彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「行ってもいいですよ。この件に関しては、わたくしに責任の一端がございます」
 投げやりに布団に呟いて青年は膝を抱く。
「虚構です。それだけは忘れないでください。の者は存在しません」
 弱々しい声は夫のものに質がよく似ていた。
「二公子には正直に申し上げます。貴方にも二公子にも、他に償う方法を俺は知りません」
 語尾は掠れていった。天藍の普段の言動や態度を考えれば無事で済むはずがない。
「俺が上手くやっていれば、貴方は今、こんな軟禁生活を強いられずに、」
「わたしは日記帳というわけですね」
 布団を捲る。刀を抱く姿は普段よりも縮んで見えた。書院窓を開け放ち、錠剤を投げ捨てる。女の奇行を青年は黙って見届ける。
「償ってほしいなんて思ってない。貴方はあの人じゃないのに、どうして貴方が償うの?一体わたしに何をしたっていうの?あの人が…貴方が。どちらかっていうなら…貴方が物を食べられなくなったのは、わたしのせいなんじゃないの」
「それは違います!全然違います…!全然…」
「あの人の受けた仕打ちを考えたら、わたしは貴方に責められて然るべきだから。遠慮しないで」
 明滅する。口に運ばれていった、暴れる節足動物。逆光のためにはっきりしていなかったことだけが救いだった。
「何をおっしゃいます。貴方は俺を…の者を庇ってくださった。それだけで…」
 彼は前のめりになった。蒼褪めていた。口元を押さえ、嘔吐えずく。丸まった背を撫で摩った。浅い息を繰り返し、呻いていた。刀を支えにして上体の均衡を保っている。居間の卓袱台にある水差しへ走り、彼へ飲ませる。血の気の失せた唇がせっかちに水を溢した。
「すみ…ませ…ん」
「変な話をしてごめんなさい」
「いいんです。斬られた貴方に比べれば、掠り傷ひとつも負っていませんから」
 顎から滴り落ちる水を拭ってやると彼はそれを厭う。懐かない野良猫のような突慳貪つっけんどんな手付きがどこか独走的な夫の姿を思わせた。仕草の端々に現れる。眠気を帯びた目元がさらに夫と化していく。大した情など持ち合わせていないはずだ。明るい茶髪の若者に掻き乱される。しかしこの青年の言うとおり、虚構の存在に過ぎない。
「もう貴方の声も聞けないのかと思いました。貴方に俺の名を呼んでいただけないのかと。もう貴方の姿を目に焼き付けられないのかと…そんな時にまで、俺は俺として貴方に見てもらえないのかと…」
「群青殿は女騙すけこまし…」
 呆れたように答えると群青は喉に物が引っ掛かったような苦しげな顔をした。
「本心のつもりだったのです」
「寝る。おやすみ」
 まだ眠くはなかったが、話せば話すほど互いに疲弊していくような気がしてならなかった。
「おやすみなさいませ…」
 敏い彼は寝られないことに気付いているはずだった。加湿器が低く咆哮し湯気を吹く。雁字搦めにされたように動けなかった。
 これは独り言です。初めて貴方にお会いした時、貴方は愛されて、何不自由なく育った安穏なお方だと思っていました。他の御令嬢とお変わりない、方だとばかり…厨房で貴方に庇っていただいた時から気になって、少しずつ…夜も眠れませんでした。この感覚が何なのか分からなくて…初めてだったものですから。貴方のことが知りたくて堪らなくなって、自分のことを話したくて堪らなくなって、でも俺には貴方に開け広げて話せるような潔白なものなんてなかった。そんな俺に貴方は気を回してくださった…山吹様の婚約者だった貴方に俺は不相応な感情を抱いておりました。俺は仕事に生きると決めていて…でももし貴方と生きられるのなら、俺は仕事がなくても生きていけると思いました。貴方に刃を向けた時、諦められると思いました。手に入りそうで、手に入らない。期待と理想ばかりで虚しくなって、貴方を知ってから俺は仕事以外に本当に何もないのだと知りました―
 うつらうつらとした意識が静かな物語りに煽られ、徐々に沈んでいく。
「起きてください。朝餉を食べましょう」
 布団の上がわずかに重くなる。そして左右へ揺すられた。
「起きてください。朝ですよ」
 鼓動に合わせ、優しい手付きが言葉の内容を裏切り、さらなる眠気に引き摺り込む。
「朝に弱いんですね、意外です」
 心地良い揺り籠から這い出る気は起きなかった。
「魚をいただいたんです。腕にりをかけました」
 珍しく長い介入に極彩は布団から顔を出す。健康的な暮らしをしていないくせ、健全な笑みがどこか挑発的だった。起きましたね、と呟き、布団を強引に捲る。
「どなたかいらしたの」
 話の断片を拾い集める。まだ快然としない思考を誤魔化した。目元を擦る。
「菖蒲殿が先程。朝市があったらしくて。土産にいただいたんです。どうぞ、お召し上がりください」
 襖の奥の大きな部屋には豪奢な食事が並んでいる。
「口に合うといいのですが」
―一緒に…暮らすなら…ちゃんとする、から…お料理も…洗濯もする…
 眠そうな目が細まる。

 天井が広がっていた。昼前だろう。室内は明るかった。喉が傷む。加湿器もまだ眠っていた。人の姿はなかった。窓の奥の警備兵も見当たらない。卓袱台の上には弁当と紙片が置かれていた。急用ができたことと、戸締りに気を付けろという旨が記されている。曲げわっぱを包む趣味の悪い大判の手巾の結び目に見慣れない箸が挟まっていた。曇った銀製の箸かと思われた。しかし短く、太さは両端部で変わらない。片方には返しがついている。暗器だ。静かな部屋を睨む。足音を殺しながら戸棚を暴き、空き腹に群青が隠していたらしき飯匙倩はぶ酒を拝借した。胃が熱くなる。辛味に噴き出しかけたが、飲み込んだ後は甘味が強かった。早朝に機械がこなした洗濯物を干す。酔いが回りはじめると、鼻唄が居間を飾った。手元が狂い、衣紋掛けに男の襯衣を通す作業も簡単にはいかなくなった。しかし女は鼻唄を続け、段々と口遊くちずさむ。洗剤の香り、好きな歌、温まっていく身体と曇天の奥の日差し。誰もいない。構い合う野良猫もいない。多幸感に包まれる。覚束ない足が籠を蹴った。女は転んだ。肩を打った。起き上がらない。充足感が立ち上がることを嘲笑していた。満たされていく。女は喜悦に口角を歪めたが、顔面にくしゃりと皺が寄り、大粒の涙が床を濡らす。傍に突き立てた指が白くなり、潰れた頬が引き攣る。誰も聞いていない。誰も見ていない。女は唇を噛み吃逆と嗚咽を繰り返し洗濯物を干す。己から漂う酒気に嫌気がした。沸騰しそうなほどの幸福感はまだ女を歌わせ続ける。
「もうやめろって」
 親しげに若者が近付く。弱くはためく洗いたての襯衣に見え隠れしている明るい茶髪に歌は途切れた。言うことがあったはずだが忘れてしまった。面と向かって話せそうだったが、話すことなどなかった。
「誰のために泣いてるのサ?」
 彼は一歩近付いた。後退る。
「ひとりで泣くなヨ」
 彼は両腕を広げた。女は首を振る。瘋癲ふうてんの若者は大窓に追い込まれている酔っ払いを迎え入れる。洗濯物が包帯の巻かれた腕から落ちた。
「ぼくと行こう?ぼくならあんたをひとりで泣かせないヨ。独りで酔わせて、こんな惨めな思いさせない…」
 捕食者の立場でありながら、男の髪色と同じ瞳は怯えていた。
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