彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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そうしているうちに後頭部に硬い質感が触れた。押し付けるような当たり方で、気配も音もなかったが、背後に人間がいることを確信する。
「三公子の場所が知りたい」
 聞き惚れるほど鼓膜に馴染む美しい、男性の声だった。縄を切る刃物がまだ春も訪れていないくせ瑞々しく生えている雑草のうえへ静かに転がった。
「もう一度問う。三公子の場所はどこだ」
 喋り終わるのが惜しく思うほど鼓膜を愛撫される。
「知りません」
 後頭部に当てられている小さいながらも硬質だと分かるそれは何なのか想像がつかず、身体は固まる。手慰みに桜を捕縛している縄を指で引っ掻きながら、開拓される予定もなさそうな草原を眺めていた。そこには先程目にしたばかりの、馬のような大きさで鹿のような外観に近い奇妙な獣が少し遠くに佇み、こちらの様子を窺っていた。鼻先から生えているらしき紐状の一部が意思を持って蠢いている。発煙しているのかと見紛う形のない尾は極彩の知っている獣の中にはなかった。危機的状況にいる自身を現実から救うためにみせた妄想の産物に違いない。でなければ説明のつかない珍妙なものがいる。
「三公子の居場所を本当に知らないのか」
 後頭部にさらに圧が加わる。
「まるきり知りません」
「本当だな」
「城にいないのは確かなようですが、それ以外は」
 押し付けられていた物が離れた。動きかけた首に、もう一度それが当たる。
「振り向くな。時に、不言いわぬに用はあるか」
「今のところはまったく」
九蓮ちゅーれん街には行かないことを勧める」
 故意的ながらも自然な足音がした。遠ざかっている。九蓮ちゅーれん宝燈ぽうとん街は不言通りでも天和てんほう街、地和ちーほう街に次ぐ大きな区画だった。蟄居を命じられている身では行くことはなく、予定にもない。通ったことはあっても知った店はなかった。
「桜」
 縄を切り、ぐったりした身体を支える。口元を覆う粘着性のある札を剥がし、息を確認した。片膝を立て上体を凭せ掛ける。縛られた痕が痛々しく浮かんでいる手を腹の上に重ね、彼がよくしていたように手の甲で頬や首の温度を確かめる。しかし何も分からない。ただ首に蚊に刺されたような小さな赤みがあった。その部分を指の腹で柔らかく撫でた。幻覚が音も影もなく傍に現れる。表面を埋め尽くす硝子のような鱗が青く輝き、あかぎれに似た瞳孔は昼間の猫の如く、皮膚病の犬を思わせる険しい顔立ちは鹿でも馬でもない。辺り一面が霧に包まれ、妄想の獣は極彩の傍に座り込む。桜へ徐ろに噛み付こうとしたため、その犬化した蛇のような横面を引っ叩いてしまった。
「やめて。噛まないで」
 愛らしくない容貌で甘えるように極彩の顔を覗き込んだ。菖蒲の犬にしてやるように牡鹿よりも逞しい角の生えた頭を撫でる。さらに接触を乞うため角が当たり、頭に刺さった。桜にも幾重にも枝分かれした角の先端が刺さりそうになる。角と桜の間に身を割り込ませ、後頭部や背中に角が軽く刺さった。肩に擦り寄られ、犬や猫とは違う無機質な肉感が布越しに伝わった。適当に撫でて制した手を甘く噛まれる。幻覚のくせ、尖っている歯は痛かった。だが不思議なことも起きて、折られた指から鈍い痛みが消え、軽くなる。鯰のヒゲのように鼻の真下から伸びた紐状の器官が無邪気に極彩や桜を叩く。
「桜、起きて」
 狂気に呑まれそうだ。もう一度呼び掛けると桜は身動ぐ。立ち去れとばかりに奇怪な獣を睨むが、そのようなものはどこにも存在せず、草原が広がっているだけだった。霧は晴れ、春を目指す冬の空に白い雲が泳いでいる。桜は彼女の腕の中で目を覚ました。どういう態度で接していいのか分からず、彼が振り返ることを恐れた。
「御主人…?」
 人質だった若者から顔を背けてしまう。突き飛ばすように彼を放して立ち上がる。霧は実際にたちこめていたらしく青い絨毯に接していた脚を覆う布は湿気を帯びていた。状況が分かっていないらしい桜は座り込んだまま周りを見渡していた。
「柘榴さんたちが心配しています」
「どうして……ここは、どこなんですか…」
「酔っ払ってでもいたのでは」
「お酒をいただいた記憶はありません。もしそうだとしても、どうして御主人がここに?」
 冷たく言い捨て、小丘をくだる。桜はきょろきょろしながら後ろをついてきた。
「御主人」
「柘榴さんや銀灰さんに訊かれるといいですよ」
 振り返りもせずに答えた。立ち入り禁止看板の裏側が見え、桜花さくらの木が一列に並べられている土手を歩く。早苗川埋立公園が遠くに見えた。大規模な公園には子供たちの姿が望めた。
「御主人。いい加減現実みられないんですか」
「どういう意味です」
 肩を掴まれ強い力で向き合わされる。
「いつまで縹様の優しさに甘えているつもりなんですか。あの優しい人はきっと貴方を許します。今のこの有様だって…!」
「縹さんが優しかったことはわたしもよく知っています。けれど限度というものがありましょう。わたしはそれを踏み越えた。真偽はとにかく、わたしの認識は」
「御主人の成すべきことはご遺言に従って銀灰さんのお傍に居ることのはずです。取り返しのつかない過ぎたことに縛られたまま、ずっと足踏みしているつもりなんですか!」
「それも悪くありません。成り行きで再会してしまいましたが、もう会うこともないでしょう。何度でも言いますが、遺言には従えません」
 火葬を懇願し、二公子に屈した時から。
「御主人…!」
「分かり合えないものは分かり合えません。銀灰さんとは桜さんが兄弟杯を交わしてください。そのほうが相応しく感じられます」
 しっとりした手を肩から払い落し、河川の名残のある道をなぞった。桜はもう後ろをついてこなかった。また攫われはしないかと心配はあったが叩き割った関係の罅に目を背けることができなかった。小石を蹴りながらとぼとぼと蟄居先へ帰っていく。玄関前には菖蒲が出迎えるように座っていた。大きく開いた膝に肘を着き、頬杖をついている。まるで歯を痛がっているみたいだった。傍に座っていた犬が極彩の足元へ走り寄る。
「おかえりなさいまし。…無事です?辞表はしまっておいてもいいですね?」
「はい…抽斗ひきだしの奥深くへおしまいください。あの、三公子のことを訊かれたのです」
 極彩の膝裏に犬は胴体を押し付ける。柔らかな尾が大腿を掃く。機嫌の好さそうな犬に反して飼い主は重苦しげな面持ちをしていた。
「何と答えました?極彩さん、三公子がどこにいらっしゃるかご存知です?」
「いいえ。城にはいないと答えました」
 焦りを垣間見せた菖蒲の態度に、誤りがあったのかも知れないと不安になった。胡散臭く媚びた笑みを常時浮かべているはずの男は、自身の眉間を揉み解す。
「そうですか。教えていませんものね。人質はどうなりました?」
「無事解放されました。それから…九蓮ちゅーれん宝燈ぽうとん街には行くなと…」
「…門前通り?不言のです?」
 九蓮宝燈街の中の最近整備されたばかりの通りを菖蒲はふと例に挙げた。
「詳しい場所は聞いておりません。ただ、行くことは勧めないと」
 菖蒲は眉の皮を摘まみながら固まり、地面を凝らす。
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