彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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※火災の描写あり

近況を話し、杉染台にいつか立ち寄ると言って別れかけたが、杏が九蓮宝燈街に向かおうとしたため反射的にその腕を掴んでしまう。まるで見た目は正反対だったが、彼は記憶の中の師に重なるところがあった。慌てるあまり、細かく編み込まれた長い髪の房までも引っ張ってしまいそうだった。
「…どうした…?」
 杏は少ない表情の中で驚いた顔をしたが怒った様子はなかった。
「どちらに行かれるんですか」
 余計な世話だと思いはしたが、彼は嫌な顔ひとつせず、特定の食べ物に過剰な免疫反応を起こし、呼吸困難や炎症を起こしてしまう子供に特殊な製法の食材を買いに行くと説明した。専門店が確かにこの先にある。九蓮宝燈街の端の区画のはずだ。ふと、何か起こるのではないかという不安が押し寄せる。杏の姿が人混みに紛れていく様を想像するのも息苦しくなった。
「一緒に行ってもいいですか」
 強張ってしまう。穏やかではない汗に寒くなりながらも火照っていた。でしゃばった真似をしても杏は柔和に承諾した。
「…ただし…逸れても困る。手を借りるぞ…?」
 杏は彼女の手の負傷に気付いたらしく、包帯の巻かれていない方の手で繋げるよう手を差し伸べた。厚く広い掌に方向を委ねる。目的地の店に着く前に彼は甘薯かんしょの焼菓子を買い与え、店前で食べながら待つように言った。人々は屈託なく往来する。通行する波を左右で分けても、その条例には法的拘束がないために決まりごとは守られることなく、肩をぶつけ合い、荷物をぶつけ合い道を流れていく。食い逃げに憤る叫びにびっくりして身を跳ねさせた。喧嘩や抗争は不言いわぬの華だった。それが馴染むほど、この土地に生きてしまった。しかし今日は違う。雑踏ひとつひとつが主張している。甘薯の焼菓子はほくほくとして甘く、素材の味と混ぜられた牛乳や香子蘭ばにらの風味とで美味しかったという漠然とした感想はあれど、浸っていられるほどの感慨は得られなかった。杏が買い物を済ませる時間はおそらくほんのわずかな時間であったにもかかわらず、長く感じられた。何事も変わりはない。日常的な騒ぎはあるが騒動も乱闘もない。そのために、交通規制があるはずのこと地区で牛車とすれ違ったことに神経質な不信感を抱いた。普段の決まりごととはわずかに違う光景が、気になって仕方がない。
「…このまま杉染台、寄るか?」
 杏の穏やかな無表情に答えようとした。焼菓子を片手に腕を引かれ、周囲の人間に気を遣いながら北上する。九蓮宝燈街から早く出たいという気になっていく。整備が終わったばかりの道幅が拡げられた門前通りという区画に入った頃から頭の奥からではない耳鳴りが聞こえた。しかし誰も気にする様子はない。日常に入っている人々は気付く様子がなかった。名指しで呪いをかけられた極彩は過敏になって、杏の手を引いた。厳つい美丈夫な外見とは大きく差異のある優しい杏はその無礼に腹を立てることはなかったがいくらか心配を浮かべて極彩を覗き込む。
「…白梅。…さっきからどうしたんだ?」
 継続する微かな音に、全身が硬直した。杏の問いに上手くはぐらかす回答を用意していなかった。やはり愛庭館で働くのは向いていなかったのだとまったく関係のないことを考えはじめて、それでもまだ激しい不穏が離れることはない。薄い膜が走る彼の口唇が動いて、しかし視界は目に映るものすべてを真っ白く消した。耳が壊れるほどの爆音に倒れそうなほどの強い風が吹く。殴られたような衝撃が頬を打ち、軌道を捉えると誰の物かも分からない千切れた手首が転がっている。固唾を呑んだ。玩具としか思えなかったが、生々しく濡れ、しかし同じくらい作り物のような嘘臭さもあった。黒煙が上がり、熱気に包まれる。数十秒前に来た通りが燃えていた。妖怪と見紛う紅蓮に凝然とする。
「…無事か」
 後ろから腕を引かれ、我に返る。埃や塵で白く汚れた杏の双眸がそう遠くない空を照らし赤々としていた。また小さな爆発が起こり、彼の背に隠される。片耳は雑音ばかりが轟いていたが、完全に機能を失ったわけではないらしく曇った音を拾っている。杏が腕を上げ極彩の前に広がる現状を閉ざそうとしたが、それでも吐き気を催すような惨憺たる有様は容赦なく飛び込んでくる。惨たらしい叫喚や啼泣ていきゅうが木霊している。
『九蓮街には行かないことを勧める』
 片耳の奥は外界には存在しない音が纏わりついたままで、極彩は頭を抱えて屈み込む。火災を告げる高らかな鐘が脳内を殴打する。
「歩けるか…?…杉染台で待っていろ。…ここも危険だろう」
 肩を軽く揺すられ、杏は手巾を口元に巻くと炎が立ち昇る方向へ進んで行った。逃げ惑う人々と倒れている人々、様子をみに来ようとする人々で不言通りは混乱を極めた。暫くぼうっとしていたが、杏を追う。熱気が肌を炙った。四方八方から水が飛ぶ。湯気を上げ、音を上げ、白く渦巻いた。様々なものが燃える異臭が胃や鼻や喉を嬲った。近くから助けを求める声が聞こえ、爆風による瓦礫で下半身を挟まれた女性を助け起こす。見た目の怪我は軽かったが、腰を抜かして自力では立てないらしかった。頭の中は真っ白で、火災現場を往復しながら、巻き込まれた人を助けられる範囲で九蓮宝燈街の隣の区角へ連れ出した。気付けば掌に軽いながらも火傷を負い、煤で汚れていた。焦げ臭さと拮抗する花の香りが鼻腔を突き抜け、痛みと痺れが共存する掌が治っていく。そのたびに瓦礫に触れ、火傷を重ねた。
 杏の姿を探しながら鎮火する気配のない繁華街を進んでいく。啜り泣く声が聞こえ、近付く。牛車の籠が燃えていた。牛が不自然に横たわり、傍らには御者が蹲っている。状況を分かっているのか否か、泣いてばかりで動く気配がなかった。極彩の視線に気付くと、こうするしかなかったのだと叫び出した。こうするしかなかった、こうするしかなかった、と繰り返し、生死不明の牛を撫でる。御者が死なせたのだろう。牛が暴走しないように毒殺したのだ。御者はそこに留まったままで、逃げる気配がなく、極彩は言葉も交わせずにふらふらと酔っ払ったように火の海を歩いた。滅ぼされた故郷と消された退廃地区の風景がまったく似ていない街に重なった。破壊消防が始まり、延焼の恐れがある家屋が倒壊していく。目を背けたくなる死体の山々は俯いていても目に入った。杏を探し彷徨う。喉が痛み、目が沁みた。頬が炙られる。料理店と思しき建物が小さく爆発した。日常であったなら大事の規模であるはずだったが、今では些細なものだった。
『九蓮街には行かないことを勧める』
 内部から心臓を押し潰されるような心地になって膝を着く。布越しであっても地面は熱くて仕方がなかったが、立ち上がる体力はあれど、抗う気力はもうなかった。そこから数件離れた燃え盛る店と店の間から少年が飛び出してくる。怪我はなさそうだったが、火の粉を払うように暴れていた。挙動不審で、ひどく戸惑うその姿に見覚えがあった。緩く波を打った黒い髪と、日に当たらない白い肌。立場の割りに粗末な衣類は大きかったくせ成長によって体格に沿っている。彼は崩れ落ちる極彩に気付いた。耐えるように薄い唇を噛んで、不機嫌な眉はいつにも増して強く寄っている。
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