに吠えても……」
弘明寺は強張った笑みを浮かべていたがそれは演技がかって見えた。虚勢にも捉えられる。はったりの感を濃くしたが、それでいて気拙げな、彼は本当に未報告の情報を握っているような、いやなリアリティを持っている。おそらくその内容は、もしかしたら誰も幸せにならないような―……そういう匂いを漂わせている。
霙恋もそれを嗅ぎ取ったのか、怒鳴り散らした跡に怯えた顔を向けた。八つ当たりをしておいて被害者のツラをしている。加害者扱いされて加霞は眉を顰めた。
「姉さん……すまない。怒って悪かった。許してほしい。姉さんに嫌われたら……俺は生きる意味がない」
まだ嫌われていないと思っているその自信がある意味で羨ましい。だがここでそれを打ち明けたら、何かしらの教唆や幇助になりかねない空気がある。
「もう怒鳴ったりしない。姉さん、許してくれ。許して欲しい………許して。お願いだ。姉さん……」
許す以外に選択を与えない、苦しい抱擁は格闘技に等しい。
「放しなさいよ」
肘を張り、図体が180cm程もある子供を突き放す。
「姉さん……」
身体は離れたが、指先は遠慮がちに握られたままだ。職業柄よく磨かれている爪が艶やかに照っている。血の繋がりはないが戸籍としては実の姉といえる加霞に対しての甘え方、媚び方、|阿《おもね >り方もホストクラブで磨かれたのだろうか。ホストに対する偏見をこのろくでもない弟にすべて詰め込んだ。
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