Lifriend

結局は俗物( ◠‿◠ )

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Lifriend flower 未完結6話(2017年)

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 写真嫌いなの。中村がカメラを持ち上げたが佐伯は跳ね除けるように言い放つ。中村はきょとんとしてそれからにへらと笑う。おれも。鼻垂れ小僧を思わせる間の抜けた面。佐伯は眉根を寄せた。嫌いと言った。写真を。それなら何故カメラを持つのか。
 答えがなくてさ。佐伯がいつも中村に向けるものとは違う顔の歪め方したことを中村は訊かれもせず答える。
 こっちとこっち、どっちがいい写真か、それは分かるけど判断基準のおれのセンスが悪いだけかもだろ。飲み込みづらい物を飲み込んだ時のように難しい表情をして中村は説明する。
 真実を写す、だから写真、それも胡散臭ぇよな。カメラを持ちシャッターを切る姿をよく目にする者が言っているとは思えなかった。
 だから装うしかないんだよ。愛しそうにカメラを撫でる中村の手は本心から写真を嫌っているようには佐伯には見えなかった。
 じゃあ私も綺麗に撮ってくれるの。そう言っていた。写真が嫌いだと、そう言って断ったばかりではないか。そのことについて何も言わず、中村は片眉を上げて、もちろん、と返した。
 花壇を囲うレンガの上に座らされ、用務員が甲斐甲斐しく世話をしている花を背景に視線の誘導まで指示される。
 少し作りすぎたかも。真剣な顔で中村は今度は何の指示もせず佐伯を撮る。
 仕上がったら渡すな。中村は屈託のない笑顔に戻り、何枚か撮った。別れる流れで佐伯は思い出す。中村は何も咎めはしない。咎められに来たのか、佐伯は自嘲した。言うか言うまいか迷いながら佐伯は中村の前から去れないでいた。
 どうした?カメラを弄りながら中村は顔を上げる。佐伯は首を振った。言わないでおこう、そう決めて佐伯は立ち去ろうとした。中村が佐伯の腕を掴む。帰ることを促したのは中村ではなかったか。
 カッコつけて気にしてないフリしてたけど、やっぱ気になるわ。ははは、中村は笑う。何か言いたいことでもあった?と首を傾げた姿を見ると佐伯は突然泣きたい衝動に駆られた。中村の言ったことが心遣いのように感じた。情けない姿を晒してまで佐伯に気を気を遣っているように。中村に見られたくない、佐伯は唇を噛み締め、地面に入ったひびを見つめる。
 別になかった?優しい声だ。中村はこういう人物だったか。佐伯は潤みはじめた瞳を見開いて、零れないようにした、何か言わなければと焦れる気持ち。
 ちょっと何か買ってくる。ミルクティーでいい?中村が問う。要らない、の意で首を振れば、ミルクティーでは不満の意と受け取られ、炭酸飲料やフルーツジュースを挙げられる。
 大丈夫。一言そう出れば中村は安心したようで肩を下ろす。落ち着いてからでいいから。中村に言われてこくりこくり頷く。
 私じゃない、ってこと、言いたかった。口は上手くない。いきなり切り出してもいいものか。佐伯は簡潔にまとめた。何がよ。中村は、ん?と訊き返す。
 水かけたのも、上履きゴミ箱入れたのも、他のことも、私じゃない。背後からせせら笑う、上っ面の関わりをしてきた女子たち。仲良し、という言葉を安売り、友情を叩き売り。心を開ききらなかった自身が悪いのか。佐伯はひどく惨めな気分になった。ただ寄ってきて少しずつ色々話すようになって。だがそれでも全て何か計算がある。口下手で静かな佐伯に飽きて去って、そして徒党を組む。また違った友情の看板を掲げて。離れて行ってしまったが情が傾き始めていた友人ら。佐伯は耳を塞ぎながら過ごすことにした。
 うん、知ってる・・・けど?
 中村は何言ってるの?と言いたそうに佐伯の顔を覗き込む。中村の返答を空耳かと疑って佐伯も中村を見つめる。目が合い3秒ほど。吹き出すように中村が笑顔になってお互い視線を外す。
 おれ何か変なこと言ったかと思っちゃった。
 横目で盗み見る中村の耳が朱色に染まって、中村も顔を手で扇いでいる。柔らかい笑みが佐伯の口元に浮かぶ。
 大丈夫、おれ知ってっから。
 言い直して中村は空を仰ぐ。橙色に染まってきている。不本意な感情を誘う、青に重なっていく橙とそのグラデーションから佐伯は目を逸らしたかった。溜め込んでいたもの、堪えていたものを吐き出すことを許してしまいそうでこの小柄な男もそれを許しそうだ。
 言いたいこと言っちゃったら。どうなるかは分からないけど。
 能天気なことを言って中村はまた空を眺める。その図こそ佐伯は一枚撮ってみたいと思った。
 私、口下手だから、変コト言って傷付きたくない。
 口は災いの元って言うしな、中村が頷く。夕日に照る中村を見つめていたい、そう思った。だが素直に晒した弱みに佐伯は顔を上げられそうになかった。
 ごめん、もう帰るね。
 中村は静かにバイバイ、と呟くように返すだけだった。


 額と額がぶつかる。前髪のさらさらとした感触が伝わった。鼻先が榛名の通った鼻梁に触れそうだ。
「こうすると、落ち着く、っスね」
 隣人が水道でも使っているのか、普段気にならない程度の生活音が鼓膜に届く。榛名はすぐに身を引くこともなく、暫く黙って額を佐伯の額に当てている。子どもの熱を測るような体勢で。佐伯にとっては大型犬とのスキンシップのように思えた。
「りっちゃん、落ち着いた?」
「取り乱してるように見えた?」
 榛名が無邪気に見つめて瞬く。睫毛が音を立てそうだ。訊ねられて佐伯は苦笑した。
「“てっちゃん”がりっちゃんは意地っ張りって言ってたスから」
 また“てっちゃん”か。佐伯は違ったの?と言わんばかりにわずかに肩を落とした榛名にありがとう、と返す。榛名と“てっちゃん”しか知り得ない自分がいる、そのことに実感はなかったが、脳内を流れていく光景が幻や妄想だとも思えなかった。
「私意地っ張りなんだ?」
 榛名も強烈な人だった、と佐伯の知らない佐伯をそう言っていた。
「りっちゃんがパンクしそうな時、“てっちゃん”がこうしてたんス」
 額に手を伸ばす。すでに消えている温もり。榛名の額は温かかった。
「はやてが」
 やはり記憶がない。ただ懐かしい感覚はあった。初めて“はやて”を認識した日。初めて、自ら。
「“てっちゃん”みたいに上手くできないスけど」
 榛名が沈んだ表情をする。上手く出来なかった幼い子の様子に似ている。佐伯は抱き締めてしまいそうだった。
「ううん、ありがとう、大丈夫」
「オレが落ち着きたいのも、あったんス。ごめんなさい」
 佐伯から顔を逸らして一瞥。計算か無自覚か。怒られてもいい、許されたい、謝ってしまいたい、榛名には裏がないのか。素直すぎるのかそれとも頭が悪いのか。佐伯は榛名の目を凝視してしまった。目は嘘をつかない、目は真実を映す。胡散臭い迷信。佐伯は見つめていても捕らえて吸い込もうと積極的な赤茶の双眸が突然恐ろしくなった。榛名の双眸に嘘だの真実だのは映っていない。忌々しいほどのガラス玉、それだけだ。抉り出して、手に入れて愛でていたい。
「じゃありっちゃんも大丈夫そうだから、オレ帰るね」
「もう帰るの?」
「覚えてないんスか。昨晩倒れたんスよ、りっちゃん。多分貧血でしょうけど、今日はちゃんと休んでくださいね」
 ソファから立ち上がって榛名はコーヒーカップを2つ手に取った。それを制しても榛名は佐伯の空いたカップまでシンクに持って行ってしまう。玄関へ向かう榛名を追うと、榛名は戸締りの心配をした。お邪魔したっス。靴を履きながら言う榛名が広い背中を向けるのを見たくなかった。
「何ももてなせなくてごめんね」
「こっちが勝手に押しかけただけっスから。それに」
 あなたが見送ってくれるだけで。空耳か、実際に榛名が言ったのかは分からない。佐伯の妄想だったのか、否定できずにいた。聞き返すこともしなかった。
「また来てね。何か・・・う~ん、練習して作れるようにしておくから」
「なんスかソレ。むしろオレが持って来ます」
 また来てくれるのか。佐伯は安堵する。チェーンもちゃんと閉めてくださいね。夢の中の男に瓜二つの男も記憶の中で戸締りを気にしていた。二人とも、心配性なのか。空き巣被害の経験者か。
「さようなら」
 扉が閉まっていく。榛名と佐伯を隔てていく。さようならとは言わないで。返さず佐伯は扉が閉まる音を聞いた。


 本当に別れるのかよ。顔だけが取り柄の刺激のない男が渋った。そう言ったのはそっちじゃない。冷えた声で佐伯は言った。他の人には見せない、情けない面を晒す。別れることに肯定的になった途端にカレシは佐伯を引き留める。こういう気持ちだったのだろうか。佐伯は少し前の自身を恥じた。
 分かった、私から言うよ、別れて。
 全て委ねていたからいけない。全てこのカレシに任せて、流れるように破局を受け入れた。それがいけない。佐伯は自らが別れたいと口にする。カレシは驚いた顔をして首を振る。
 別れたくない。
 地味子にフラれたと聞いていた。だからか何の情も抱けなくなったカレシを冷えた目で見る。
 私たち、別れるのが自然の流れじゃない。
 この男に言われた言葉をそのまま返す。反発が生まれた「自然の流れ」という曖昧で便利な言い回しを言った本人ならばどう返すだろう。
 俺は別れたくない。
 知らない面を見ていくのだ。交際していく間には見せなかった格好悪い姿。それを別れる方へ行ってから見せてくる。
 だって付き合ってられるの?このまま。
 話はまとまらないままチャイムが鳴る。佐伯は動こうとしないカレシを置いて教室に戻る。まだ別れた、という扱いではないのだろう。廊下から聞こえる笑い声が癪に障った。

 ははっ、マジでフッたんだ。
 放課後に中村だけ教室に残っていた。用はない。だが覗き込んだ。用はないけれど。橙色が差し込む暗い教室でも中村は明るい。佐伯は何も返さなかった。
 じゃあ付き合っちゃうか。
 中村が笑う。冗談か本気か。佐伯はまだきちんとは別れられていないことをどう説明しようか、またそれが必要かを考えている間にタイミングを逃す。
 なんつって。おれ夢あるから、今はそれで精一杯。
 本気にした?と無言のまま佐伯に中村は訊ねる。本気にしたのか、冗談と分かっていたのか佐伯にも分からなかった。だが特別嫌だとも思わなかった。
 何かあったらまた来いよ。相談ってほどじゃないけど、吐いちまえ。
 華のない冴えない男だが夕陽に照らされる横顔は絵になった。
 でも私、あなたのことよく知らないし。
 それなら何故、自らの弱さを吐露したのだろう。佐伯は言ってみて、この前の中村とのことを思い出す。思い直せば中村のことをほぼ何も知らない。おそらく中村も佐伯のことを。
 じゃあ、これから知っていかない?友達になろうぜ。
 中村は幼い八重歯を見せた。


 静寂に包まれた玄関で、佐伯は扉を見つめ続けた。榛名に言われた通り、内側から施錠しチェーンを掛けておく。リビングに戻って一度ソファに座った。無意識に榛名が口付けた首筋を掻く。ベランダを誰かが横切ったような気がして佐伯は反射的にベランダを向く。
 夢の中の男が居る。榛名がいた時とは違う。レースカーテンの奥だ。ベランダの手摺りに手を掛け、上半身を傾けながら外を見下ろしている背中。
「はやて?」
 行方不明なんス。榛名の声、榛名の言い方。そのままリフレインする。佐伯はソファから立ち上がりレースカーテンへ向かっていく。曇天の中、消えていきそうな、だが真っ白い服装で外を眺めている。佐伯に気付かないのか、夢の中の男は背を向けたまま。
 行方不明なんス。言い辛そうに榛名はそう言っていた。帰って来たのだろうか。忠犬に何も告げずに。
「はやて?」
 もう一度呼ぶ。強化ガラスが声を阻むのか、夢の中の男は佐伯の夢の中と同じように答えようとはしない。レースカーテンを握る。捲ったら夢のように消えてしまいそうだと思った。
「榛名くんが来たよ」
 呼んだことのない呼び方で佐伯はレースカーテン越しの夢の中の男へ言った。聞こえていないかも知れない。もしくは反応しないかも知れない。そうは思っても佐伯はこの者とコミュニケーションをとりたいと思った。夢の中の男は変わらず、外を眺めたまま。何を見ているのだろう。近くにあるのは公園とマンション、それから土地の高低さで遠くに見える高層ビル。
「ごめんね」
 何について謝っているのかは言えなかった。どう表現していいのか分からなかった。そして口にすることで向き合ってしまうことを佐伯は恐れた。レースカーテンの奥でゆっくりとその者は振り向く。少しずつ見えてくる冴えない質素な顔。同情するような、哀れみの込められた視線を向けられる。佐伯はそう受け取れた。曇り空から現れる日差しが、真っ白い服に身を包んだこの者を攫っていく。
「はやて、行かないで」
 レースカーテンを破るように開き、壊しても構わない勢いで窓ガラスのカギを解く。雑音を響かせ開け放たれる。誰もいない。絵具が水に溶けていくように消えていった。
「はやて」
 あの者が見ていたものが気になった。佐伯はベランダに出て景色を眺める。興味を引くものも、惹かれるものも、気になるものも特にない。変わり映えしない景色を見ていたのだろうか。
「はやて、私は」
 続く言葉は全て言い訳と化してしまう。それを自覚してしまうと口を噤む。素直に心情を吐露できる榛名を羨ましいと思った。夢の中の男がいたところと同じ位置に立ち、同じ場所に触れる。

 ふざけないでよ、あんなヤクザみたいな人…
 中村の肩を掴んで佐伯は怒る。紹介された大柄な男は美しく端麗さはあるが険しい顔立ちをしていた。そして愛想がない。声も低く、会話を続ける気がないのか簡単な返答しかしない。
 シベリアンハスキーみたいだろ。
 佐伯が怒っていることを気にもせず中村はその男を親指を翻すように差して佐伯に小さな袋を渡す。アイシングクッキーが4枚入っている。綺麗にラッピングされていた。シベリアンハスキーを頭に思い描くが、オオカミやシェパード犬というほうがイメージに合う。中村からアイシングクッキーを受け取ってもう一度話題の男を見た。ありがとう、と言って機嫌を取るためなのかも分からないアイシングクッキーを透明なフィルム越しに眺める。
 あいつも気難しいやつだから、ごめんな。
 ハルナだかナナミだとか名乗った男は小さく返事したが何と言ったのかは聞き取れなかった。後輩として働いてもらうと中村に言われたまではよかったが、その者が堅気の仕事をしているようには見えなかったことで佐伯は中村の身を案じた。さらに住み込みの可能性もある、と中村は付け加えた。中村名義で同棲を始めたマンションは広かった。住み込みで助手がつくことも佐伯は承知していた。だがその男が態々わざわざガラの悪そうな大男である必要はあったのか。
 どれだけ遅くなってもオレ、帰りますよ。
 佐伯と中村のひそひそとした会話にその男は遠慮がちに言った。中村が佐伯の背を軽く叩いてから物静かな男の前へと行ってしまう。
 なるべく2人きりにはしないから。でも便所の時はカンベンな。
 向き合うこともしない佐伯と物静かな男の空気を破るかのように中村は明るい声を出す。困ったな、と言いたそうだったが佐伯は上手い言葉が浮かばず黙ってしまう。
 すみません、“てっちゃん”
 親しそうに中村を呼ぶ。佐伯は反射的にハルナという男を見てしまった。吊り上って凛々しい目元が柔らかう眇められ、笑っている。表情筋が発達してないのでは、と会って短時間で疑ってしまっていたのに。
 奥にいるから何かあったら呼んで。
 佐伯は2人をリビングに置いて自室に向かった。淹れたてのコーヒーの香りが充満した室内のドアを開けて新鮮な空気を肺に送り込む。落ち着いた会話が聞こえてくる。リビングから出ると左側に玄関がある、郵便ポストとは別にある玄関ポストを覗いた。最近の習慣になりつつある。中村は郵便ポストしか見ない。今日は何も入っていない。あるいはこれからか。中村からもらったアイシングクッキーを持ちながら佐伯は自室に戻る。ほぼリビングにいるため自室は更衣室代わりだった。自室の窓を開け放とうとして、すぐにやめた。今日は天気が良かったが遮光カーテンも閉めてしまう。アイシングクッキーの可愛らしいデコレーションを眺めながらテーブルの上に置く。あの男は信用ならない。色調を整えられたリビングやトイレ、廊下、浴室、同居人の部屋と寝室とは違い佐伯の部屋にだけは色がある。ホワイトとブラウンとグリーン。ありがちな配色の中でも佐伯の部屋にだけは鮮やかなレッドや彩度の高いイエロー、パステルピンクなどいくつも色がある。
 佐伯は雑誌を開きながら居間の胡散臭い男が帰るのを待つ。何のようで、どういった付き合いなのか。気にはなるが中村に深く問うのは気が引けた。夕飯の支度の頃には帰るかと思ったが空が紺色を帯びはじめ、雲を渋い橙に染める時間帯になってもあの男は帰っていない。少し歩けばすぐ辿り着く部屋にいるであろう中村にメールを打ち、買い出しに出掛ける。3人分作らねばならないのか。洋風な絵本に出てきそうな造りの新興住宅地を抜ける。小規模も小規模な庭には色とりどりの花や植物が植えられオブジェが置かれている。晴れた昼に見るとよく手入れの行き届いた草花に目を奪われる、買い物はいつも中村と行っていた。あの男はまた来るのだろうか。メールの返信で、1人で大丈夫かという旨の短い文が届いていた。大丈夫。短く応えた。中村は放任なのか心配性なのか分からない。追撃するようにあの男は今晩どうするのかを問うメールを送る。泊まるのなら寝具はどうすればいいだろう。考えながら佐伯は歩く。背後から足音がする。新興住宅地は人が多い。珍しいことではないけれど、思い込みが激しい性格は自覚していた。いつもは隣に中村がいた。だが今日はいない。よく知っている近所の道が広く思えた。2車両すれ違うのもひと苦労する道幅だというのに。
 今晩の夕飯は何にしよう。思考を働かせて不安を拭う。背後の足音もおそらくただの通行人だ。曲がっても曲がっても足音は遠ざからない。目的地が同じなのだ。この辺りの最寄りの商店街にあるスーパー。時間帯的にも混む頃だ。次を曲がればきっと、そう思いながら横断歩道の赤信号で止まる。足音は不自然な位置で止まる。閑静な住宅地を抜けて車が走る音で掻き消されているのかも知れない。忙しなく携帯電話を閉じたり開いたりを繰り返す。通知は何もない。全て妄想で、神経質になっているだけ。分かっていても佐伯はおそらく自宅の居間で談笑しているであろう同居人に電話を掛ける。1人で買い物にも行けない面倒な女だと思われたくなかった。
「はや、て」
 電話を掛ける理由ならある。あの男は夕飯はどうするのか、酒は冷蔵庫にあるのか、何が食べたいのか。早く出て、早く出て、たった数回のコールが何時間単位のようだ。一生出ないのでは。嫌な汗をかきはじめている。
「中村サン」
 変わったばかりの苗字で呼ばれ、佐伯はびくりと肩を揺らす。聞き慣れていない声。我に返って目の前にある信号が青に変わっているのを視界は捉えるが、歩くことは脳まで伝達されないまま。
「行かないんスか」
 あまり似合っていない黒髪が目にかかったのを男は雑に払った。佐伯は信号を確認して歩き出す。睨み上げてしまい、男は驚いた表情をした。
「“てっちゃん”に様子見てくるよう言われたので」
 隣を歩き始めた男を一瞥する。それなら中村が来るべきだ。
「帰るの?」
 男に問う。
「はい。長居してすみませんでした」
「食べて行くのかと思ったんだけど」
「さすがにそこまでは」
 ぶっきらぼうな言い方しか出来ない佐伯に調子を合わせているのか、もともとそういう性分なのか男の調子も暗く低い。
「3人分作る気でいたんだけど」
 追い出したいわけではなかった。信用に足らないだけで。
「それなら今度お邪魔します」
 男の名前を思い出す。何と言ったか。ハルナだっただろうか。わずかに笑みを浮かべられたような気がして、佐伯は見つめてしまった。
「オレ、こっちなんで。長居して、ホント、すみませんでした」
 ハルナが丁寧に頭を下げる。長い前髪がまた目にかかり、男は邪魔そうに掻き上げた。ハルナの小さくなっていく背。不安がいつの間にか消えている。
 佐伯が自宅に帰る頃には近所の夕飯の香りが住宅地に漂っていた。玄関の電気も点けっ放しで居間は暗い。ソファに横たわる中村の寝息が聞こえる。いつもはソファの背凭れに掛けてあるブランケットが腹部に掛けられ、カップや茶菓子は片付けられている。買い物袋を置いた佐伯は貴重品を確認する。あの男は信用ならない。
 通帳も印鑑もある。中村の携帯電話もガラスのテーブルの上に置かれている。今日のところはまだ何事もない。カウンターキッチンの照明だけを点け、夕飯の支度をはじめる、明かりに反応して中村がぴくりと動いたのが愛らしく、佐伯は頬が緩んだ。
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