18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」

結局は俗物( ◠‿◠ )

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雨と無知と蜜と罰と 弟双子/気紛れ弟/クール弟

雨と無知と蜜と罰と 31

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 舞夏まなつの愛嬌のあった顔は強張り、加霞かすみを見つめているようで、ただ呆然としている。よく鍛えられた肉体の上をバウンドし、子種を搾り取ろうとする。苦しさと痛み、酩酊の気持ち悪さ、胴体に空洞を作られたような喪失感、様々なものが混在した。自身が被害者となった強姦魔たちは楽しそうに見えたが、加霞が強姦魔当事者になったとき、あるのは面白みのない感覚ばかりだった。興奮と快感がなければ勃起しないと信じていたが、舞夏も楽しそうではなかった。
「早く、出して…………出してよ」
 後ろについていた舞夏の腕を引っ張る。ブラジャーの上から胸を揉ませた。落ちていこうとする大きな掌を自分の手で留めておく。
「加霞サン………」
 布越しでも彼の掌に胸を押し当てると、今は残酷な安堵感が湧いた。戻れないところに戻ろうとする意思まで起こりそうだ。
「わたし処女じゃないんだよ、驚いた?」
 彼女は自分の狭い内肉を抉じ開け、男根を扱いた。目を白黒させている男に笑いかける。
「……かすみ、サ………止まって………」
「舞夏ちゃんの思うような女の子じゃなくてごめんね?雫恋ちゃんでしょ、霙恋ちゃんでしょ、弘明寺さんでしょ……」
 指折り数える。3人だ。3人だが、うち2人に何度も何度も犯されている。
「それ………、どういうこ、と………」
 舞夏の表情が歪む。与えた快楽を素直に受け入れない男に苛立った。腹の奥が捻じられたように痛むけれど、加霞はそのまま上下に動く。喉を通り越して口まで男の器官が貫通しそうだった。
「早く出して、出してよ、出しなさい!」
 汗ばんでいく。腹が痛い。舞夏のほうに向かって前にのめり、彼の腹を跨ぐように腕をついた。胸の膨らみと膨らみの寄せられた境界を見せてしまう。他者の鼓動を内部で感じた。そして力尽くでり開いた狭い箇所で、望んでいた飛沫を浴びる。消極的な蠕動で吐精を促す。舞夏のほうでもぎこちなく腰を動かしていた。女が放っておかないような容貌やセンスの持主だが、軟派そうに見えて堅いところがある。童貞なのかも知れない。肉体反射に逆らっているのかも知れない。弟をうしなって気の触れてしまった女の弱みに付け入れない誠実とも臆病ともいえない気質を確かに舞夏という男は持っていた。
「ご、め………ん、ごめん、加霞サン……」
 彼の声も聞かずに加霞は立ち上がった。まだ勢いのあるものが粘膜襞に引っ掛かる。鈍く痛む下腹部を撫でた。子種を注いだ人物に対して、何の頓着も見せない。腹を撫でながら彼に背を向け、服を直していく。後ろから来た陰に気付かない。瞬間的に彼女はソファーに突き飛ばされた。何が起きたのか分からない。彼女の視界は大きく回り、天井が一面に入った。酔った頭に危機感が届く。直後、眼前には舞夏の顔があった。
「オレは好きな女としか、したくなかった」
 真っ当な感覚さえ酒によって制限されている。それなりのショックがあった。もう好きではないと言われている。たとえ嫌悪し憎悪している人間からでも、好きではなくなった、嫌いになったと打ち明けられたなら、何の情感も動かないということは加霞の中にはなかった。だがアルコールによって軽減されている。今は言葉をそのまま受け取るだけだった。
「赤ちゃんだけ、ちょうだい。これでバイバイで、いいから……あーくんだけ……舞夏ちゃんにはもう会わせないから、だいじょぶ…………お金、もらおうとしないから…………」
 子供ができたと言って後から男に金や結婚を要求する話は珍しくない。彼はそれを危懼している。他の女の手垢がついて、どこかに子供までいる男を、正式な関係にある女が快く受け入れるとは思えない。
「オレは加霞サンのことまだ好きだよ。でも今の加霞サンは嫌いだ。しっかりしてくれ……自暴自棄になるなよ。なんでオレなんだ?たまたま来たから?加霞サン、オレのこと、男として、好きなの?」
「あーくんのこと知ってる人じゃなきゃ、あーくん、もうわたしのところになんか来てくれない……」
 嫌な気分が迫ってきている。飲む麻酔薬を流し込まなければならない。缶を探した。4缶目を開けるのもいい。起き上がりかけた彼女を男の熱い手がソファーに留め置く。
「加霞サン」
「帰って……舞夏ちゃんに用ないから。舞夏ちゃんは可愛い純潔キレイな子と付き合えばいいじゃん。邪魔しないから……あーくんにパパが誰なのか、言わない。絶対邪魔しない。お金もだいじょぶ……請求したりしない………」
 加霞から押し返すと、舞夏は簡単に押しやられた。しかしまた彼女の上に戻る。
「加霞サンに赤ちゃん産んでもらうから、ちゃんと、結婚前提に、オレと付き合おう」
「いい………!いや!要らない!わたしひとりで育てる。今度はあーくん死なせないから!今度はあーくんのこと殺さない!」
 ぶわ、とへらへら笑っていた彼女の青白い顔が一変し、氾濫した。
「帰って、舞夏ちゃん!帰って!」
 この男はあらゆる悲しみ、苦しみ、悔恨のトリガーになる。
「帰ってよ!もう来ないで!」
 鍛えられた肉体を殴る。弟も大人になればこうなると思っていた。
「舞夏ちゃんは種馬なんだから。舞夏ちゃんに用なんてない。二度と来ないで。もうあーくんいないんだから、仲良くする必要ないんだもん」
 彼女は泣き喚きながら舞夏を押す。彼も顔を顰め、惑乱していた。
「処女の女の子と結婚しなよ!あたし絶対邪魔しないから。あーくんのこと忘れて!バイバイして!」
 舞夏の体格ならば踏みとどまることもできたはずが、彼は多少の抵抗を見せても素直に外まで押されていった。それが本音なのである。加霞は玄関ドアにロックをし、リビングに戻って酒を呷った。弟の遺影が笑っている。缶を置き、彼女はその姿を無表情のまま見つめていた。しかし発作的で突発的に、彼の位牌の前まで這うと、床に額を擦り付けてうずくまる。

 お前が殺したお前が殺したお前が殺した!
 自分が殺した自分が殺した自分が殺した……

 まだ自身もそう大きくない頃から8つ違う末弟から目を離すなと言われていた。部活には入れなかった。高校時代も友人たちと遊んで帰ることはできなかった。そのことが負担だった。彼を人質に弟の双子にいいように弄ばれることに疲れたのだ。彼を慮って舞夏に不要な気遣いをするのが面倒臭くなったのだ。。彼に合わせる生活を厄介に思っていた。。彼の保護者として仕事を早引きしたり学校行事に参加しなければならない生活に嫌気が差していた。
 弟を殺す動機は腐り、土に還るほどある。数えきれない。つらくなって、面倒臭くなって、厄介になって、嫌気が差して殺してしまったのだ。冥界行きの車に乗せてしまったのだ。殺害してしまった。殺人幇助したのだ。
 罪の意識に耐えられない。自首するしかないだろう。
 加霞はよたよたと立ち上がった。髪は乱れたまま、酒臭さを纏い外へ出る。警察署の場所も思い出せなかった。自ら通報することを考えついたが、端末を最後に見たのはリビングのテーブルの上だ。ただの散歩になってしまった。足は土屋東高校に向いている。直線距離で7kmある。途中にある橋で滔々とうとうと流れる川を見下ろした。弟の身を包み、彼から呼吸を奪ったに違いない。恐怖を与えたに違いない。そういう目に遭わせて、殺してしまった。この身で償わなければならない。欄干に手を掛ける。
 きゃはきゃはと瑞々しい若い女の子談笑が聞こえる。土屋東高校の制服を乗せた自転車が数台、通った。後から、よく知る制服も数台、自転車に乗ってやって来る。天気は晴れだ。しかし落雷に遭ったような心地になって、彼女は川に飛び込むことも忘れてしまった。元来た道を戻る。酒を飲まなければならない。酒を飲まずに世間を生きる人間の剥き出しの神経が信じられない。どれだけ鈍らせても逃避できないものがある。
「赤ちゃん………」
 彼女は急に立ち止まった。脇を散歩中の犬が通り過ぎて、その顔を見上げていった。
 嵐恋が腹の中で生きているはずだ。舞夏の元に帰って来るはずなのだ。酒は飲めない。




 ソファーに促される。離れようとした腕に縋りつき、彼と共に腰を下ろす。
「久城さん……」
 呆れた様子で生天目なばためはプルタブの上がった酒缶を振った。ちろちろと液体の揺れる音がした。ソファー前のローテーブルには大量の酒缶が積まれ、転がっている。そのすぐ傍にあるプラスチック製の簡易テーブルには布が被せられている。位牌と額縁の輪郭が浮かび上がっている。
「お酒ばかりですか。何も食べられていない?」
 加霞は返事もしなかった。縋りついた腕を放すと、俯き、膝の上で拳を握っている。
「今日はまだ飲んでいません」
 教師の目は冷ややかだ。
「冷蔵庫を失礼してもいいですか」
「ごはんなら……作ってあります。よかったら食べていってください」
「……しっかり食べられているんですね?」
 彼女はこの問いにも答えない。
「あーくんが好きなものでまとめたんです。あーくんのお兄ちゃんみたいだった人のお茶碗とお箸がありますから。食べていきますか。1人分の作り方、もう忘れちゃって。あの子、よく食べるんです。2人なんですが3人分近く作っていたり……」
「久城のお弁当を見たことがあります」
「……そうですか。恥ずかしいです」
「玉子焼きが美味しいと聞きましたよ。久城の友人たちが言っていました。そのときに」
 おもねたところもなく淡々としている。当初加霞の感じていた、周りから浮いたような雰囲気は変わらずにそこにある。
「あの子とも、話したことがあります。多めに作るという言ったんですけれど、断られてしまって。姉想いな子です。わたしを想うあまり、自由に振る舞えなかった。そんなあの子に………わ、たし…………」
 静かな悲しみがまた乾いた眼球を潤す。
「遊びに行くよう言っちゃったんです。止めればよかった………行かないでって引き留めれば、あの子は………」
 一旦鎮まったものが、今度はゆっくりと焦らしながらやって来る。
「久城さんの所為でありません。久城さんは悪くない。大切な弟が遊びに行きたいと言ったなら、叶えてやりたいものです」
 涙を拭く。目元は腫れていた。
「ごめんなさい。片付けます」
 鼻を啜り、腰を上げようとしたところを生天目に捕まった。冷めて乾いた手に握られている。もう片方の手も取られた。卵を温める鶏よろしく両手を重ねている。
「久城さん」
 そう高くない体温を分け与えられる。眼鏡の奥のぼうっとした目が僅かに伏せる。
「お夕飯、いただいてもいいですか」
「はい。あの子が美味しい美味しいと言って食べてくれたものだから、粗末なものとは言えないんですけれど……生天目先生のお口に合えば、嬉しいです」
 ダイニングテーブルのほうに彼を案内する。
「今、温め直します」
 既製品のきゅうりの甘辛漬けを小鉢に出した。油揚げの味噌汁、インゲンと糸蒟蒻の入った肉じゃがの鍋を加熱する。
 ダイニングテーブルセットに座す生天目をちらと見た。場を持たせようと無理に喋ることもなく、白い壁を凝らしている。
「テレビ、点けますか」
「お気遣いなく。お邪魔しているのはこちらですから」
 愛想笑いをよこすこともない。生徒を誘拐しようとした女の家である。弟が高校を死亡除籍された今、加霞と生天目の接点は何もない。これはただ弟が生きていた頃の縁、生天目の情による繋がりだった。教師の職務に果たして生徒の遺族のケアなど入っているのだろうか。
 味噌汁が温まる。肉じゃがの鍋も小気味良く音を立てている。飯を盛る。
「あの子の好きなものでまとめたので、栄養が偏っているかも知れませんが……」
「気にしていません。いただきます」
「どうぞ召し上がってください」
 彼は合掌したまま対面側に立つ加霞を見上げた。ぽかんとした顔があどけない。彼女は首を捻る。
「手料理、久々なので少し緊張します」
「き、緊張するんですか」
「はい。久々なので」
「堅いことは気にしないでください。元々そこまであの子に対しても厳しく躾けようとか、ありませんでしたから」
 ただ他人を積極的に不快にさせないように、これはまったく危惧するところではなかったけれど、そして最低限のマナーを守り、あとは健康であれば、本格的な形式など細かいことにはこだわらなかった。だが彼は結局、死んでしまった。
「改めて、いただきます」
 加霞もその対面で、久々に温かな飯を食らった。



「また様子をみに来ますが、いいですか」
 生天目は風呂にも入っていった。半乾きの髪が新たな印象を与える。
 2人は玄関ホールにいた。生天目のほうはすでに靴を履いていた。加霞は手を握られ、彼の濡れると細かく割れる毛束から我に帰る。
「はい。生活音があると落ち着きますから」
「お酒は飲むなとは言いませんが、控えてください。私もビール控えます……………だめですか」
「お酒、飲まれるんですね。用意しておきます」
「僕、車ですよ。泊まらなければならなくなります」
 2人は互いに目を逸らした。妙な沈黙が流れる。
「問題がなければ……どうぞ」
 加霞から口を開いた。握られた手にもう片方の手を乗せた。外された視線が戻ってくる。
「いいんですか、お邪魔して」
「慣れなくて。まだ。……一人暮らし」
 彼は包まれた腕を引く。加霞も引かれるまま身を任せる。久城家のボディーソープと使用者のいなくなったシャンプーの香りに、生天目の匂いが混ざり、彼女を包み込む。肉感のあまりない骨張った抱擁だった。
「女性にこうするのは……初めてですから、ぎこちなかったらすみません」
 上手く言葉に出来ず、亡弟の担任教師の背に腕を回す。見た目よりその肉体には分厚さがある。
「先生」
「先生、ですか」
「まだ先生と、お呼びしてもいいですか」
「はい。どうぞ……久城はこれからも、私の教え子です」
 肩口に頬を寄せた。ニットの感触が腫れた目元に痛い。
「髪、触れてもいいですか」
「傷んでいますが、それでよければ……どうぞ」
「ありがとうございます」
 宣言どおり、髪に手櫛が入っていく。頭を撫でていく手の感触が心地良い。加霞は目を眇めた。
「先生……」
「今日はお酒なくても、眠れそうですか」
「はい………多分」
「今度は2人で飲みましょう」
 長いこと抱き合っていた。生天目の腕の中は程よく温かい。外に出ると空は暗くなっている。絡ませた指がなかなから解けずにいた。



 玄関を開けてすぐに口付ける。指が何度も絡み合い、手を組み合う。唇を押し付け合い、20代半ばの男女のキスにしては拙く粗い。
「おかえりなさい」
「ただいま、久城さん」
 リビングに入り生天目は死亡除籍した元教え子の位牌の前に手を合わせた。いちご牛乳のパック飲料を置かれる。
「学校の自動販売機で、飲んでいたのを見たことがあるものですから」
「ありがとうございます」
「……つらくなりますか、こういうのは」
「いいえ……あの子は、勉強はあまり得意じゃないみたいですけれど、学校は好きでしたから。嬉しいと思います」
 加霞はダイニングテーブルを拭く手を止めた。
「クラスであったこと、たくさん伝えてあげてください」
 対話相手を不安にさせる間があった。加霞は亡弟の位牌の前に座っている教師を見下ろす。振り向いたままの彼の眼鏡の奥の目とぶつかった。大きく照っているように見えた。
「彼がいないクラスが……寂しいです。他の奴等は少しずつ活気を取り戻していますが、やはり……」
「そうですか。わたしが思っている以上に、クラスの子たちにくしてもらっていたんですね。ありがとうとお伝えください」
 静寂の時間が流れる。生天目はぼんやりと虚空を凝らしていた。そういう不思議なところがある。
「どうぞ、ソファーに座ってください。今お茶を淹れますから。コーヒーにしますか。紅茶もあるんですけれど」
 教師はゆったりと脚を解いてソファーに移った。
「喫茶店みたいですね」
「そうですか?よく来客があったので」
「久城の日直ノートに、時々出てくる方ですか。マナツさん。色々なところに行ったと話していました。登山や釣りなど……」
 加霞は鼻を痒がるように苦々しく笑った。
「そうですね。1人ひとり、覚えてくださっているんですね。先生がクラス担任であの子も幸せだったと思います。以前相談した時期なんかは、あの子にとって多分、学校が一番、気の休まるところだったと思うので」
 生天目はまた妙な間を作った。返答や反応に窮しているわけでもないようだった。表情を繕うこともなく、自然体な無表情は凪いでいる。
「コーヒーをいただいてもいいですか。明日はお休みですから。コーヒー飲むと、眠れなくなってしまうんです」
「今淹れます……明日、お休みなんですか?」
「はい」
 今度は彼女が返答のタイミングを誤る。そのために黙った。
「ご迷惑でなければ、飲んでいってもいいですか。床で寝られれば、十分ですから」
「そうおっしゃらず、ソファーで寝てください。あの子のベッドを使うのは、気が引けるでしょうから」
 彼はまたぼんやりしている。厭世的な感じがある。
「僕も、一人暮らしには慣れませんでした」
 コーヒーカップを彼の前に置いたとき、その乾いた唇が譫言うわごとのように動いた。
「教員になったばかりの頃ですか」
「………―そうですね。すみません。おかしな話をして」
「聞きたいです。生天目先生、あまり自分のこと、お話してくださらないから」
 生天目は嘘臭い愛想笑いを浮かべた。
「ちょくちょくしていませんでしたか、自分語り」
「していたかも知れませんけれど、もう少し、知りたいですよ。知れるのなら」
 眼鏡にグリーンやブルーが反射する。その奥には驚いた目があった。顔を背けられてしまう。
「面白い話は苦手です」
「面白いかどうかより、話したいかどうかです。お話ししたくなったら、聞かせてください」
 彼は何度かコーヒーカップを口に運んだ。相変わらずぼんやりしている。加霞は夕食の支度に取りかかった。


 脱衣所はあまり広くない。2人入ることはできるが、大きな動作はできない。間近にある角張った背中に接触を図る。胸を押し当てた。ブラジャーを外した大きな膨らみがたわみ、男の体表によって支えられる。
「久城さん……」
 彼が振り返る。照れと困惑がある。少しずつ表情の固さが溶けていっている。
「男の人の身体って、いいですね。強そうです」
「そうですか?けれど僕は、あまり腕力に自信がありません。座ってばかりいますから。もしかしたら久城さんのほうが、その点しっかりしているかも知れませんよ。仕事と家事をこなしているんですから」
「そこまで差、つきますかね」
「日々の積み重ねですよ」
 彼は浴室に入っていく。加霞も続いた。
「湯船に入るのは久々です。家ではシャワーですから」
「お風呂、入りに来てください。一人暮らしでお湯を溜めるのも、なんだか……」
 そういうつもりはなかった。加霞は微苦笑を浮かべる。すると生天目は振り向いて裸体同士抱き合った。
「これから温まるのに、変ですね」
 長い抱擁を解いて彼が柔らかく微笑する。
「こういう温まり方もいいものだなって、思いました」
 唇が落ちてくる。何度かぶつかって、離れていく。成人した男女2人の接吻にしてはやはり不器用な感じがある。人間からみた動物たちの可愛らしい挨拶のような趣がある。
「生天目先生……」
「もう少し、久城さんに温めてもらいたいです。いきなり熱いのは苦手ですから」
 どちらの体温が高いのかは分からなかった。ただ心地良く馴染む。
 やがてシャワーを浴び、洗い合う。生天目は淡々としていた。後ろから抱えられながら湯船に入る。弟の好きだった入浴剤が溶いてある。深い海を思わせるブルーに、2人の下肢が影絵のようになっている。男の骨張った白い手が湯を掻き寄せ、加霞の胸にさざなみを作る。
「不自由な仕合わせというのもあるのかも知れません。自由では得られなかった仕合わせが」
 彼はぽつりと溢す。加霞が後ろに首を回すと、最近懐き始めた野良猫を思わせる不精巧な所作で頬を寄せた。
「はい……?」
「自由に振る舞えなかった、と久城のことで久城さんは泣いていました。僕は……あくまで僕は、久城にとってそれが不仕合せなことには思えませんでした。あの時の疑問が、今なら分かります」
「不思議な人ですね、生天目先生は。わたしは……あの子に、シアワセになってもらいたかった。不幸せは絶対ダメです。平常フツーじゃ物足らない。毎日シアワセに生きていて欲しかったんです。健康に、楽しく、生きてるって楽しいんだなって。フツーに生きるのが、意外と、偶然に頼っていたことだなんて思わなかったものですから……」
 湯の濃いブルーと相俟って、温まっているにもかかわらず、女に波を掻き当てる男の手は血色が悪く見えた。
「あの子のシアワセなんか考えてなくて、多分、わたしをわたしが、肯定していたのかも知れません」
「久城さんの考えをすべては否定しませんが、僕は、それだけではないと思います。きちんと久城さんは、久城個人の仕合わせというものを想っていたと思います。愛情はエゴになりがちです。たまに混同します。無私でなければ愛ではないのに、それが却って、押し付けがましかったり……それに気付くと、きっとつらいものです」
 ぱしゃ、ぱしゃ、とお湯を掻く手が子供の水遊びみたいだった。青褪めたような白い手を彼女は鎖骨の少し下、胸の辺りで止めた。
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